「エリザベート」二回目、見てきました。
やっぱり、二回目は違うものが見えてくるものですね。
初見で感じた「新鮮さ」の意味が、私なりに納得できました。

水トート閣下って、閣下自身は「孤独」ではないんですね!
トートは”死”として完全な充足した存在だった。けれど、エリザベートに恋をした事で傷を負い「青い血を流す」不完全な存在になる。
これは驚きでした。
今までの(少なくとも私が見た限りの)宝塚のトート閣下は、皆、とても孤独な存在だったように思います。(私はサエちゃんトート閣下の寂しがり方が大好きでした)←どっかで、こんなセリフがあったような(^^ゞ
それは、エリザベートが孤独な存在であるのと同じで、もう決まりごとだと思っていたんです。改めて考えてみる事も無いくらいに。

後半、トート閣下がエリザベートを「ずうっと、待っている」穏やかさが、すごく印象的で…。
ルドルフに対しても、エリザベートに対しても水トートは”誘惑者”ではなく、”待っている”存在なんだなーと思いました。
そして、黄泉の世界に向かう二人を優しく迎えてくれる「いつか辿り着くところ」。
エリザベートに拒否された時、すごく激しい(怖いくらいの)反応を返すのと、昇天の場面で彼女を優しく包み込む余裕の、ギャップが大きくて。こんなに余裕のあるトート閣下って新鮮だなぁ…と初見で感じたのです。

二回目の観劇で、やはり初見で印象的だった少女のエリザベートに命を返した後、立ち去る時に「待って!」と呼びかけられて振り返ったトート閣下の満面の笑顔を見て、「ああ!水トート閣下自身は孤独ではないんだ!」と私なりに納得したのです。

エリザベートを黄泉の世界から戻した後の場面。月組版では、家族や親戚に囲まれた明るい光の中にいる少女と、青白い何も無い空間に一人で歩み去るサエちゃんトートの孤独な背中が本当に対照的で。凍てつくようなトートの孤独を表す場面、だと思っていました。今回はトートの”恋の始まり”の場面なんですね。うーん、なるほど。

今まで「エリザベート」って、ただ一人黄泉の世界に君臨する孤独なトートが、その孤独故にエリザベートを求める…というお話だと思っていたのですが。
今回は、トートの「孤独」はエリザベートに恋をして求めるのに、何の関係も無いんだ!
目からウロコでしたね。
そういえば、今回のウィーン版のトートも別に孤独な存在でもなく、完全な存在だったような。まあ、あれは別の話だから関係無いっちゃ無いけど。

とりあえず、これで。
雪組「エリザベート」について、続きます。
雪組さんをあまり見ていない月組ファンの呟きです。お気に召さない事など、無いとよいのですが…。

ウィーン版来日公演があり、宝塚が同時期にエリザベートを上演すると聞いた時、「ザ・タカラヅカ!」という感じになるだろうなーと思っておりました。「歌手」でない水・となみコンビで、わざわざこの時期に上演するのも、まあ半端な歌で向こうの歌に張り合っても限界があるでしょうし、「タカラヅカ」らしさをアピールして並べるのが妥当な策だろうと思いました。

でも。
今まで色々な組で「タカラヅカ」なエリザを見てきたわけですし、改めて「ザ・タカラヅカ!」ってどうなの?と思っておりまして。
月組版が大好きだったので、申し訳ないけど、正直言えばあまり期待せずに行きました。ネットの感想もほとんど読まない状態で見てきたのですが…。
結果は、「面白かった!」でしたね。まだまだ月組版を体で覚えている状態で、でも、だいぶ記憶が薄れてきた頃合。意外にちょうど良いタイミングのように思いました。”違い”を楽しむのも再演の楽しみの一つ。本当に全く違っていて面白かったですね。

月組「エリザベート」、本当に大好きだったんですよ。贔屓の組で、贔屓の生徒さんが熱演し、成長していて…幸せな時間でした。
月組の「エリザベート」は個性的な月組生が、それぞれ目いっぱいに客席に向かって自分の役の人生を主張して、金平糖のように飛び出してきた印象の作品でした。どの人物の主張も納得できるし、でもお互い絶対に分かり合えない痛み。人生を信念をかけた主張をぶつけ合いながらも、相手は家族。愛情故に、妥協してはくれないかと期待されているのを知りながら、拒絶しあう人々。
「エリザベート」って、こんなにも「痛い」話だったんだと思いました。

そして雪組再演版「エリザベート」は。
「ザ・タカラヅカ!」なエリザベート。
無邪気に自由を歌う無垢なエリザベートと、彼女を優しく熱く見守るトートの恋物語。
彼女の周りの人々は、皆ひたすらに真面目で優しいオーラを纏っています。エリザベートに敵対するような人々も、冷たさを感じさせず、真面目にその人なりの主張で生きている。
皆さん、キラキラの美形で、ちょっと童顔系。そして、雪組さんって、全体に若いんですね。
なんだかねー、まるで全体にふんわり 優しくてキラキラしたベールがかかっていたような気がしたんですよ。
影も毒も感じさせず、濁りの無い澄んだ色あいの「エリザベート」。
「ザ・タカラヅカ!」なエリザベートは「オシャレで可愛いフェアリー」達が作る、ロマンティックな恋物語なんだなーと。
「エリザベート」ってこんなにもファンタジックな話だったんだ…というのが、雪組再演版初見の感想でした。
あと二回見る予定ですが、この後、感じ方が変わっていくかどうか楽しみです♪
やっと、雪組エリザベート観劇してきました。
面白かった〜!とっても新鮮でした。

ともかく、となみエリザベートが可愛い!!
もう、可愛くて可愛くて可愛くて、何をどうしても「しょうがない」という感じですよ。どんな事を言われても「可愛いから…ま、いいか。」と納得しちゃいます。
いきいきとした生命力、無邪気で無垢な、まっさらなままの魂の美しさ。

そして、無邪気過ぎる故にまわりに向ける刃。
彼女は人間の「欲」を理解しない。
故に権力も権威も、それを象徴する為にある「宮廷のしきたり」も、全く意味が分からない。
まるで「妖精の取替えっ子」のように人間社会というものが理解できずに、夫にも子供にも馴染めずに一人で彷徨い続ける。
実在のエリザベートとはまるで違う話だとは思いますが、これはこれで良いと思いました。
だってここは「タカラヅカ」、史実なんてどうだっていいのです…となみエリザベートの可愛いさの前にはどうって事ありません(^^)

そして、トートの水さん。
激しくて、めちゃくちゃエリザベートを愛していて、暖かくて優しいトート閣下。
すごく印象的だったのが、最初の出会いの場面の後、助けたエリザベートを現実に返した時の微笑みと、ラストの昇天の場面でした。
見えない筈のエリザベートが自分に呼びかけた時、歩み去るトート閣下が優しく笑ったのが、まず最初の衝撃。
そしてラストの昇天の場面で、やっと寄り添う事ができたエリザベートを見つめる、暖かくて優しい瞳。
エリザベートの魂を包み込むように微笑むトート閣下。その隣で、やっと「人生」を受け入れて、穏やかに世界を見回すエリザベート。
このラストは私にとっては衝撃でした。初めてこの場面の意味が分かった気がしました。

冷たい爬虫類系のビジュアルとは裏腹に、水トート閣下は情のある優しい「死」なんですね。
さえちゃんトート閣下は「冷たく甘美な誘惑」としての「死」という印象でしたが、水トート閣下は「いつか辿り着く所」であり、穏やかな充足の場所しての「死」というイメージでした。
「死は逃げ場ではない」という拒絶も、昇天する時のエリザベートの全てを受け入れた顔を見て、すごく納得しました。
今までのエリザベートは、最後に「少女」に戻ってしまう印象だったのでそこで幸せになるのは「逃げ場」とは違うのか?と、ずっと疑問だったんですよ。今回、初めて納得できた。「人が死を愛する」ってこういう事なのかー。

フランツのゆみこちゃんも素敵でした。
まず、何よりも歌が良い!まろやかな優しい「宝塚の男役」の低音が、凄く素敵でした。
ともかく、本当に優しい皇帝でしたねー。あんなにも、どこまでも優しいフランツ、というのも新鮮でした。
フランツって、どうしてもエリザベートに対する「無神経さ」が嫌な役だと思っていましたが、ゆみこちゃんにはそういったイヤミが無いんですね。どこまでも優しくて、ものすごく真面目な皇帝陛下。皇帝の義務を果たす為、あまりの真面目さ故に母に従うばかりの彼を、人間社会の意味がわからないエリザベートは、理解できないんですね。これは、もうしょうがない^^;
優しくて、ひたすら真面目で…寂しい皇帝陛下でした。

時間切れ。また続きます。
「あかねさす紫の花」について、続きです。

中大兄とは反対、にイメージだけで額田を愛したのが、天比古ですね。
天比古にとっては手の届かない遠い姫様ですから、額田を”美”の象徴として、自身の仏師になる夢と重ねて見ている。
額田が宮中に上がってから、姿を見る事さえかなわないという点では、菩薩様そのものとあまり違いがありません。
もはや彼のなかで額田は、人間ではないんですね。でも本人はそれに気づいてない所が、この役の切ないところ。
実際には天比古のような、自分のイメージを勝手に女性に押し付ける男の人は沢山いますし、かなり鬱陶しいものですが^^;
天比古の場合は身分違いで姿を見る事もできないのに、あんなに落ちぶれてまで、ただ遠くから夢見ているのが切ないですよね。
あまりにも純粋な彼が思い描く額田は、さぞ清らかで美しい夢想であった事だろうと思います。

また、遠くから額田を思う違う身分の天比古は、額田と大海人、中大兄の三人を客観的に描く視点ともなっています。
難波津で、天比古の人生を語る場面は、同時に額田の里での出会いから五年後の状況を観客に説明する場面になります。
天比古の人生が、そのままメインの額田サイドのドラマの説明になる、構成とキャラクタ造形の巧みさは何度見ても感心します。
そして天比古のドラマが、平行して動いていた額田のドラマと出合った時。
生身の人間である額田を見て絶望する天比古の姿に、観客は額田が”清らか”に生きてはいない事を納得させられます。
嘆く天比古の姿に、観客である女性はつい「勝手な事言わないでよ!」と腹を立てて、額田に同情してしまうのではないでしょうか。
でも同時に、大海人を想いながらも中大兄を受け入れる、”清らか”ではない額田の、情愛の甘美さに浸ってしまうわけですね。
更に「女には、外から見ていても分からない、生き方もあるんだよ…」という小月の台詞に、一緒に「うんうん、そうだよー」と頷いてしまう。
本当に見事な構成です。

この天比古は、役者さんにとっては本当に遣り甲斐のある役だろうなーと思います。
少ない出番ではありますが、人生の希望と悲哀がギュっと凝縮されていて、ラストにはそれまでの人生を全て否定する大芝居があって。なかなかこんなに芝居のしどころ見せ所の有る役は無いと思います。
でも、この全ツで演じたマサキ君は、私的にはちょっと…でした。歌や大きな見せ場のある「美味しい役」と思って、演じていたような…。どうも、そんな下心があるように見えてまって。
この役が「美味しい役」なのは、全霊をかけた芝居をさせて貰える役だから、なんですけどね…。
声が良くて、台詞の抑揚の付け方とかは上手いんですよ。学年を考えると、十分良くやってるとは思いました。歌もすごく良かったんです。
でも、小月のれみちゃんもですが、なんだか、二人とも清潔でさっぱりしていて、つまらない。初めてちょっとした挫折を経験した、成績優秀スポーツ万能の優等生少年と、クラスメートの気の強い女の子の、中学生日記のようでした^^;

この二人を見て、もう今後この世代で柴田作品を表現する事はできないのかもしれない…と心配になってきたくらい。
力強くて清潔感のあるれみちゃんの小月を見て「イマドキ、遊び女の後ろめたさなんて言われても困るよね。確かに、職業に貴賎は無い…というのは正しいしなぁ」なんて思ったりして。
中日のねねちゃん小月にも、少し清潔過ぎると感じたような気がしました。
ひろみ天比古はすごく良かった。天比古の複雑な感情をしっかり表現した、良い芝居をしていたとは思います。でも最後、今までの人生をすべて否定して、小月に縋りつく場面だけは、やはりキレイ過ぎるかなーと思いましたね。

まあ、私は宝塚を見始めて10年くらいの若輩ものですから、昔からのファンの方から見れば、柴田作品を語るのもおこがましいとは思いますが。
中日公演を見にいった時、隣の席の方達がイマドキの生徒さんは、何か違うと…話していらして、私もそうかもなぁと思いながらその会話を盗み聞きしていました。
確かに、CSで流れる昔の映像を見ると、何か感情の密度のようなものが違うように思えます。ま、宝塚に限らない事なのでしょうけどね。

まだまだ続く
モバイルタカラヅカの「タカラヅカ☆メロディー」のリクエスト投票で、今月は「Dear Scott」がエントリーされています。
現在5位。この投票、毎日1回しか投票できなくなってから、かなり難しいものになりましたね。絶対、忘れる^^;
まあ、上位二位までに入って「タカラヅカ☆メロディー」に追加されても、着メロとかで使ったりしませんけどね。ダウンロードはするけど。だって不意にあの曲が流れてきたら、泣いてしまうかもしれないじゃないですか。危険危険。

先日、CSの「こだわりアラカルト」の子役特集で「THE LAST PARTY」のスコッティが出てるのを、うっかり見て泣きそうになりましたし。
スコットの誕生日に、公園でスコッティと踊る場面。ちわわちゃんも、杏ちゃんもめちゃめちゃ可愛い。

月組は、これは東京の映像ですよね?
踊りを終えたスコットが、娘を抱きしめる時に泣きそうな顔をしたのは、東京からだったような気がするなー。
いや、バウのDVDを確認すれば分かる事だけど(^^ゞ
宙組さんは既に青年館バージョンがCSで放送されているので、どちらも東京の映像を流したのかな?
早く月組も東京版を放送してくれないかな。
早く東京版を見て泣きたいです。

今度のバウの前には、演出家特集等で放送されるとは思いますが…12月まで待たされる、なんて事はないよね?
続きです。

「飛鳥夕映え」もあったので、この時代の本など、いくつか読みました。
石川麻呂も、祐飛さんが演じたので親しみのある人物なので、つい色々と考えてしまいます。

中大兄と石川麻呂、中大兄の妻となった石川麻呂の娘達とその子供達は本当に複雑な関係です。あまりに濃く、ドラマチックなので、その心境については色々な説があるんですね。
この作品には、そのあたりの事は全く語られてはいません。
なので、特に中大兄について調べたりせず、プログラムの年表さえ見ずにに公演を見たのですが、祐飛さんの中大兄をみていたら切れ切れの中大兄についての知識を思い出したんですよ。その後色々調べて、祐飛さんは中大兄の人生をかなり研究した上で演じていたんだなぁ…と。
歴史上の人物を演じるうえで当たり前の事ではありますが、この作品で語られていない時間の中大兄の人生と、その心情を全部作り上げた上で、「あかねさす紫の花」の中に存在しているのが感じられます。
祐飛さんが頭の中で作りあげていた中大兄中心のドラマ、見たかったです。

中大兄の人生って、本当に盛りだくさんに色々な事があっているんですよね。この作品の中では、一瞬で過ぎている間にも。
有間の温泉(ゆ)の場面は、息子の健皇子が亡くなって半年近くたった頃。
それから10年後の即位の宴の場面の間には、朝鮮に戦争しに行って大敗北して帰ってきたり、母・斉明天皇や妹・間人皇后を亡くしたり…。国内外の政治も山あり谷ありで、公私ともにものすごく大変な時期。
周囲に弱味を見せる訳にはいかない独裁者は、どんなにか孤独だっただろうかと思います。

で、祐飛中大兄の素敵なところは、そんな独裁者がまっすぐに額田を愛し、見栄も何も無く額田に屈しているところです。
あんなに冷酷で強くて立派な皇子様が、ひたすらに額田の心を求める姿に、胸を打たれます。
人間、あんなふうに愛される事って、なかなかありません。姉の鏡女王を恋人にしていた時の中大兄とは、まるで態度が違いましたし。
額田に縋る中大兄の、なんとも愛しいこと…。

私はこの「あかねさす紫の花」という作品が、本当に大好きなんですよ。
で、実は「この作品が好き」=「中大兄が好き」…というくらい、この作品の中大兄が好きなんです。
私が初めて見たのが博多座花組公演の中大兄編だったせいもあるとは思いますが、大海人編でもやっぱり中大兄が好き。
自分が不利な立場になると分かっていても、周りから恨まれても…それでも恋を選ぶ中大兄って、ロマンティックじゃないですか。
まわりの事よりも損得よりも恋に全てを賭ける男って、素敵だなーと思うワケです。現実的には困ると思いますが、フィクションの醍醐味です。
祐飛さんがこの役を演じる事が決まった時には、本当に嬉しかったです。

また続きます。
とりあえず、過去に書いたメモを発掘して並べておきます。

昨年秋の全国ツアー版「あかねさす紫の花」。
祐飛ファンによる、中大兄中心の感想文です。

祐飛さんの中大兄皇子を見て「大化の改心で、入鹿の首を落とし遺体を雨ざらしにした人だ」と、すごく納得しました。
冷酷で、目的の為には手段を選ばない。でも、悪人、ではない。
そこが難しい所だと思うんですよね。
悪い人にしてしまえば簡単なのに。
国を背負い政治を変えていこうとする、中大兄皇子の強い意志と激しさを見せたいらしい。
「政略」の場面で、大海人と額田が向き合って話す真ん中を、客席に背中を向けた中大兄が横切る時の、その背中の、すごい迫力…。
「私の心は大海人のもの」と言う、額田の言葉がなんとも弱々しく、空しく響きます。

激しい性格故に敵の多い中大兄と、人望のある大海人というのが歴史の定説ですね。
豪族から力を奪う改革を推し進める中大兄は、周りの豪族達は全て敵。
それを恐怖政治で押さえ込み、力づくで前に進んでいる。
中大兄を亡き者に…と考える者がでても当然。

そして、もしも大海人が兄に反目すれば、豪族達はこぞって大海人につく。中大兄は滅ぼされる事になるでしょう。
…大海人は、ジョーカーなんですね。大海人が味方である事は、中大兄にとってはとても重要な事だったのでしょう。

けれど中大兄なら、諸刃の剣である大海人が、敵に転じる前に切り捨てるというのも有り得る事です。
そんな大海人が「妻を渡せ」と言われたら。
妻としては体を売って、大海人を守るしかないでしょう。
額田が十市皇女を引き取ったのも、状況だけ見れば、中大兄が難癖をつけて大海人の妻子を人質に取ったように思えます。
大化の改新の協力者であった石川麻呂が一族ごと滅ぼされた記憶も、まだ新しい頃。
宮廷では次は誰が標的になるか…という恐れがあったでしょう。
どんな理不尽な事でも、従わざるを得ない。

そして中大兄にとっては、石川麻呂の娘である妻の遠智娘が亡くなり、しばらく過ぎた頃になるのかな?
石川麻呂を仲間にする為に妻にした人ではありますが、3人の子を産んでいます。
夫によって親兄弟を殺され一族を滅ぼされた悲嘆で、三人目の子を産んですぐに亡くなった妻。
その子、健皇子は生まれつき口がきけず、8歳で亡くなっています。
母親の深い悲しみがお腹の子供に影響したのだろうと、誰もが自然に思いますよね。
病弱なうえ、口がきけない忘れ形見の幼子は、無言で中大兄の行いを責める存在だったのではないでしょうか。

祐飛さんの中大兄は、大化の改新の前の額田の里の場面とはまるで別人のように、暗く冷たい孤高の人となって現れます。

そんな時に再会した額田は。
母になったばかりの喜びに輝いて、誇らしげに愛し子を抱いている。
幸せに満ち足りたその姿は、中大兄にとってよほど眩しいものだったのだろうな、と思えます。
その時中大兄は、額田の里で初めて出合った時の額田が「ある若い仏師が私の姿を菩薩に…」と話した事を、思い出したのではないかなーと思ったりもしました。
まるで、菩薩様が向こうから歩いてくる...くらいの衝撃で、中大兄は額田に恋をしたのではないかと。
自ら入鹿を斬り、多くの人を死に追いやり滅ぼしてきた中大兄にとって、額田は菩薩様のイメージと重なり「救い」の存在だったのではないか…と、今回の祐飛中大兄を見て思いました。

でも、決してイメージだけを愛しているのではないのが、祐飛中大兄の素敵なところでした。

…ここまでしか、書かれてなかった^^;
とりあえず、続きはまた。

まずは

2007年7月13日 日常
まずは、立ち位置表明。
ここは宝塚歌劇団月組と大空祐飛さんについて語る場所になる予定です。

宝塚を見始めてから10年と少しの月組ファン。月組の芝居が好きです。
現在の贔屓は大空祐飛さん。
最初はお気に入りの一人だったのが、ある時突然、ただ一人の人に。

…という感じで、公演の感想や思い出などを綴っていきたいと思います。
かなり偏った見方の、ちょっと変わった感想文になると思います。
世の中色々な人がいるもので「…ま、いいか。」とやり過ごしていただければ幸いです。

テスト

2007年7月12日 日常
思いつきで登録してみました。
どんなものになるか、まだ未定。
…ま、いいよね。

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