おかえりなさい、ルディ
2011年8月15日 演劇「おかえりなさい、ルディ」
8月13日、宙組東京特別公演「ヴァレンチノ」初日。
見終わった後に、ただ、その言葉がうかんできました。
帰ってきてくれた。
あの時。無残に奪われた、この作品の命が、希望の光が、戻ってきてくれた。
それが嬉しくて嬉しくて、夢中で手を叩きました。
久しぶりの「ヴァレンチノ」は、幕開きから、出演者の皆さんが、再演の喜びに光り輝いているのが見えるような舞台でしてた。
皆さんが、この作品が甦った喜びを全身で訴えているようにキラキラしていて、見ていて、もう、最初から胸が熱くなってしまいました。
その熱を持ったまま、舞台も客席も熱く、物語は終盤に向かい。「クラブ21」でリンチを受けたルディが、ボロボロになって歌う場面。
朝日を受けたルディの瞳に浮かんだ、畏怖の色に。その後、再び希望を歌う姿に、その美しい涙に、私も涙が止まらなくなりました。
人間とは、これ程に純粋で力強いものなのだと…圧倒されました。
信じて待っていて、本当に良かった。
ルディ、帰ってきてくれて、ありがとう。希望を持ち続けてくれて、ありがとう。
きっときっと、大変だっただろうに。それでも、この優しく力強い希望の光を、甦らせて届けてくれて、本当にありがとう。
心の中で、ひたすら「ありがとう~!!!」と思う、幸せな初日でした。
そして、翌日。14日の15時公演も見ました。
今日は、皆さんもかなり落ち着いてきた模様。カイちゃんナターシャのお化粧が、ビックリする程に綺麗になっていたり、お芝居も全体に地に足がついた感じ。
再演版ルディは、ドラマシティの時よりも、より無邪気で可愛らしく、そして、より大人で懐が深いなぁ…と、思います。ルディだけでなく、皆さんに精神的な成熟を感じますし、ずっと自由に舞台を楽しんでいるような感じを受けました。
今日は二階席だったので、後ろのほうの下級生もしっかりよく見えましたし、二階ならでの照明の美しさを堪能したり。
かなり上手端の席だったので、試写会後の場面で、ジューンを抱きしめたルディのお顔を上から見ることができて、これも二階席ならでは…と、感動しました。
昨日の熱いルディとは、ちょっと違う感じの芝居で、これから先の変化が、すごく楽しみになりました。
ドラマシティで作り上げて、東京公演で練り上げる…筈だった。それが奪われた時は寂しかったけど、これから更に深く、緻密に練り上げられていくのだと思うと、ドキドキします。今はただ、これからの公演を楽しみに見ていきたいと思います。
8月13日、宙組東京特別公演「ヴァレンチノ」初日。
見終わった後に、ただ、その言葉がうかんできました。
帰ってきてくれた。
あの時。無残に奪われた、この作品の命が、希望の光が、戻ってきてくれた。
それが嬉しくて嬉しくて、夢中で手を叩きました。
久しぶりの「ヴァレンチノ」は、幕開きから、出演者の皆さんが、再演の喜びに光り輝いているのが見えるような舞台でしてた。
皆さんが、この作品が甦った喜びを全身で訴えているようにキラキラしていて、見ていて、もう、最初から胸が熱くなってしまいました。
その熱を持ったまま、舞台も客席も熱く、物語は終盤に向かい。「クラブ21」でリンチを受けたルディが、ボロボロになって歌う場面。
朝日を受けたルディの瞳に浮かんだ、畏怖の色に。その後、再び希望を歌う姿に、その美しい涙に、私も涙が止まらなくなりました。
人間とは、これ程に純粋で力強いものなのだと…圧倒されました。
信じて待っていて、本当に良かった。
ルディ、帰ってきてくれて、ありがとう。希望を持ち続けてくれて、ありがとう。
きっときっと、大変だっただろうに。それでも、この優しく力強い希望の光を、甦らせて届けてくれて、本当にありがとう。
心の中で、ひたすら「ありがとう~!!!」と思う、幸せな初日でした。
そして、翌日。14日の15時公演も見ました。
今日は、皆さんもかなり落ち着いてきた模様。カイちゃんナターシャのお化粧が、ビックリする程に綺麗になっていたり、お芝居も全体に地に足がついた感じ。
再演版ルディは、ドラマシティの時よりも、より無邪気で可愛らしく、そして、より大人で懐が深いなぁ…と、思います。ルディだけでなく、皆さんに精神的な成熟を感じますし、ずっと自由に舞台を楽しんでいるような感じを受けました。
今日は二階席だったので、後ろのほうの下級生もしっかりよく見えましたし、二階ならでの照明の美しさを堪能したり。
かなり上手端の席だったので、試写会後の場面で、ジューンを抱きしめたルディのお顔を上から見ることができて、これも二階席ならでは…と、感動しました。
昨日の熱いルディとは、ちょっと違う感じの芝居で、これから先の変化が、すごく楽しみになりました。
ドラマシティで作り上げて、東京公演で練り上げる…筈だった。それが奪われた時は寂しかったけど、これから更に深く、緻密に練り上げられていくのだと思うと、ドキドキします。今はただ、これからの公演を楽しみに見ていきたいと思います。
明日は、青年館から宙組公演「ヴァレンチノ」が始まります。
やはり、感慨深いものがありますね。
あの震災で失われた東京特別公演。
なんだか、この公演自体が、突然の事故で未来を奪われてしまったルディとイメージが重なってしまったような気持ちがありましたから。
まだまだ、被災された多くの方々は苦しい生活をされていらっしゃるのだし、余震も無くなったわけではないけれど。
それでも、あの公演がもう一度見られるのは、本当に喜ばしい事です。
私は3月12日からドラマシティ遠征のつもりでしたが、本気で「今、遠出をして、二度と家族に会えなくなってしまったら…」と不安になって、諦めました。
結局、翌週には「避難だと思って行ってくる」と、不安を抱えたまま関西に向かいましたが。それでも、再び家族の顔を見るまでは、心のどこかで不安が残っていました。…あれから、5か月。
時間がたってからの強硬スケジュールでの再演で出演者の皆様は、本当に大変な事と思いますが、お体にお気をつけて頑張って欲しいと思います。
しかし、東宝公演が終わって、一週間で次の公演というのは、本当にすごいものですね。
発表された時は、ぼんやりと「大変そう」と思っただけでしたが、その時になってみると、ファンの気持ちの切り替えすら、まだついてない。
戦国武将と姫君のストイックで美しい生涯から、ハリウッド黄金時代のアメリカを舞台に切り替えるのって…どんなものだか、想像もつきません^^;
私の頭のなかは、まだ、三成様とお茶々様モードから、戻ってきておりませんので。
実は今朝頃まで、あの「美しき生涯」と「ルナロッサ」の世界を懐かしんで、寂しかったのです。
8月7日、東宝楽の日は友人達と「また来週~」と言ってお別れして。すぐに次の公演があるから、寂しくないような気がしていたけど。
やはり、公演が終わったあとはいつもと同じ寂しさがありました。
もう、あの美しい三成様もお茶々様も、この世界のどこにも存在しえないのだ。
あのうつくしい舞台は、公演が終われば、この世から消えてしまう存在なのだ…と思うと本当に寂しくなるのです。公演が終わった後にはいつも。
もう「ヴァレンティノ」のお稽古をしているだろう事までも、寂しく感じたりしていました。
でも、消えてしまうからこその儚い美しさがいとおしいものなのだな、とも思います。
そして今回は、石田三成氏の残した「散り残る紅葉はことにいとおしき 秋の名残はこればかりぞと」という歌を、改めて思い出しました。
私は石田三成氏が、本当に「紅葉」を詠った事を知らなかったのですが、何でも知っている友人に教えてもらいました。
秀頼様を”散り残る紅葉”にみたてて、”秋の名残”を豊臣の世と重ねて詠んだのではないかと言われているとの事。関ヶ原の直前だそうで。
この美しい歌だけでも、繊細で優しい方だったのだろうなーと、思いますよね。
そしてこの歌から連想して、琵琶湖のほとりでの会話を組み立てた大石先生のセンスも、とっても素敵だと思います。
心を押し隠した恋人達のあまやかな会話から、作品のテーマへ。本当に無駄の無い見事な組み立てですよね。
今回の脚本、物語もキャラクターもすごく好きなので、基本的にはよくできた作品だと思います。歴史ものの場合は、ある程度、観客が自分で調べて納得する部分があってもいいとと思う派ですし。
ただ、最初に見た時に?と思った事が多いのも確かだし、この作品で三成さんに納得できないと言う友人の言うことも、わかる。
で、考えてみると。作中に幾つかある、キャッチフレーズのような、キメ台詞。
「愛と勇気、どちらを選べばいいのか」
「男の真実は義だけではない」
「正義は勝つ」「我等は勝つ」
「裏切り者は許さん!」
等々の、派手なキメ台詞を無かった事にすると、この話、随分と謎が減るのではないかなー。耳障りの良い言葉を選んだつもりが、逆に混乱を招いたような。
それぞれ抱えている心情は、そんなに簡単なものではないのに、状況にそぐわない紋切型のキメ台詞がたくさん。
これを、言い換えたり、もうちょい詳しく言ってくれれば…。
少なくとも、私の頭の中では、三成さんの心の動きに疑問をはさんだりする事なく台詞の置換が完了しました(^^)
…なんて事を書いている間も無く、明日からは次の公演へ。
明日、青年館に行ってみれば、自然に受け止められるのでしょうけれど…。
ともかく、これで時間切れです。いつか、三成さんと、上様について、書けるといいなー。
やはり、感慨深いものがありますね。
あの震災で失われた東京特別公演。
なんだか、この公演自体が、突然の事故で未来を奪われてしまったルディとイメージが重なってしまったような気持ちがありましたから。
まだまだ、被災された多くの方々は苦しい生活をされていらっしゃるのだし、余震も無くなったわけではないけれど。
それでも、あの公演がもう一度見られるのは、本当に喜ばしい事です。
私は3月12日からドラマシティ遠征のつもりでしたが、本気で「今、遠出をして、二度と家族に会えなくなってしまったら…」と不安になって、諦めました。
結局、翌週には「避難だと思って行ってくる」と、不安を抱えたまま関西に向かいましたが。それでも、再び家族の顔を見るまでは、心のどこかで不安が残っていました。…あれから、5か月。
時間がたってからの強硬スケジュールでの再演で出演者の皆様は、本当に大変な事と思いますが、お体にお気をつけて頑張って欲しいと思います。
しかし、東宝公演が終わって、一週間で次の公演というのは、本当にすごいものですね。
発表された時は、ぼんやりと「大変そう」と思っただけでしたが、その時になってみると、ファンの気持ちの切り替えすら、まだついてない。
戦国武将と姫君のストイックで美しい生涯から、ハリウッド黄金時代のアメリカを舞台に切り替えるのって…どんなものだか、想像もつきません^^;
私の頭のなかは、まだ、三成様とお茶々様モードから、戻ってきておりませんので。
実は今朝頃まで、あの「美しき生涯」と「ルナロッサ」の世界を懐かしんで、寂しかったのです。
8月7日、東宝楽の日は友人達と「また来週~」と言ってお別れして。すぐに次の公演があるから、寂しくないような気がしていたけど。
やはり、公演が終わったあとはいつもと同じ寂しさがありました。
もう、あの美しい三成様もお茶々様も、この世界のどこにも存在しえないのだ。
あのうつくしい舞台は、公演が終われば、この世から消えてしまう存在なのだ…と思うと本当に寂しくなるのです。公演が終わった後にはいつも。
もう「ヴァレンティノ」のお稽古をしているだろう事までも、寂しく感じたりしていました。
でも、消えてしまうからこその儚い美しさがいとおしいものなのだな、とも思います。
そして今回は、石田三成氏の残した「散り残る紅葉はことにいとおしき 秋の名残はこればかりぞと」という歌を、改めて思い出しました。
私は石田三成氏が、本当に「紅葉」を詠った事を知らなかったのですが、何でも知っている友人に教えてもらいました。
秀頼様を”散り残る紅葉”にみたてて、”秋の名残”を豊臣の世と重ねて詠んだのではないかと言われているとの事。関ヶ原の直前だそうで。
この美しい歌だけでも、繊細で優しい方だったのだろうなーと、思いますよね。
そしてこの歌から連想して、琵琶湖のほとりでの会話を組み立てた大石先生のセンスも、とっても素敵だと思います。
心を押し隠した恋人達のあまやかな会話から、作品のテーマへ。本当に無駄の無い見事な組み立てですよね。
今回の脚本、物語もキャラクターもすごく好きなので、基本的にはよくできた作品だと思います。歴史ものの場合は、ある程度、観客が自分で調べて納得する部分があってもいいとと思う派ですし。
ただ、最初に見た時に?と思った事が多いのも確かだし、この作品で三成さんに納得できないと言う友人の言うことも、わかる。
で、考えてみると。作中に幾つかある、キャッチフレーズのような、キメ台詞。
「愛と勇気、どちらを選べばいいのか」
「男の真実は義だけではない」
「正義は勝つ」「我等は勝つ」
「裏切り者は許さん!」
等々の、派手なキメ台詞を無かった事にすると、この話、随分と謎が減るのではないかなー。耳障りの良い言葉を選んだつもりが、逆に混乱を招いたような。
それぞれ抱えている心情は、そんなに簡単なものではないのに、状況にそぐわない紋切型のキメ台詞がたくさん。
これを、言い換えたり、もうちょい詳しく言ってくれれば…。
少なくとも、私の頭の中では、三成さんの心の動きに疑問をはさんだりする事なく台詞の置換が完了しました(^^)
…なんて事を書いている間も無く、明日からは次の公演へ。
明日、青年館に行ってみれば、自然に受け止められるのでしょうけれど…。
ともかく、これで時間切れです。いつか、三成さんと、上様について、書けるといいなー。
宙組公演「美しき生涯」
2011年8月3日 演劇ご無沙汰してます。もう、ずいぶん更新してなかったんだなぁ。
ま、色々気にせず、気が向いたので書き留めておきます。
宙組公演「美しき生涯」について。終わってしまう前に少しだけでも。
まずは、いきなり直球で。
この作品の一番のびっくりポイントについて。
誰もが驚くと思う、あの場面。
鶴松君を亡くした茶々の生きる力を与える為に、次の子供って…そんなバカな!!と。
子供を、人の命を何だと思っているのか、この男?とビックリしますよね?
今とは違って、子供が亡くなる確率が高かった時代とはいえ、あんまりな言い方だと思います。
でも、2〜3回見ているうちに、そして、鶴松は赤ん坊の頃から病がちでも3歳程まで生きた事を知ってから、考えが変わってきたのです。
約20年の出来事を、一時間半にまとめたこの物語。時間経過の一言の台詞を入れるのも惜しくて、ひと場面にしてありますが。
常に命の危険を持った病がちの子供を二年間余りも看病し続けて、とうとう我が子を喪ってしまったこの時の茶々は、どれ程に悲嘆に暮れていた事だろうかと思うと。
何年間も抱き続けた初恋の形見であり、戦いで親を喪い、妹二人を嫁がせた後に得た、ただ一人の肉親。ただ一人の家族…ただ一人の愛する者。
天下人・秀吉の側室として所有される事になった茶々にとっては、もはや子供しか、家族を得る事はできないのです。秀吉はお市様に生き写しの茶々に執着しているとはいえ、それは愛とは違うもの。普通の家族のような愛情は、自分の子供としか望めない。
大石先生は三成を孤独な存在として描きたかったと語られていますが、この物語のお茶々様は、それ以上に、孤独な存在として書かれています。
命を狙われるような侍女達に囲まれ、心許せる相手は三成と疾風だけしか登場しないのですから。
愛する三成の為に身体も人生も売り渡した茶々は、三成の子と思われる鶴松を心の支えに生きてきて。
その子を喪った時、彼女は空っぽになってしまったんじゃないかな。
三成は上様の命令で結婚して子供もできていた頃でしょうし、そんな噂は伝わっても、もはや三成に会う機会もあまり無い事でしょう。
もしかしたら、三成は家族を得て、幸せに暮らして…もう茶々への愛は失くしているかもしれない。
それならば、三成の為に身を売った自分は、もう生きていなくてもいいのではないか?孤独の中、そんな風に生きる力を失う事は十分に考えられるなーと思うのです。
それに幼い子供を亡くした母親って、本当にひたすら自分を責めるんですよね。「自分が丈夫な体に生んであげられなかった」とか「何か、育てかたが間違っていたんじゃないか」とか。しかたのないこととはいえ、見ているほうも、とても辛いです。
そして、ああいう時代の事、生きる意志を失くしてしまった人間が、ちょっとした病などで簡単にこの世を去ってしまうのはよくある事です。
そんな茶々に生きる生きる力を取り戻してもらう為、疾風は三成に土下座でも何でもしなければならなかった。
三成だって当然、子供を喪ったお茶々様の事を心配していたでしょう。会う機会の少ない立場だからこそ、心配は深かっただろうと思います。
だから、疾風と三成が茶々に与えたかった「生きる力」は、次の子供ではなく、彼女を心から愛する人が、彼女を抱きしめ優しく包み込んで慰める時間なのだろうと思うのです。
でも、疾風が三成にそう言っても、三成の立場では「それは秀吉様の役目だ」と言うしかない。だから、疾風は秀吉にはできない「子供」という言葉を選んで言ったのだろうな、と。三成しか与える事が出来ないのは、実は「愛」なのだけれど。
三成は、その言葉に納得したふりをして「子供」を与えるという名目で、お茶々様に会いに行けたのではないかと思います。
でも本当は、ただお茶々様を心配して、抱きしめて慰めたかったのではないかと思う。そして、一度だけしか抱けなかった、二人の子供の死を悼んで、二人で泣きたかったのではないかとも。
次の子供なんて、言い訳だと思いたい。
三成が本気で子供を作ろうとしたとは、常識的に考えにくい事と思います。言い訳のできないくらい、父親に生き写しの子供が生まれる事だって普通にあり得るんだし。二人にとってリスクが高すぎる。それに、鶴松の時とは意味が違います。天下を狙う謀反の意味に近い事ですから。
ただ、彼は子供を亡くして失意のお茶々様に一目会って、慰めたかった。
どんな危険を冒しても、何かあれば一人で責めを負う覚悟で、天下人の愛人に会いに行った。大事な上様を裏切っても、家族も地位も仕事も全てを捨てる事になる可能性があっても。
そんな三成の覚悟を感じて、遠い立場となっても自分を想ってくれる人の愛の為に、お茶々様は生きる力を取り戻したのではないかと思うのです。
だから、二人のこの命がけの逢瀬は、ただ一度だったのだと思うのだけれど。
「言葉の綾」で子を作ると言っただけなのに…本当に子供ができてしまった。
そして、またもや、男の子。
そんなバカな!とも思うけれども、なんというか、物事が悪いほうばかりに転がっていくのに翻弄されるのが、オオゾラさんらしいかな、と^^;
今まで大勢の側室にもお子ができなかったのに、生まれた子供。
どの側室が身籠っても、上様が自分の子だと言い張れば、三成はその言葉に従って後継者となるお子に忠誠を誓う事でしょう。例え、あり得ないと思っていても。
それが自分が父親であったとしても、同じ事だったのだろうとは思います。
むしろ、徹底的に上様の後継者として、主君と家臣の立場を守る事になったのでは。
それ故に、三成は主君の母であるお茶々様に対しても、一歩引いた立場となった。
ある意味、それは恋の終わりに等しいものだったのではないかと思います。
その裏切り故に、二人の道は完全に別れてしまった。
秀吉様が亡くなっても、二人は最早、主君の母と家臣として対する事しかできない。
…もし、あの時に子供を授かっていなければ、違った関係になれたかもしれない。でも、もう、二人はそこには戻れない。
お茶々様がますます孤立して、一人で「我が子」を守ると歌うのが哀しいです。
愛した男が、子供の実の父親が、すぐ傍にいるのに。もう、三成に丸ごと頼る事は、できないのです。お互いに、愛が消えたのではない事はわかっているのに。
そして、三成はそんな彼女に何も言う事ができずに、黙り込む。「豊臣の大義の為に」なんて言わずに、もう一度「自分の為に」、茶々にお願いしていれば…と、じれったい思いがします。彼女はそうして欲しかったのではないかと。
でも、それができない人だからこそ、愛しいのですよね。
三成が「豊臣」の為に戦う事は、すべての愛の為に命を懸ける事であるのだけは確かな事で。
お茶々様を、秀頼様を生かす為に、関ヶ原で彼は戦った。
どんなに不器用でも、間違いだらけの行いを重ねながら、迷いながら、正しい道も殿への愛も茶々への愛も秀頼への愛も全てを守って戦って。激しく生きた事が「美しき生涯」なのだろうと、納得させられる牢獄の場面。美しい場面です。
しかし…時間切れなので、続きはまた今度という事で。
ま、色々気にせず、気が向いたので書き留めておきます。
宙組公演「美しき生涯」について。終わってしまう前に少しだけでも。
まずは、いきなり直球で。
この作品の一番のびっくりポイントについて。
誰もが驚くと思う、あの場面。
鶴松君を亡くした茶々の生きる力を与える為に、次の子供って…そんなバカな!!と。
子供を、人の命を何だと思っているのか、この男?とビックリしますよね?
今とは違って、子供が亡くなる確率が高かった時代とはいえ、あんまりな言い方だと思います。
でも、2〜3回見ているうちに、そして、鶴松は赤ん坊の頃から病がちでも3歳程まで生きた事を知ってから、考えが変わってきたのです。
約20年の出来事を、一時間半にまとめたこの物語。時間経過の一言の台詞を入れるのも惜しくて、ひと場面にしてありますが。
常に命の危険を持った病がちの子供を二年間余りも看病し続けて、とうとう我が子を喪ってしまったこの時の茶々は、どれ程に悲嘆に暮れていた事だろうかと思うと。
何年間も抱き続けた初恋の形見であり、戦いで親を喪い、妹二人を嫁がせた後に得た、ただ一人の肉親。ただ一人の家族…ただ一人の愛する者。
天下人・秀吉の側室として所有される事になった茶々にとっては、もはや子供しか、家族を得る事はできないのです。秀吉はお市様に生き写しの茶々に執着しているとはいえ、それは愛とは違うもの。普通の家族のような愛情は、自分の子供としか望めない。
大石先生は三成を孤独な存在として描きたかったと語られていますが、この物語のお茶々様は、それ以上に、孤独な存在として書かれています。
命を狙われるような侍女達に囲まれ、心許せる相手は三成と疾風だけしか登場しないのですから。
愛する三成の為に身体も人生も売り渡した茶々は、三成の子と思われる鶴松を心の支えに生きてきて。
その子を喪った時、彼女は空っぽになってしまったんじゃないかな。
三成は上様の命令で結婚して子供もできていた頃でしょうし、そんな噂は伝わっても、もはや三成に会う機会もあまり無い事でしょう。
もしかしたら、三成は家族を得て、幸せに暮らして…もう茶々への愛は失くしているかもしれない。
それならば、三成の為に身を売った自分は、もう生きていなくてもいいのではないか?孤独の中、そんな風に生きる力を失う事は十分に考えられるなーと思うのです。
それに幼い子供を亡くした母親って、本当にひたすら自分を責めるんですよね。「自分が丈夫な体に生んであげられなかった」とか「何か、育てかたが間違っていたんじゃないか」とか。しかたのないこととはいえ、見ているほうも、とても辛いです。
そして、ああいう時代の事、生きる意志を失くしてしまった人間が、ちょっとした病などで簡単にこの世を去ってしまうのはよくある事です。
そんな茶々に生きる生きる力を取り戻してもらう為、疾風は三成に土下座でも何でもしなければならなかった。
三成だって当然、子供を喪ったお茶々様の事を心配していたでしょう。会う機会の少ない立場だからこそ、心配は深かっただろうと思います。
だから、疾風と三成が茶々に与えたかった「生きる力」は、次の子供ではなく、彼女を心から愛する人が、彼女を抱きしめ優しく包み込んで慰める時間なのだろうと思うのです。
でも、疾風が三成にそう言っても、三成の立場では「それは秀吉様の役目だ」と言うしかない。だから、疾風は秀吉にはできない「子供」という言葉を選んで言ったのだろうな、と。三成しか与える事が出来ないのは、実は「愛」なのだけれど。
三成は、その言葉に納得したふりをして「子供」を与えるという名目で、お茶々様に会いに行けたのではないかと思います。
でも本当は、ただお茶々様を心配して、抱きしめて慰めたかったのではないかと思う。そして、一度だけしか抱けなかった、二人の子供の死を悼んで、二人で泣きたかったのではないかとも。
次の子供なんて、言い訳だと思いたい。
三成が本気で子供を作ろうとしたとは、常識的に考えにくい事と思います。言い訳のできないくらい、父親に生き写しの子供が生まれる事だって普通にあり得るんだし。二人にとってリスクが高すぎる。それに、鶴松の時とは意味が違います。天下を狙う謀反の意味に近い事ですから。
ただ、彼は子供を亡くして失意のお茶々様に一目会って、慰めたかった。
どんな危険を冒しても、何かあれば一人で責めを負う覚悟で、天下人の愛人に会いに行った。大事な上様を裏切っても、家族も地位も仕事も全てを捨てる事になる可能性があっても。
そんな三成の覚悟を感じて、遠い立場となっても自分を想ってくれる人の愛の為に、お茶々様は生きる力を取り戻したのではないかと思うのです。
だから、二人のこの命がけの逢瀬は、ただ一度だったのだと思うのだけれど。
「言葉の綾」で子を作ると言っただけなのに…本当に子供ができてしまった。
そして、またもや、男の子。
そんなバカな!とも思うけれども、なんというか、物事が悪いほうばかりに転がっていくのに翻弄されるのが、オオゾラさんらしいかな、と^^;
今まで大勢の側室にもお子ができなかったのに、生まれた子供。
どの側室が身籠っても、上様が自分の子だと言い張れば、三成はその言葉に従って後継者となるお子に忠誠を誓う事でしょう。例え、あり得ないと思っていても。
それが自分が父親であったとしても、同じ事だったのだろうとは思います。
むしろ、徹底的に上様の後継者として、主君と家臣の立場を守る事になったのでは。
それ故に、三成は主君の母であるお茶々様に対しても、一歩引いた立場となった。
ある意味、それは恋の終わりに等しいものだったのではないかと思います。
その裏切り故に、二人の道は完全に別れてしまった。
秀吉様が亡くなっても、二人は最早、主君の母と家臣として対する事しかできない。
…もし、あの時に子供を授かっていなければ、違った関係になれたかもしれない。でも、もう、二人はそこには戻れない。
お茶々様がますます孤立して、一人で「我が子」を守ると歌うのが哀しいです。
愛した男が、子供の実の父親が、すぐ傍にいるのに。もう、三成に丸ごと頼る事は、できないのです。お互いに、愛が消えたのではない事はわかっているのに。
そして、三成はそんな彼女に何も言う事ができずに、黙り込む。「豊臣の大義の為に」なんて言わずに、もう一度「自分の為に」、茶々にお願いしていれば…と、じれったい思いがします。彼女はそうして欲しかったのではないかと。
でも、それができない人だからこそ、愛しいのですよね。
三成が「豊臣」の為に戦う事は、すべての愛の為に命を懸ける事であるのだけは確かな事で。
お茶々様を、秀頼様を生かす為に、関ヶ原で彼は戦った。
どんなに不器用でも、間違いだらけの行いを重ねながら、迷いながら、正しい道も殿への愛も茶々への愛も秀頼への愛も全てを守って戦って。激しく生きた事が「美しき生涯」なのだろうと、納得させられる牢獄の場面。美しい場面です。
しかし…時間切れなので、続きはまた今度という事で。