月組、「THE SCARLET PIMPERNEL」お稽古はじまりましたね。
つい先日、青年館公演が終わったばかりなのに、早い~。
そして、退団者も三人発表されました。…淋しいなぁ。
それぞれの皆さんの人生の為の決断ですから、仕方のない事ですが、やはり淋しいです。

月組「HAMLET!!」千秋楽映像をみて、書き残した感想を。
私が公演を見たのは青年館の始めのほうの土日でしたので、あれからまた良くなったなぁ…と、思いました。
今回、面白かったのは「なるほど、月組で藤井作品をやるなら、このメンバー。柴田作品は、あのメンバー。本当に上手く振り分けたなー」ということでした。
このショー「HAMLET!!」を成立させるのには、芸風にパワーと軽さを持った、このメンバーでなきゃ!…と、思いましたね(^^)
柴田作品には、芸風に湿度のある中日メンバーが似合うと、感心。今、このメンバーだからこそできた、「HAMLET!!」。作品とメンバーの出会いの妙って、あるものですね。
忘れないうちに、主演二人以外の皆様の感想を一言ずつ。発表された「THE SCARLET PIMPERNEL」の配役も併せて。

越乃リュウ(クローディアス王)
宝塚でハムレットをやるならば、こうでなくてはならないという、エロいクローディアス様でした。
ガートルード様への愛も、レアティーズにハムレットとの決闘に卑怯な手を使うように唆す場面も、力いっぱいの色気です。せっかくのクローディアス役なのだから、このショー芝居の演出でも、もう少し繊細さを見せて下さってもよかったのになぁ…というのがちょっと残念。次回はロベスピエールですね、似合いそう。楽しみです♪

五峰亜季(ガートルード王妃)
やはり色っぽい、ガートルード王妃。宝塚で、こんなにも「淫らな」という言葉が似合うなんて…と、最初はちょっと照れたりしたのですが。
ハムレットに責められてから、少しずつクローディアス王を避ける芝居が良かったです。握られた手をさりげなく離したり。微妙な女心が可愛いかったですね。
フィナーレの白いお衣装で踊る姿が可愛くて、次は明るい役の五峰さんが見たい、と思いました。

宇月颯(ホレーシオ)
冒頭にハムレットについて語るところから始まる、亡霊でありハムレットの親友。語り部。やっぱり上手い。
今回のメンバーの中では喋っても、歌っても、ダントツ上手い。勿論わかっていましたが、改めて感心。そして、かっこよかったー。
頭ちいちゃくて、スタイル良くて。なんだか”美形キャラ”分類してしまいそうでした。ホレーシオという役が、ちょっと繊細な文系キャラだからかな?
お顔の整った”美形”さんと、宝塚における”美形キャラ”は、必ずしも同じではないですが、としちゃんがこのグループに入るのは意外でした^^;

珠城りょう(レアティーズ)
中盤まるっと出てこないので出番は多くはないですが、この作品の中でかなり美味しい、主人公のライバル役。かなりいっぱいいっぱいな感じではありましたが、役として感情を動かす芝居ができていたので大丈夫だなと、思いました。
レアティーズとしての出番がない中盤に、”亡霊”達の一人として、歌って踊っている姿が、楽しそうで可愛かった(^^)
下級生の抜擢で色々と大変だとは思いますが、素直に役に入っているのが伝わってくるので、見ていて気持ちが良いです。今後もすくすくと育って欲しいですね♪

ローゼンクランツ(憧花ゆりの)
今回の、藤井演出の目玉のひとつ。ハムレットを愛する女性、ローゼンクランツ。原作とほぼ同じ台詞を言いながら、キャラクターは正反対。ハムレットに対して上辺だけ心配してみせる言葉だった台詞で、女性としての優しさと情の深さを見せる。こういう事ができるのが、シェイクスピアの面白さ…という所。きっちり見せてくれて、さすが!と思いました。最後に殺されるのは可哀想で、ここを変更しないのは謎ではあるのですが「ハムレットー!」と叫ぶ最期が、哀しく切なくて、役者さんとしては良い見せ場となった気もします。ハムレットの非情さがでる事で、逆に彼がどれ程追詰められているか、見えたのかもしれません。
しかし、次回はマリー役ですか、びっくりしたー(@_@)いや、すずなちゃんは大好きで大きな役がつくのは嬉しいのですが、学年的にも、もう素敵な女役さんだと思っていたので。前回はねねちゃんが演じたようなヒロイン系の娘役は若手に任せて、情の深い大人の女性を見たいんだけど。いや、アルマンが若いまさお・みりお君でなければ、別にいいんですけどね^^;

ギルデンスターン(鳳月杏)
可愛かった!かっこよかった!…すみません。ファンなので、冷静な事は書けないのですが(^^ゞ
ローゼンクランツ程のキャラ変更は無く、単なる”ローゼンクランツの相方”という中途半端な存在の演出。
基本はトボけたキャラで、でも、ローゼンクランツを見つめる目は優しく、ハムレットを愛して苦しむ相方に包容力も見せていました。王に見せる芝居の場面で、ローゼンクランツと二人で踊ったり、後ろで芝居を見ていたりする時も、なんだか良い雰囲気。最期の「何が起こっているかわからない」というお顔が好きでした。
あとは、水獄の場面で”水”のダンサーとして、オフィーリアを翻弄する場面が、すごく素敵。今の月組で、あの色気を出せるのは貴重な存在ですよね。踊りにも”水”の雰囲気があって、こういう「この世ならぬ存在感」を出せる所が好きなんだなーと、改めて思いました。

三人の墓堀(美夢ひまり・夏月都・白雪さち花)
美夢ひまりちゃんは、宝塚の娘役では珍しい”重み”を出せる、貴重な役者さんになったなーと、思います。
夏月都ちゃんは、毎回思い切った作りこみをしてくれて、気持ちがいいです。でも、決してやり過ぎないバランス感覚が良いと思う。どんなにオーバーアクションでも、優しさと可愛いさと”品”を損なう事は絶対にないので、安心して見られます。
白雪さち花ちゃんは、この三人で並ぶ事で可愛い悪戯っぽさと、コケティッシュな持ち味が引き立った感じ。さち花ちゃんはひまりんとは逆に、軽さが素敵にキュートでした。

彩央寿音(タッチストン/オズリック)
気付いてなかったのですが、決闘の立会い人のきっしーがオズリックなのですね。真面目な顔をして剣を合わせている所も素敵だったのですが、レアティーズに吹っ飛ばされてびっくりしているお顔が可愛くてツボでした。旅一座の座長は、ちょっとコミカルな作りでこれも可愛い。きっしーって、どんどん若くなっていく気がするのですが^^;同期のあちょーさんは、どんどん渋いオジサマになっていくのに、不思議…。次回はジェサップ役と、中々良い所につけましたね。本公演でちゃんと、きっしーとあちょーさんの芝居が見られる日が、やっと!月組ファン的に大きな喜びです♪

紗蘭えりか(トレッセル)
退団、淋しいです。いかにも月組らしい、過不足の無い抑えた演技をする人で、すごく貴重な存在だと思っていたのに。今回も台詞は勿論、宴の女としてお芝居を見ている姿が、いかにも宮廷の女性っぽくて良いなーと印象に残っていました。同期の鼓英夏さんと二人、芸達者揃いの月組88期が二人もいなくなってしまうなんて。
次回は役名は無くても、何か目立つポジションがあるといいなー。

そしてもう一人の退団者、愛那結梨ちゃん。今回の劇中劇のゴンザーゴー妻の役で、やっと覚えたと思ったのに。侍女のようなエプロン付きの場面とは、ガラっと雰囲気を変えていたのも、やるなーと思いました。三人とも、最期の公演を思い切り楽しんで、新しい道に踏み出していけるよう、祈っております。

劇中劇ゴンザーゴー(沢希 理寿)
しっかり歌ってくれて堪能できました。次回はまた女役で歌手ですね。かつての嘉月さんのように、男役女役どちらもOKの歌手として、突き進んで欲しい…という事なのかな?でも、次回は綺麗なドレスですよね、ちょっと楽しみ♪

ルシエーナス(海桐望)
ちょっと越乃クローディアスに似た雰囲気があったのが、良かったです。亡霊では目立つ髪形で注目を集め、色々な人から「あのカッコいい人、誰?」と言われてましたね。いつも大人しい印象だったのですが、今回はなんだかハジけていて、楽しそうで良かったです。

シーリア(花陽みら)
ホレーシオの妹という、オリジナル役。とはいえ、シーリアとしての出番はそんなに多くなくて、主に相槌役。ともかく、可愛いければ良し…という役。
亡霊で踊っている時が元気で楽しそうで良かったです。それに、お歌がとても良かった!ラストにとしちゃんと歌うのは、全ての思いを昇華させるに相応しい歌声でした。

えーと、目立つ役はこれくらいかな?
あと。都月みあちゃんが、宝塚の娘役らしい身のこなしになっていて、可愛さ100倍になっていた。可愛いし小柄だけどスタイルも良いけど、立ち姿や仕草がちょっとハスッパな感じがあって、そのギャップが色気ではあったけれども、ちょっと座りが悪かったので。すっきりして、ちょっと大人びていて印象に残りました。
それに”ハムレットの影”の隼海 惺君が、とっても美しくて、印象的。

そして、なんといっても先王の亡霊の研ルイスくん!フィナーレで一人だけ、白いお顔で踊っているお姿が不気味で、最高に可愛かったです。
ある意味、フィナーレの主役^^;

以上、つらつらと書いてきましたが。私は中日を見ていないので、新生月組、満月状態を見るのがとても楽しみ♪
まだま先の話ですが(^^ゞ
月組「HAMLET!!」感想を書くのが遅れましたが、楽しかったです。
結局、二回しか見られませんでした。何しろ「カサブランカ」で、搾れるだけ搾り取られているので(^^ゞ

主演者まさお君とメンバーの魅力を最大限に引き出しつつ、出演者全員の舞台力をアップさせる舞台だな、と思いました。
古典作品は、得るものが多そうですよね。宝塚はもっと文学作品をやるべきだと思います。やっぱり役者さんというのは、何よりも作品と舞台で育てられるものなんだろうな、と感じるので。
そして藤井先生の、出演者に対する愛情と、なんだかものすごい意気込みを感じた作品。バウ作品なのに生バンドだし、稼動式のセットは電飾ギラギラ。お衣装もみんな結構お着替えしていて、髪の毛はすごい事になっている。色分け以上の意味はよくわからないけれど、演出家に主張がある事だけは、強く伝わってきます。

やはり、演出家が「ハムレット」に取り組むという事は、それなりに覚悟が要る事なのかな?
プログラムには「世界中で上演されていない日がない」と書いてあります。CSニュースのバウの挨拶で、まさお君が「世界的にも有名な」と、言った時に、有名っていうか^^;シェイクスピアの代名詞のような作品であり、ある意味、西洋文化での「演劇」の象徴でもあるような芝居だよなーと、改めて思いました。
その、やっかいな台詞の長さにより上演時間も長い為、あらゆるアレンジ・色々な形で上演される芝居。ベースを誰もが知っているものだけに、どのようなカタチで見せるのか、演出家の意思がとてもよく見える作品です。

そして、今回は「ロック・オペラ HAMLET!!」。あの長い台詞をロックの音楽に乗せて歌い上げ、華やかにショーアップした、明快でロマンチックな宝塚作品。
本当に楽しくて、まさお君のパワーに巻き込まれ、蘭ちゃんの可憐さにポワ~ンとしている間に、終わってしまった舞台でした。
終わった後には、ただ「綺麗なものを見た」という感動と、「タカラヅカを見た」楽しさが残りました。

でも、シェイクスピアを見たとか、ハムレットを見た気はしなかった。
先日、博品館でみた「笑いすぎたハムレット」のほうがずっと、シェイクスピアで、ハムレットだった気がしたのです。
たとえ、ジュリエットがオフィーリアの親友で、腹話術のお人形のロミオ様相手に男役声と女性の声を切り替えながら会話をしていようと、ジャック・アバウアーさんが事件を円満解決しようと。歌謡曲をふんだんに使ったレビューであり、喜劇であっても、あれはハムレットだったんだなーと、改めて思う程に。
今回はハムレットを見た気がしなかった。
何よりそれが印象的で。二回目の観劇では、何故、そう思ったのかを注目してみました。

亡霊達が歌い、ホレーシオが、亡きハムレットを語るという冒頭。
亡霊達は最初「エリザベート」のオープニングの亡霊のヴェールをかぶり、振り付けもなんだか似たような振りもあり、まるでエリザのパロディのよう。
ホレーシオ役のとしちゃん、カッコいい。そして、上手い!でも「復習という名の正義」…へー、そうなんだ^^;などど思っているうちに。
ギラギラの電飾で飾られたセットの上に、ハムレットの登場。「To be, or not to be」と、カッコよく歌う。
この作品、あんなお衣装だけれども、意外に台詞はシェイクスピアそのまま。
ホレーシオの妹が創作されたり、ローゼンクランツが女性だったりするので、かなり印象が変わっているけれど、後で本をめくってみたらかなり戯曲に忠実で驚きました。カットは多いし、歌になっている部分が多いので、印象が軽い感じですが。
ローゼンクランツが「かつて殿下は私を愛して下さいました」と言うのは創作かと思っていたら、元の台詞は「かつては親友とみなして下さいました」なんですね。
でも、この二人がクローディアス王にお追従を言う場面はカット。
キャラクター達の性格を左右する台詞を削る事で、それぞれのキャラクターは違うものになっています。

見る前に予習しようと思って原作を開き、すぐに放り出してしまったけれど(^^ゞ
舞台を見た後に読んだらやっぱり面白くて、気になる場面のつまみ読みで、結局ほとんど読んでしまった「ハムレット」。
あれで、藤井版はかなり意識的に、台詞をカットしている事に気付きました。
ローゼンクランツとギルデンスターンだけでなく、追従や、自惚れや、悪意。登場人物の人間としての醜さ、愚かさを示す台詞をカットしています。
ポローニアスや、ローゾンクランツ達、そして仇であるクローディアスでさえ。主人公ハムレットの敵となる人物達は、特に丁寧に吟味した台詞だけを残してあるようです。

「ハムレット」の特徴である、世の中への皮肉と嘲笑に満ちた視線。あの長い台詞の多くは、あらゆるもの事に対しての皮肉です。
そして、それは主人公ハムレット王子の視線でもあります。
彼は世の人々の醜さと愚かさを皮肉って嘲笑います。そして、自分自身に対しても同じく。
運命の皮肉と破滅は、シェイクスピア作品に共通するものではありますが、「ハムレット」はその中でも特に、皮肉を意識する作品です。
狂気を装ったハムレットの言葉といい、彼に襲い掛かる運命の皮肉といい。
台詞も筋立ても、まるでハムレット自身も、観客をも突き放すように、全てを皮肉の煙にまいて嘲笑うようです。

私はこの物語の筋立ての皮肉さが、好きなんですよね。
見目麗しく頭も良く、剣も強くて民衆に人気もあり、美しい恋人もいて、何もかもを持っていた王子様ハムレット。けれど父親を殺された復習の為に、狂気を装い、人も羨む境遇を全て捨て去る。ところが、彼は誤解から、恋人の父親を殺してしまう。彼女は狂気の淵に落ち、やがて命も落としてしまい、ハムレット自身が仇と狙われる事となる。叔父である王を罠にかけ、その企みを暴くも、結局叔父の罠にかかって決闘で命を落とす。
正義を行う筈が、自分が殺人者となり、狂気と正気、裏切り、騙し、悲しみと、ハムレットの立場が次々と反転していくさまは、本当に良くできているなと、感心します。さすがに、400年の間、一番人気を守り続ける物語だなーと。
しかし、今回の藤井版「HAMLET!!」は、この作中から「皮肉」という要素を、きれいに排除しているのではないかと、感じました。
かなり意識的に、ハムレットの心の有り方から、愚かな人々を皮肉って嘲笑うという要素を排除しているのではないかと。
だから「笑いすぎたハムレット」のほうが、普通のハムレットのように見えた。皮肉の嘲いがあり、その結果喜劇仕立てとなったハムレットだったから。
そして藤井版は、皮肉な視線を切り捨てる事で、筋立ての面白さのみ、際立たせようとしたのでないかと思ったのです。

また、今回の上演で面白かったのが、オフィーリアの存在です。
私が今まで見た「ハムレット」では、オフィーリアは、若くて可愛い女優さんが演じてらっしゃいましたが、皆さん、なんだかイマひとつ…いや、みっつくらい。
ハムレット他、他のキャストが選び抜かれて気合を入れて演じているだけに、綺麗な飾りのような存在となり。物語のヒロインはガートルードお母様でした。
そもそも、一般の若い女優さんがドレスを着る事も、着こなしにちょっと無理があるし^^;
なので、宝塚の娘役さんで、オフィーリアを見たいと、ずっと思っておりました。
願いは叶い、そして実現したオフィーリアは、とても意外な存在でした。

オフィーリアというのは、ハムレットに降りかかる「悲劇」、そのまま同じ境遇を受ける存在なのですね。
ハムレットは母の再婚による「愛」への疑いを、オフィーリアに向け、彼女の真心を裏切り「尼寺へ行け」と迫る。そして父の死。
ハムレットは狂気を装うだけですが、オフィーリアは本物の狂気をその身に宿し、やがて死に至る。
蘭ちゃんのオフィーリアは、「尼寺へ行け」と言われた時に、狂気の片鱗を見せるところが、切なく、恐怖を誘う迫力がありました。
その後の”狂った乙女”の姿も、倒錯的な美しさを持ちながら可憐で、むしろこれが”宝塚の娘役”の美しさの真髄なのかもしれない…とも思いました。

「THE LAST PARTY」でゼルダが狂気のなかオフィーリアの台詞を言う場面の紫城るいちゃんにも感じたのですが。
本来、現実にありえない”純粋な乙女”である娘役。その純粋さを持つ為には現実の世界を見ない、知らないで、現実とはかけ離れていなければならない。
純粋過ぎて、現実を踏み外してしまったら、そこには狂気が待っている。そんなこの世ならざる存在が、娘役というものなのかも。
…あの時、オオゾラさんとるいちゃんで、ハムレットを見たいと思ったなーなどと、懐かしく思いつつ。

でも、オフィーリアというのが、これ程にハムレットを反転させた存在とは知らなかった。彼女がハムレットと同じ悲しみを背負う事で、彼の悲しい運命が強調され、その死によって、ハムレットに最後の打撃をあたえる事になる。
ただの綺麗どころの”主役の恋人”役だと思っていて、ごめんなさい。
立派なヒロイン役だったのですね。
更に、今回はローゼンクランツが女性で、ハムレットを愛しているという設定になったのが、面白い仕掛けでした。この為、ハムレット対クローディアス王の争いの被害を、全てハムレットを愛する女性達が負う事になったのです。(ギルデンスターンは、ついでの被害者…可哀想に^^;)
これが宝塚に相応しい感じですし、また意外にオフィーリアの存在を明確にしたような気がします。

通常なら死で終わるオフィーリアの出番ですが、この後、レアティーズとハムレットの決闘の打診役で「運命の使者」として登場するのが、今回の藤井版の面白いところ。原作ではオズリックという、最新流行の帽子を被った軽薄な伊達男の役どころです。この帽子を取る取らないの会話が、仮面についての会話になっています。これが、とても不気味な雰囲気を醸し出して”運命”のイメージを際立たせます。
そして、運命の決闘は行われ、全ての復習が果たされ、全ての決着がついた時。

白い光に包まれたオフィーリアがあらわれる。
無垢な乙女の優しい祈りによって、亡霊として「ハムレット」の運命を語ったモノ達は、浄められ、安らぎを得る。
黒衣の亡霊達は、白い”光”を纏う”魂”として、生まれ変わり、その思いは歌のなかに昇華される。
「ああ、タカラヅカだなー」と、思いました。
っていうか、「Apasionado(アパショナード)!! II」のラグリマの場面みたいな?
えーと、いつもの藤井ショーのクライマックス?
これってショーアップした「ハムレット」のお芝居だと思ってたけど、「ハムレット」を題材にしたショーだったんだ。

いや、わかってましたけどね。だって、ハムレットとオフィーリア以外、皆さん芝居らしい芝居してないし。
他のキャラクターは全て、ステレオタイプ…というより、記号的な演技。花組のショー「EXCITER!!」の、寸劇の芝居に近い感じ。
何しろ、時間が足りません。そのままやれば4時間近い芝居を二時間ちょいで。約半分、そのうえ沢山のナンバーがあります。タカラヅカですから劇中劇にも結構な時間を取りますし、各キャラの持ち時間は、非常に短い。
心情を語る独白の部分を歌うので、見るほうは感情移入しやすいですが、台詞は場繋ぎになる事が多い印象。物語を進めるうえで必要最低限の台詞のみ。キャラの性格や心情が見える部分など、ほとんどカット。
フォーティンブラスのノルウェー絡みも、国の状況や歴史なんか必要なし。亡霊が語るんだし。それどころか、亡き父が同じハムレットという名の王であった台詞さえ、カット。その一言の時間も惜しいらしい^^;
なので、各キャラクターは衣装も色分けされ、記号化されたキャラ造形で、ひと目でどういう立ち居地のキャラなのか示さなければなりません。
それでも、限界までシェイクスピアの台詞を無理矢理に詰め込み、ものすごいスピード感で物語は進みます。

…乙女の祈りに、救われる為に。

最後に救われる事が前提だから、人間の愚かさや醜さなどを強調する部分はカットしたのでしょうね。そのほうが、大衆は納得感がありますし。
なにしろ、堂々と「復讐という正義」と歌う、明快な物語としての上演なのですから。
時間短縮も兼ねて、キャラクターを記号化しつつ、それぞれの行動の動機となった純粋な気持ちだけを描いて、ラストの”浄化”に向かって、なだれ込んでいく。
それはとても心地よい、タカラヅカ・マジックでした。
皆さんが白い光になって、歌い踊るラストは、宝塚ならではのカタルシスがありました。「良いもの見たな~」と、幸せな気持ちで、主題歌を口ずさみながら帰る、楽しい時間。宝塚ファンとして、藤井版「HAMLET!!」は、大成功だったと思います。
そして、全編に盛り込まれた「エリザベート」のパロディ。これは、もしかしたら「宝塚」の象徴として使われているのでは?とも思いました。
これが、藤井版「宝塚」のハムレットだ!という、メッセージなのかも…なんて、考え過ぎでしょうかね^^;
藤井先生は、パロディが大好きなのは間違いないですよね。「から騒ぎ」でも、エリザのパロディが幾つかあったような。「から騒ぎ」は、「サーカスのよう」な物語、この「HAMLET!!」は、亡霊達が語る「復讐という正義」と、救いの物語…10年前のシェイクスピアシリーズに対応しているのも、今回のこだわりなのでしょうかね。
…主人公の髪の色とか。

ただ、これはしかめつらしい「演劇」の権威を持ったオジサマ方には認められないのでは…と、思ったのですが、どうなんでしょう。
「ハムレット」の、この皮肉な視線。”物語”からはみ出して、自分自身も観客さえも突き放し「このままでいいのか、いけないのか?」と、問いかける客観性が、”演劇”の幅を広げ、多様な舞台芸術を展開していく元になったのではないかと思うので。藤井版のこの明快さは、演劇のオジサマの好みじゃないかもなーなんて、いらない心配をしてしまいました。

ま、でも。400年、多様な解釈で上演されてきたであろう、「ハムレット」ですもの。宝塚の演出家として、藤井先生の表現は正しかったと思います。
宝塚は「乙女達の祈りに浄められ、救われる」場所ですからね。
…ただ一つ、まさお君の髪型と、お化粧は…ちょっと謎でしたが^^;
今の段階では、藤井先生の次回作がどうなるのか発表されていませんが、次はどんな作品を見せて下さるのか、楽しみです♪

『SAUDADE(サウダージ)』-Jにまつわる幾つかの所以-
スカイレポート座談会を見ました。

若手ばかりの座談会、なんだか皆さん、とってもハイテンション^^;
やはり、緊張のあまり…なのかな?
司会のまいちゃんも、かなりハイな感じですね。
でも、みんな可愛いなー。やっぱり月組っ子は、みんな愛しいです。遠く離れても。新しい仲間達が愛しいのと、同じく。

テンション高くて、しっかり者な感じのりこちゃん(麻月れんか)。
なんだか、ずいぶん逞しくなってきたなー。

マイペースの、としちゃん(宇月 颯)。
おっとりした感じですが、力強い舞台姿とのギャップが素敵(^^)

緊張でカチンコチンの煌月 爽矢ちゃん。
「奇術師」など、たどたどしい言い方も、可愛いなぁ。

初めてこういう場のトークを見る、鳳月杏ちゃん。
…おとなしい子なのかなー?でも、結構マイペース型に見えました。喋りが堅い感じが、初々しいです♪
舞台でギターを弾くんですね。楽しみにしております。練習、がんばれー!

…さ、もう一回見よ。


月組公演、終わってしまいましたね。
皆さん、おつかれさまでした。そして退団された、涼城まりなさん、朝桐紫乃さん、お二人のこれからのお幸せを祈っておりますm(__)m

結局、観劇は3回と新人公演。
贔屓が組替えして観劇回数が減ってしまったので、下級生さん達を見れない部分が多くて、残念。1階席の端っこの席ばかりだったので、ショーの下級生さん達は群舞の後ろのほうになると全然見えなくて(T_T)
これからは、絶対に二階席も取っておかなければ…という教訓になりました。

今まで月組は、自然に何度も見るものだったので、やはり生徒さんの皆さんに馴染み深い感覚があり。思わず懐かしい…と感じてしまいました。ちょっとさみしい。
もうすっかり花組に馴染んでしまったんだなと、改めて感じましたね。
でも、やはり私には月組の血が通っているのだな…とも思ったのです。この公演は、特にショーで感じました。
娘役さん達がとってもオトコマエなのは、もちろんとして(^^)

今回のショーは、ファンタジックな物語性のある設定の場面が多数ありました。
宙組さんの「宙 FANTASISTA」もそうだったし、藤井先生の作風なんですね。今まで贔屓組で当たらなかったので、気付かなかった。
その物語性を、月組生は基本的に「芝居」として作って見せる…と感じたのです。台詞の無い、短編のお芝居の積み重ねとして。
そういえば、同じようにファンタジー的な場面設定を作っていく草野作品「タカラヅカ・絢爛」を、星組から続演した時にも感じたのでした。
ショーとはいえ、「芝居の月組」として、演じているものなんだな、と。その為なのか、ラテンの熱い血を滾らせた星組版とは一味違い、月組版は「妖精」の設定を活かしたファンタジックな色合いの強いショーになりました。
特に、あの時は90周年の特別出演により、78期の三人が共演した事で、よりハッキリと「月組」の色合いが見えた気がしましたね。
…あれ、もう5年前なんだ(*_*)
いや、それはともかく、私は月組ファンです。次の公演は、もっと見るぞー!!

と、いうワケでパソコンの調子も悪いので、先に当ブログで唯一需要のある事を書いておきます。
ええ、鳳月杏ちゃんの事でございます(^^)
新人公演では、宰相中将(本役・星条海斗)。
実は私新人公演前に一度だけしか本公演を見ていなくて、オープニングの宮中の宴の場面、衛門督と宰相中将のご兄弟で歌っておられた事に気づいていなかったのです。誠に残念ながら、杏ちゃんがここで歌っているのも、気づかなかった(T_T)モッタイナイ…。

宰相中将は、時の政権を牛耳る、夕霧の息子。当時の超エリートですね。主人公匂宮に対して、ちょっと敵役?ともいえる人物。
それがなんとも…素敵でした。
父親の持つ権力を継ぐ気たっぷりで、周りの全ての人間を見下した、冷たい瞳。
かっこいいじゃないですか!まだまだ、可愛い下級生と思っていたのに、びっくりしました。下級生さんの一作ごとの成長には、驚かされる事が多々ありますが、本当に嬉しい驚きですね。

この冷たい瞳…というのは、下級生の男役さんには、なかなかに難しいもののようで。優しく可愛い男役さんだと、ただ顔を歪めているだけとか、なんだか不機嫌そうなだけ、下手すると「どこか具合悪いの?」と、見えてしまう事も多いです。
私が下級生時代のオオゾラさんに注目したのも、全ツ「チェーザレ・ボルジア」のドン・ミケロット役で、凍りつくような冷たい目で「暗殺者」の暗い存在を表現していたのが鮮烈だったから。
あのくらいの学年であの冷たい目を見せた人に、当時の私は初めて出会い、衝撃を受けたのです。
…その後も、そんなには出会ったことはありません。

杏ちゃんの宰相中将は、なかなかキレ者の雰囲気を持ち、年長者などの前では抑えて一歩ひいた感じ。
そのかわり、身分の低い道定君を見下すサマには、容赦がありません。
宇治の紅葉狩りで、時方・道定に道を譲らせる姿など、自然に身分の差を感じさせて良かったです。ごく自然に、”下賤の者”を区別している感じが。
本役の星条さんのワイルドでマッチョなバカにしかたとは、また全然違ったのも好印象。エリートっぽく、容赦のない感じで、杏ちゃんなりの工夫が感じられました。

「宇治川」の場面、匂宮に剣を向けるあたりは、やはり「文人」らしく、ちょっと弱そうに見えましたが^^;
自分の首に剣をあてた匂宮に慌てる姿に、ふと夕霧の父上の台詞を思い出したんです。
「源氏の血をひく皇族は、上手く操らねば。傀儡のように…」という、台詞。
どこまでも強気な表現の本役さんと違って、杏ちゃんの宰相中将は、この場面で少しハっとするような表現があったように思えました。
感情にまかせて匂宮に剣を向けた事を「失敗した」と認識して、召人達を下がらせる。その流れが見えたから、この場面の認識が変わったのだと思います。
たとえ納得できなくても、源氏の一族は匂宮をたてて、生き残っていかなければならない。
匂宮の命令に頭を垂れる芝居で、東宮と決まった匂宮が、臣下とは別次元にいる高貴な存在である事を、きちんと見せてくれました。

ショーでは、実は最初に見た時、全然見付けられなくて。
展開の早いショーなので、全体の流れを追うのに精一杯だったのは確かですが、このなに見付けられないもの?と、不思議に思っていたのですが。
二回目に見て、納得。ショーでも、ずいぶん感じが変わったんですね。
ぐっと、陰影がついたという感じ。
半年前に見た時までは、まだ可愛いイメージが残っていたのに、すっかり男役さんらしくなって。まあまあ、びっくり。
キザっても自然ですね。フツーにかっこいいです(^^)
オープニングの群舞で、たまたま列の隙間から垣間見えた時、バシッとウインクを決めてる姿を目撃した時はマジにドキっとしてしまいました(*^^*)

次の「SAUDADE(サウダージ)」は、一度見れたらいいほうだと思うのですが、人数が少ないからちゃんと見れるといいなぁ。
花組大劇場公演、千秋楽おめでとうございます。
寒い時期のハードな公演、本当にお疲れ様でした。
私は初日すぐの頃に行ったまま、その後は見る事ができなかったので、今ひとつ実感が無いのですが。
東京公演のお稽古が始まるまで、僅かのお休みだと思いますが、一休みしてゆっくりして欲しいですね。花組の皆さまが元気に東京に来て下さる日を、楽しみに待っております。

花組公演も見れないし、のんびりと書いていけばいいや…と思っていたら、月日の流れるのは早いですね。
風邪をひいて寝込んでいたり、パソコンが壊れたりしているうちに、あっという間に前回の更新から二週間近く^^;
花組東京公演が始まったら、観劇仲間と遊ぶばかりで書けない事は目に見えているのに。でもともかく、書いたぶんだけ少しずつ。

月組新人公演も、見てきました。面白かった~!
新人公演メンバーの皆さんの頑張りは勿論ですが、やはり今回は大野先生の作戦の成功が、とっても小気味よくて嬉しいものでした。
本公演とはまるで違った解釈による演出で、一つの脚本から描き出される、二つの物語。これによって、脚本の面白さと演出力、新人達に対する指導力等をくっきりと見せて、デビュー戦は大勝利!
荻田先生退団後、期待の脚本・演出家としての印象を残してくれました。

本公演は、やはりイベントである「源氏物語千年紀頌」として、「光源氏が遺した人々」を軸にした物語です。
うっすらと死の匂いのただよう、儚く美しく甘美な毒に満ちた世界の、罪にまみれた人々の物語。

新人公演は、逆に生命力の煌きを描く、悲しくも美しい恋の物語…だと感じました。このメンバーの中では、あまりにも圧倒的な存在である、「明日海りお」の存在ゆえに。
源氏の君が象徴する死と罪の影の世界の中は、匂宮の美しい生命力を際立たせるもの。新公は、あくまでも「匂宮」を描く物語になっていたと思います。
新公は出演者の力を引き出す事を優先した演出で、本公演は出演者皆さんの力で、演出家の思い描いた世界を作る。
本公演と新人公演を同じ演出家でやるからこその、面白さでしたね。

私が感じた、その違いを書く為には、ともかく本公演のポイントの感想を書かなければなりません。
本公演は、二回だけしか見ていないので、私のなかではまだ曖昧な部分も多いのですが。まあ、それでも書いておきます。

この、美しい舞台を見て「ああ、大野先生の世界だなー」と思いました。
実は私、ナマで大野作品を見るのは初めてだったのです。人気作品が多いですから、CSで放映されたものは、一応見たのですが。
しかし、やはりナマの舞台は全然違いますね。
あの、舞台全体の静謐な美しさは、劇場で体験してこそ!と感じました。
大野作品といえばお約束と言えるのが、権力者のオジサマに支配される、いたいけな青年。
色々なパターンで繰り返し登場する「お約束」ですが、最近の作品は出てこない事もあり、大劇場作品では我慢するのかと思っていました。
まあ、そんな「萌え」場面があればすぐに話題になっているでしょうが、特に聞こえてこなかったですし。
磯野さんの夕霧は、いかにも…な雰囲気なのになぁ…と思いつつ、見ていたのですが。
幕が下りた時に、呆然。

主役の匂宮が、薫の「支配者」になって、終幕。

…そうだよね、本公演の一幕ものだと、時間とか色々制限あるしね。
大野作品において、支配されているのは、いつも主人公ではない人物。
だったら時間のない本公演の場合、主人公が「支配者」になるのが、合理的。
「支配者」の条件は、てっきり「素敵なオジサマ」だと思っていましたが、支配される側の萌えキャラが主人公でない事のほうが、重要な条件だとは^^;
いやー、びっくりしました。

でも、そういえば。匂宮は最初から薫だけに関心をよせるているわけで。
宇治に行くのも、最初から薫を気にしての事。相手の女性が気になったワケじゃないし。浮舟に縋ったものの、諦める時は、あっさりとしたもの。
そして結果的には、薫から彼女を遠ざけて、二人だけの世界を完結させて、終幕、なんですね。

先日、雪組さんの「カラマーゾフの兄弟」を見た時に「宝塚の演出家には、マザコンしかおらんのか!!」…と、思ったのですが。
この作品を見て初めて分かった事。
大野先生って、ファザコンだったんですね。
と、友人に言ったら「今更何を…」と、驚かれましたが(^^ゞいや、そこはナマ大野作品は、初めての体験だったので。
父権的な男性ー力強く、権謀術数にたけ、威圧的な男ーに対しての強い憧れと、徹底的な拒否。

大野作品に多く登場する、あの支配者としての素敵なオジサマ達は「支配的な父親」のイメージなんですね。
そして今まで私が大野作品にあまり惹かれなかったのも、納得。
支配される側の青年達は皆、徹底的に拒否しているから。
支配される事、執着される事に、微塵の喜びも快楽も感じる事は無く、ただ必死に逃れようとするばかりだから。見てて、辛いじゃないですか(-_-)
少しでも、支配され、自分を失う事に背徳の喜びなどを感じているものなら、一緒になって喜ぶんですけどね。

薫も、最初から最後まで、匂宮の興味を拒否していますよね。
だから匂宮を大野作品における「支配者」なんだなーと、感じたのですが。
宮様は、薫に執着を見せますが、そこに愛や友情は感じられないんですよね。
薫を幸せにしたいと思う事もないし、理解し合い、心を分かち合おうとしているわけでもない。そういう台詞は無く、ただ彼が薫に関心を持っている事だけが、周りの人間によって語られる。
薫の心が向いている方向にだけは興味津津で、薫の拒否など気にせずに、問い詰めようとする。

でも、匂宮様はまだ若くて、今までの大野作品の素敵なオジサマ達のように人間が出来ていないから^^;
浮舟に縋る事で「支配者」としての人生を修正しようと、試みるんですね。
決して自分の心に踏み込んでくる事のない、そして自分を愛する事もない女性に、縋って甘えた。
心を閉じ込めて人形のように生きている女性だからこそ、縋る事ができた。
「期待には応える性質」などと言い、その場その場だけ相手に合わせて適当に受け答えて、世の中を誤魔化している匂宮。
心を閉じ込めている人形なのは、彼も同じ事だから。
トップ娘役がいないと、主演者が「愛ではないけど、慰め合う二人」という作品を演じる事ができるんですね、本公演でも。
確かに、宝塚の新しい可能性です。…必要な事だったのか?と問われると謎ですが。
この作品に関しては、皆さんの個性をいかせて良かったのかもしれません。ポジションによって決められた「関係性」に、支配されない芝居ができて。

浮舟もまた、匂宮が自分を愛しているのではない、でも「自分」を必要としているという状況だから、身を任せる事ができたのだと思うのですが。
けれど、薫に愛を告げられて。
今まで絶対者として見ていた薫もまた、心弱く、寄る辺のない人間だと知って。
何かに、誰かに、縋らずには生きていけない、ただの弱い男だと。
そして、彼女は薫の前から姿を消して、入水する。
薫を拒む事もできなくて、でも、愛してない匂宮との罪に溺れた記憶を消す事もできない。
…愛とは違っても、情を交わし合った、匂宮との優しい記憶を否定する事はできないから。だから決して、薫と共に歩む事はできない。

しずくちゃんの頑なな程の清潔感は、自分の”罪”を許す事ができない、浮舟という女性の説得力に繋がっていますね。
一見、か弱いように見えて、実はかなり頑固そうなところが。

運命に流されているように見えて、本当は男達の弱さを許し受け入れる、情の深さをも持っているのが、しずく浮舟の魅力。
そして、薫と匂宮の罪の穢れをうつした形代となり、その身を川に流そうとする。
人形らしく、流し雛のように。
…命が助かり、罪を弔う尼となる事を選んだ後の、迷いを捨てた、穏やかで清廉な姿は、切ない程に優しくて美しいです。

薫の霧矢さんは、前半の掴みどころない、何を考えているのかわからない様子から、後半の変貌が印象的。
かつて喪った愛する女性への追慕に沈む、抜け殻の人生。その状態を脱して生気を取り戻した姿になるのが、匂宮を裏切り陥れようとする事…というマイナス感情ばかりが描かれる人物。
薫が匂宮を陥れるのは、浮舟への愛に気づいたから…というより、謀略そのものに夢中になっているように見えた気がします。
浮舟に「やり直そう」と語っていても、結局、彼女に心から向き合う事は出来なかったのではないかと。
愛していたのは本気でも、愛するという事がどういう事なのか分からないまま、生きてきた男なんだろうな。
そして、ただ、浮舟という女性に縋っただけになってしまった。
彼女が何を望み、何を愛し、何に悲しむか…結局知る事もなく、興味も持たないまま。
ただ、彼女の微笑みと優しさだけを求めて。温かな腕に抱きしめて貰えさえすれば、良いと…。

でも薫に限らず、この作中の男性はみんな同じなんですね。
光る君も、柏木も、薫も、二の宮も…匂宮も。
皆ただ、女性達の優しさに縋るだけ。
愛して欲しい、安らぎを与えて欲しいと。ただ闇雲に欲しがるだけの、寄る辺ないコドモ達。
そして女達は、優しい微笑みを浮かべた、形代となっていく。
静かに微笑みながら、黙って彼らを支えていく彼女達の凛とした姿は「ああ、さすがに月組の娘役だなぁ」と思います(^^)

一つだけ、私のなかで結論が出なかったのは、匂宮と女一の宮の最後の会話。
昔、匂宮は実の姉に密かに恋をした…その罪が、彼に心を押し殺して生きていく人生を決定付けてしまった?
でも、一の宮も匂宮も二人ともあまりにクールで、かつて密かな恋心があったようには、全然、見えないし。
匂宮が一の宮を黙らせる為に、口から出まかせを言ったにしては、ちょっと穏やかでは無い会話。しかも、あんまり効果があるとも思えないし。
やっぱり本当の話なのかなー?
光る君が、実の母の面影を求めて藤壺に恋をして、義理の母子の恋という罪を犯した事に重ねているという事でしょうか?
まあ、もう少し考えてみます。




なんだか、怒涛の日々でした。
花組公演の感想も書きかけのままのんびりしていたら、月組エリザベートやら、タニちゃんの退団やら…。
昨年の12月26日以降、何が起きても結構驚かなくなった…と思っておりましたが。
いやいや、まだまだ驚かされるネタを作ってくれるものですよね。
さすがだわ、宝塚歌劇団。

まあ、ともかく。
明日が新公なので、その前に月組公演メモ。
まず、第一に大野先生、なかなかやるなぁ~と感心。色んなイミで。
ともかく、大劇場デビュー作品としては将来に期待を持てる、良い作品だったと思います。
物語はよく纏っていたし、何よりも美しい舞台であった事が、宝塚的ファン的にはとても嬉しい事です。
舞台装置も、お衣装も、宮中の宴の様子や市井の祭り、その他の演出も全てが美しい作品でした。
そして、舞台上で繰り広げられる、ドラマも。
愛する者達の心のすれ違いと、失ったものへの哀惜の念。その裏に隠された、罪の甘美な毒…。
うっすらと”死”の匂いがただよう、儚く美しい世界でした。

前半はやや説明的な場面も多かったものの、強く逞しい女房達など、月娘達にホレボレして楽しめますね。
そして二ノ宮の失脚から、一気に物語は動き始めます。
小宰相の君(城咲あい)に連れ出された匂宮が、傀儡の姿に光君の声を聞く場面。
匂宮に襲いかかる、”死の闇”の化身となった光君に、ちょートキメキました。
傀儡の糸に操られながら、匂宮を絡みとろうとする恐ろしさと、その”死の闇”の官能的な美しさ。
これこそ、タカラヅカが描くべき世界ですね。

匂宮はその後、浮舟に救いを求めて。二人はつらい状況から逃れる為に、互いに求め合い、罪の淵に沈んでいく。
この、いけない事だと分かっていながら、薫を傷つけたくはないと思っていながら、ずるずると流されていく二人の場面がなんとも魅力的。
そして、薫が語る柏木と女三宮の恋のイメージ。
みっしょん(美翔かずき)もほたるちゃん(天野ほたる)も本当に美しいのですが。特にほたるちゃんの謎めいた微笑が、忘れられません…。
そして、匂宮の事を密告する薫の、怒りにまかせて友人を裏切るという罪に流されていく姿にもまた、”死の闇”が重なって見えます。

そこで浮かびあがる、匂宮と薫の関係。
亡くなった大君や実の母を思い心を閉ざして生きている薫に、匂宮は不思議な執着を見せます。
浮舟を出家させた後、”日嗣の皇子”として、全ての罪を引き受ける「命令者」となる。
ただ「命令」に従うだけの者ならば、自ら罪を犯す事もない。
だから匂宮に心を委ね、彼に支配される者になれと。
そうする事で、薫を傍に置こうとするんですね。
大野作品だな~、と思いました。
上手く言葉にまとまらないので、その話はいずれ、また。
---結末は書き直すと言ってくれ。ハッピーエンディングに。
---甘ったるい、メロドラマ風にね!

「THE LAST PARTY」で、大衆紙向けの短編を書き散らして、ゼルダの療養費と娘の学費を稼いでいるスコット。
出版社の要求に合わせて、提出した短編の結末を変える場面です。

…小池バージョン「ギャツビー」における、原作からの変容を考えていて、思い出したのがこの場面。
まさに、小池バージョンはこの場面で書き直されたもの、だったんじゃないかなと思いまして。
ハッピーエンディングとは言っても、ギャツビーの運命という筋立ては変えず、ヒロインのデイジーのキャラクターの書き換えのみというのが見事。
「人魚姫」を、王子と結ばれて幸せに終わらせた「リトル・マーメイド」に書き直したディズニーとは違って、ここはタカラヅカですからね。
大衆向けの、甘ったるいメロドラマを見る場所です。
ハッピーエンディングに求められるものが、ちょっと違うのです。
さすがに、小池先生はそこのところをよく分かっておられるなーと思います。

ギャツビーのお墓に、白い薔薇を手向けるデイジー。
ギャツビーがデイジーに渡す「白い薔薇」という、視覚的な象徴を設定したところも凄いと思うのですが。「エリザベート」で、シシィの手から、トート、そしてルキーニの手に渡るナイフのようなものですね。

でも、ともかく原作との一番の違いは、デイジーがギャツビーを愛している、という所です。
愛しているけれど「娘を持つ母親」という鎖に縛られて、身動きがとれずにギャツビーを喪ってしまう。なので、まあ、結末だけではなく物語全てが変わっているんですよね。

原作では、5年前には母親に反対されるなんて事もなく、ただギャツビーが戦争に行って距離が遠くなってしまった時に、出合ったトムと結婚するんですね。
そして、トムがギャツビーの正体をバラした時に、トムを選ぶのは彼を愛していたから。
トムの浮気に悩まされていても、喧嘩ばかりしていても、二人で積み重ねてきた時間を選ぶ。
…原作のデイジーは、ギャツビーを愛してはいないんですね。
彼女にとっては、ギャツビーはひと時見た夢のようなもので。
そんな彼女の為に全てを賭けたギャツビーの姿の哀しさが、この小説の美しさなのかなーと思うのですが。

でも、ここはタカラヅカ。
ギャツビーは謎の過去を持つ、影のある良い男になり。信念と愛の為に命を賭けるヒーローとして描かれる。
その愛に相応しく、ヒロインはゼルダをモデルにした「生身の女性」から、「夢の女」に書き直されます。
そして。たとえ悲しい運命でも、彼は満足していたのだと。
これは良い人生だったのだと。
最後に白いお衣装で、穏やかな清々しい笑顔でカタルシスを感じさせて、観客に納得させてくれるのがタカラヅカの力ですね。それが、宝塚のハッピーエンディングなんじゃないかな、と思ったのでした。

もっと色々考えたんですが、資料として「THE LAST PARTY」の月組バウ版なんぞ見てしまって、時間切れになりました(^^ゞ
やっと、やっと、東京版が放送されますね。楽しみです♪





腕が痛いです。
今日は特に予定が無かったので、のんびり「グレート・ギャツビー」を読んで、お昼寝をして…。
目が覚めたら、右手が上がらなくなっていました。寝違えたのかな?確か、朝は痛くなかったような気がするんだけど(T_T)
でも、キーボードを打つには問題が無いようで一安心。明日、お仕事はできるらしいです。

ま、そんな事はともかく。ギャツビーを読み終わりました。
なるほど、こういう話だったのか。
ギャツビーの身の上話は、笑う所だったのですね。
確かにあまりにも嘘くさい話だとは思いましたが、瀬奈さんがあまりにもかっこ良いので、そんなもんかなーと思ってましたが。
その嘘くさくていかにも作り話めいた身の上話に、彼の教養の無い事、常識も知らない無邪気な夢想家である事が表現されていたものとは。
うーん。起こった事件は同じでも。
タカラヅカは、清く正しく美しくなきゃねー。
男は、あくまでも格好良く。
女は、運命にもて遊ばれる悲劇的な…。

瀬奈さんのギャツビーはともかく、格好良かったですね。常に眉間に皺を寄せた悲劇のヒーロー。
どの瞬間もひたすらかっこ良さを追及した、究極の男役。ファンの方はこんなにもかっこ良い役を見る事ができて、きっとお幸せだろうなーと思います。
考えてみれば、なかなかこれ程に素敵なヒーロー役って、無いですものね。
最後までほとんど笑顔を見せる事なく、黙々と運命に立ち向かう。

プログラムに掲載されていた、初演の杜さんの写真は清々しい笑顔ですね。
瀬奈さんは最後まで、ああいう清々しい笑顔は出さなかったように思えました。
…少なくとも、私にはギャツビーのカタルシスのようなものは感じませんでした。
彼はデイジーの為に全てを犠牲にして、幸福だった、というようには感じなかった。
そのへんだけは、原作のギャツビーに近いイメージなのかな?
彼女を庇うのは当然で、ただ彼女に危害が及ばないのが彼の願いだったけれども。でも、それは、決して清々しく美しい自己犠牲を捧げたかった為ではなかった。
結果的には、そうなってしまったけれども。
そのあっけなさが現実の虚しさであるというような…。それが今回の小池先生の解釈なのかなーとも思ったのですが、どうなんだろう?

彼をヒーローとして描いた、この宝塚・小池バージョンでは、最後までタカラヅカ的に白い衣装に真っ白な抜けるような笑顔で、カタルシスを感じたかったような気もしますが…。


日生劇場「グレート・ギャツビー」見てきました。
私は初演も見ていませんし、原作は読んでいません。ちょうど読み始めたところで、この作品が発表されたので、見てから読もうと思って。
今、半分ほど読みましたが、話が核心にはいる前に舞台の一応の感想を書きとめておきたいと思います。

一番印象的だったのは、二幕の「神の目」の場面。
今回の再演でプラスされた場面のとの事ですが…初めてこの作品を見た観客としては、この場面が無いなんて、ちょっと考えられない。
逆に初演のファンの方には、無駄にしか見えないかも…とも思う、あまりにも力強い場面。
二幕で心情を表現する長いナンバーを入れるのはミュージカルの定石とはいえ、こんな場面をポーンと入れてしまう小池修一郎という演出家の力を、改めて感じました。

この場面の語る「神が見ている」というのは、決して宗教的な意味での「神」ではありませんよね。少なくとも「教会」が意味する宗教では無い。
…もっと、ずっと普遍的なもの。
宗教を持たない私でも、違う宗教を持った人にも通じる「真実」というもの。
見ているのは、自分の心の中の真実。
自らの心の中の正しさ、美しい善き心の象徴。偽り無き、心の中の真実。
「人が手を下す」というウィルソンの役割は、物語を終わらせる為のものであり、象徴に過ぎません。

自分の心や意思を捨て、人生を放棄してしまったデイジーの、心を殺す象徴として。

偉大なるギャツビーは自分の愛と正義を貫き、誇りと満足のうちにその生涯を閉じますが。
デイジーは心を失う。
心の支えとしていた、美しい初恋の思い出を、自らの手で滅茶苦茶に汚してしまって。
…自ら選んで、恋を切り刻んで、投げ捨ててしまって。
娘を生んで「女の子はきれいでバカなほうが良い」と言い、「女の子で良かった」というのは舞台でも使われたセリフだったでしょうか?
この、生まれた子供が娘だったというのが、なんと切ない事か。

デイジーは「娘を持った母親」になった時、かつての自分の母親と同じ道を選び…母の行いを肯定してしまう。
ゴルフ場で、夫の家に帰る事を選んだ時に。
かつては腹いせの為に「バカな女の子になってやる!」と叫んだけれど、結局は母の行いを認めて、その母の示した道を選んだ。
自分の手で、恋を捨てた。…それだけでも、かなり切ない事だけれど。
自らの罪の行いの為に、ギャツビーを喪った時。
「バカな女の子」になり、人に言われるがまま、自分の行いをちゃんと考える事を放棄した結果として、愛する人を犠牲とした時に。
彼女は自分の手で、自分の美しい恋の思い出を…人生を汚してしまった。

原作では、デイジーはお葬式には訪れないそうですが、私はそのほうが納得出来ると思いました。
舞台としては、白い薔薇を一輪手向けるほうが、美しいとは思いますが。
あんな事があってもお葬式に来られるくらいの強さを持った人間だったら、ああいう道は選ばないと思う。お葬式なんか出ずに、世界の果てまで逃げていく女性なんじゃないかな。
なんといっても、モデルとしてゼルダという生身の女性がいたわけで。
スコット・フィッツジェラルドが描いた、デイジーという女性の行動は本当にリアルで…生身の人間の切なさを描いているなーというのが、まだ原作を読み終わる前の感想です。原作を読み終わったら、また印象が変わるでしょうか。

「THE LAST PARTY」ファンとしては、まず「自分をモデルにしてこんな話を書かれたんじゃ、そりゃ、ゼルダもアル中にくらいはなるわ」と思ってしまいました。一番自分を理解する人に、心弱く愚かで平凡な女性として全世界に公表されるって…やっぱりツライよね^^;
劇中に何度もある「THE LAST PARTY」で使われていたセリフで、懐かしい気分になり。つい「スコットとゼルダ」モードで見てしまったので、かなりデイジーに感情移入してしまいました。
自分の愚かさの為に愛する人を喪ったデイジーは、娘の恋人が「金持ち」でなかったら、どうするのだろう?
母と同じように娘に良縁を望むのか、娘には恋を貫いて欲しいと望むのか…そもそも、その時まで正気でいられるのだろうか?

こんなふうにデイジーについて色々と考えてしまうのも、あいちゃんが頑張ってデイジーの心を演じて見せてくれたから。
ローズ・ラムーア役もすごく色々な事を想像させてくれる演技でしたが、あれからまた大きく成長ましたねー。
全ツ「ダル・レークの恋」のリタ役の頃まで気になっていた、怒るときも泣くときも同じように顔を歪めるような表情になるのが、ハリラバ頃から改善されたのが嬉しいです。
今回のデイジーでは怒りの表情にぐっと強さがでて、「タカラヅカの娘役」の枠の中に、生々しくリアルな人間の感情を迸らせる技量を見せてくれました。その瞳に宿る、パワーに引き込まれ…ナマの芝居を見る醍醐味を味わせてくれたと思います。ローズの時にインタヴューで「娘役であるより、役者としていたい」というような発言がありましたが、娘役としての枠をしっかり持っているからこその言葉なんだなーと、納得。
…まあ、あくまでも「月娘」としての枠なので、他組の娘役さんの芝居より、ちょっと力強いエネルギーに溢れたものかもしれませんが^^;
ともかく、あいちゃんのデイジーを見る事ができて、本当に良かったと思えた観劇でした。
その他の方々も皆さん良かったのですが、いずれまた。

月組特集本

2008年6月28日 月組
やっと、手に入れました。
どうしよう、読み出したら止まりません。
みんな、可愛すぎる。そして、面白すぎる。
すみからすみまで、楽しいです。
…ちょっと、過去の舞台写真コーナーのオオゾラさんを見ると切なくなるけど。

やっぱり、生徒さん同士がコメントしていくコーナーが、楽しいですね。
あと、アンケートの「なんでもNO,1」コーナー。
「ギャップのある人NO,1」の研ルイス君は、どのコメントもとぼけていて、面白いなー。
「博識家」と「ほっとけないNO,1」の両方の第三位の篁祐希君も、結構気になります。「美食家」のかえこちゃん(良基天音)は、確か前回の月組本でも同じだったような。獲得票数は、組子の8〜9割くらい?…それにしてもお菓子の天使さまの扮装が、あまりにも可愛くて、眩暈がしそうです^^;
伝言板じゅずつなぎも、とても面白かったので、もうちょっと下級生まで人数入れてくれてもいいのに。
あー、楽しかった。…って、公演の感想をまとめたいのに、ついつい寄り道してしまってます。
みりおジャッキーを見てきました。
東京公演のわりと始めのほうに、あいあいのジャッキーを見て、やっとちゃんと見た…という気分で満足しました。
でも、今日は時間がないので、メモとして。

あいあいのジャッキーは、とっても完成度の高い「宝塚の娘役芸」としての、コメディエンヌ。
みりおジャッキーは、すごーーく美人で、感情の豊かさがキュートな「普通の女の子」という印象でした。
お二人とも、ほんっとおーーーーに可愛くて、どちらを見ても「ジャッキーってこういう役なんだ!」と納得させられて、大満足(^^)
ただ、今回の演出と他のメンバーのキャラクター設定に合っていたのは、あいあいジャッキーかなー、とも思いました。

今回の演出の〜今の月組でしかできない〜「ME AND MY GIRL」は、甘く切なく、華やかにショーアップされたミュージカルコメディ。
一人の悪い人も出てこない…だけじゃなくて、一人のイヤなヤツも出てこない“明るく楽しい可愛らしい作品”という印象でした。
ヘアフォード家の人々は、みんなコミカルなキャラがたっていて、出てくるだけで面白くて。
この愉快な人達が織り成すコメディには、あいあいの「宝塚娘役芸」でしっかりとカリカチュアされたジャッキー像のほうが、私には自然に感じられました。周りのステレオタイプなキャラクター達と馴染みが良い気がして。作品全体が同じテンションで統一されて、まとまり感がある…といいましょうか。
みりおジャッキーは、宝塚的イレギュラーの存在として、一人だけ周囲から浮き上がった感じがあるんですね。それが「男役が演じる娘役」の持つ意味なのだなーと、納得。そのぶん、みりおジャッキーの存在感が大きいわけですが。
勿論、どちらが良いわけでも、悪いのでもありません。
ただ、私は先にあいあいジャッキーのバージョンを見たせいで、作品の印象を掴み易かった気がします。この順番で見たのは、正解だったかなー♪

でも、「悪い人」がいないのと「イヤな人」がいないのでは、ちょっと意味が違うんですね。
平民を見下した貴族も、貴族への反感を持った平民もいない。
「階級」による断絶をあまり感じない、甘い人々のお話になってしまったら…その隔たりを乗り越える、二人の愛にもあまり重みが感じられない。二人を隔てるのは、ただマリア叔母様の我侭のみ、だから叔母様が納得すれば、それだけでハッピーエンドとなったように見えてしまいました。
貴族社会と平民社会の間に立つ”個人”としてのビルとサリーの物語ではなく、叔母様と仲良くなるまでのホームドラマ…という感じかな?
ヘアフォードの面白い人達は、みんな偏見も無い良い人達。すぐにビルと仲良しになってしまうので、ビルは「下町で育った孤児」としての孤独感もあまり感じられず。
だから、ホームドラマではあるけれど、さみしい孤児の「家族の再生」の物語というあたりは感じないですね。
なので、今回の演出は、楽しければ、なんでもいいや♪という感じなんだなーと思い、存分に楽しんできました(^^)ランベス・ウォークでは、楽しみ過ぎて体力の限界が。一体どうやったら、上手と下手と中央後方と、客席降りを全部見られるのでしょうか?

そしてまた、鳳月杏ちゃんチェック。
パーティの場面、ランベスの人々が乱入してきて貴族が一塊になった時、上手側に麻月・あちょー・杏ちゃんと並ぶのが、私的に超ツボ!
三人とも細かいお芝居をしています。たのしー。
最初は三人ともすごく嫌がって、あちょーさんが「出て行けー」等、野次っているのも面白い。杏ちゃんの、すっごくイヤーーーな顔に、ちょっとときめく。
でも、だんだんノリ出すと、一気に崩れるあちょーさん。そりゃ崩れ過ぎでしょう^^;…でも上流階級の品を失わないのがさすがです。いきなりオヤジな踊り方になる麻月ちゃんも素敵。
若い杏ちゃんは、みんながバラけた途端、エスコートしてきた彼女をきょろきょろ探して、見つけた時の嬉しそうな顔が可愛いかった!…まだ、あまり表情豊かではないけれど、そんなの私は慣れてますから^^;でも、彼の目にぱっと喜びの色の色が浮かぶのが、すごく印象的。その後は、二人でラブラブに踊っていて、微笑ましいです。若いっていいなぁ(笑)
ロケットは、腰の高さと、肩の骨のしっかり具合に反して、腕や脚の細さにびっくり。もうちょっと太って身のある感じのほうが…好みですが。
フィナーレ、階段を降りてくる頭の小ささと、肩幅にびっくり。アンバランスな程に頭がちっちゃい。立派な肩幅。
笑顔もあんまり無邪気そうじゃなくて、いいなぁ(*^_^*)そこでカッコつけるのは、男役として良い心意気です。
これからも、楽しみにしています。

今頃気付いた

2008年6月18日 月組
博多座のきりやビルの可愛い笑顔のポスターを見ていて。
初めて気付きました。

このビルの服装、下半身はランベスで、上半身が貴族様、なんですね。
こんな単純で象徴的なアピールに、どうして気付かないでいたのでしょう。
不覚です、13年も。

根っこはランベス、上のほうだけ貴族。
土台はランベス、うわっつらは貴族。
身体はランベス、頭は貴族といってもいい。
…でも、じゃあ、ハートは貴族ともいえるんだな。
なるほど。

皮肉大好きイギリス人のユーモアには、やっぱり敵わない。
もはや、かなり忘れてしまった月組新公話^^;
思いついた人から、書き易いように。

先日、突然「LUNA」の博多座公演について書いてしまったりしたのは、またもや回顧モードになっていたのです。
というのも、新公で、鳳月杏ちゃんに目を奪われてしまったからです。
私が写真でしか知らない下級生の頃のゆうひちゃん、あの可愛い子が。
生きて、動いてる。
びっくりしました。すっごく、似てる。祐飛さんの下級生時代に。
杏ちゃんに最初に目がいったのは「パリ空」新公で、立ち姿や目元のお化粧が似ていたからで。それからずっと、どんどん似てきていると思って、目で追っていたのですが。
今回、召使(男)で、初めて通し役で芝居をしているのを見て…やっぱり似てる。
由緒ある貴族の屋敷に勤める、平民としてはちょっとしたエリート意識や矜持を持った、若い召使。ちょっと生意気そうな、でも生真面目な所もあり、根は良い奴かもしれない…。
他の召使達も、独自のキャラクターを作って、それぞれの個性を表現しているのですが、その中であのキャラになるあたりが、ちょっと愛しいかも。
ただ、見た目やお化粧が似ているだけなら、祐飛さんにとっても杏ちゃんにとっても失礼だと思うのですが。芝居が気に入ったので、つまり私の好みの子だ!…という事で。
多分、祐飛さんよりちょっと背が高くて、頭がちっちゃい。腰が高くて手足が長くて、肩幅もあり腰も細くて…やはり次の世代のスタイルの良さ。
ご先祖の場面、金髪ウェーブのロングヘア大きな帽子付きで、今大劇場のオオゾラさんのようなお髭を付けた姿は、ちょっと眩暈がするくらい似ていました。お髭を付けて、クールな表情で…カッコ良かった。
挨拶で全員がずらっと並んだ時、二階席からでも、すぐに見つけられるスタイルでした。最後にふにゃっ〜と笑っているのも、可愛くて(^^)
これから、どんなふうに成長していくんだろう。とても楽しみです。
オオゾラさんの下級生時代に出会えなかったのはずっと残念だったので、その無念を晴らす勢いで、こっそり見させていただきたいと思います。

初めて通し役を見た…といえば、一幕のヘザーセット、あちょーさん(華央あみり)。
今回の大ヒット!の一人。今までも、ダンディなお髭姿の素敵さには目を奪われておりましたが、こんなに良い芝居をする方とは。
前回の「マジシャン」の時の冒頭の 未沙さんの「男爵」役でも上手いなーとは思ったのですが、こんなふうに一人の人物を作った芝居を見るのは初めてだったんです。
ヘザーセットという人は、貴族階級と平民の狭間に位置する役。あくまでも平民でしかない彼は、ビルの状況を理解しながら、複雑な思いもあったりする。
ある意味、この物語の大きなテーマである、二つの「階級」を体現する重要な役。私、この役、大好きなんです。
あちょーさんは、この新公を対立する階級の人間ドラマとして成立させる土台を、きっちりと支えていたと思います。
最初にビルとサリーに挨拶をする場面では、単なる執事として御前様に対して遠く距離をおいた存在であるのが、調理場の場面、パブに出かける前と、少しずつビルという人間に対して親しみを抱いていく。
同時に複雑な感情もあるのだけれど、表には出さず、あくまで執事としてあるべき姿を守ろうとする…という変化の見せ方が素晴らしかった。そして、ランベスウォークでハジけちゃう姿も、素敵でした(*^_^*)
抑えた佇まいの奥に、彼の人生と人間的な暖かみを滲ませる、本当に良い芝居でした。

…たった、二人書いただけで、力尽きました。
続きはいずれ、また。

博多座です

2008年6月13日 月組
博多座のメインキャスト、発表されましたね。
なかなか新鮮なキャストですね。
なんだかとっても、若い!熱い!…という感じ。
改めて全メンバーを見て、主演の霧矢さんに合わせて月組の中でも特に熱いメンバーを集めたのかなー、なんて思ったりして^^;
そして、ジャッキーとジェラルドの役替りとは、びっくりです。
新公を見て我慢できなくなって、やはり博多にも行こうと思っていた私には、嬉しいニュース。
花組東宝が終わってから行く事になるので、まさきジャッキーですよ。
これは、すっごく楽しみ。
みりおジェラルドも似合いそうで楽しみだけど、みりおジェラルド、まさきジャッキーに吹っ飛ばされそうじゃないですか?
それはそれで可愛いと思うのですが(^^ゞ
新公でアルマンドとジョルジュ、 シャンドールと ボルディジャール殿下と、掛け合いの芝居を演じてきた二人。
ジャッキーとジェラルドの役替りなんて、またご縁がありますね。
きっと息が合ったお芝居を見せてくれる事でしょう。
まさきジェラルドが見られないのは残念ですが、ワクワクしてきました♪

博多座に行くのは久しぶり。
ローテーションの変更で、月組博多座公演は2000年の「LUNA−月の伝言−」「BLUE・MOON・BLUE−月明かりの赤い花−」以来ですものね。
楽しかったなー。「LUNA」という作品はくだらなかったけど^^;隅から隅まで楽しみましたし、ファン仲間と遊びまくったりで、思い出深い場所です。
本公演とは役が替り、オオゾラさんは大活躍だったんですよね。
当時としては^^;
それが、とても嬉しくて。なんともハイテンションで楽しみました。
芝居のピート役は東京では今ひとつノリが悪かったのに、博多では観客のノリの良さに気を良くされたのか、すっごくはじけていて可愛かったなぁ。
そして、何よりも「BLUE・MOON・BLUE−月明かりの赤い花−」の“戦士”役が本当に良かったんですよ。
戦場で追詰められた”戦士”の孤独、恐怖、焦り。そして、敵を撃った瞬間の高揚感。やがて再び追詰められ、絶望のうちに、銃声が響いて。
撃たれた戦士のシルエットが際立った瞬間に、暗転。そして曲調が変り、明るく華やかなフィナーレが始まる。
…なんとも、ドラマチックな場面でした。
マミさん演じる主人公の戦士・レイナのドラマと重なり、戦場での戦士の運命を見せる役。
戦士は、戦場で赤い花の幻に翻弄されるレイナを撃ち、死をもたらす。
レイナは戦場の苦しみから解放され、白い光に包まれて。解放と転生の高揚感に満たされた、白い衣装の場面は大好きでした。
レイナと戦士がオーバーラップして、ウロボロスの蛇のように、戦士の死で終わる構成も面白かったですね。ドラッグに酔って見る夢はこういうものかもしれない…というような酩酊感のあるショー。
取り留めのない、なんでもごちゃ混ぜのイメージが面白くて。最初に見た時は「?」でしたが、どんどん好きになった作品です。
今でも私的には斎藤吉正の最高傑作だと思っています。
いや、そろそろ、この作品を超えるものを作って欲しいとは思いますが^^;

大劇場・東京と、この役を演じたタニちゃんは華やかで若々しい“戦士”でしたが、かなり違うイメージで。
オオゾラさんは、戦場での苦しみと影のイメージが強く、ラストの転生に向けてのドラマ性の強い“戦士”でした。
この役のイメージが変わる事で、ショー全体のイメージが変わって見えて、すごく新鮮な気がしましたね。
大劇場、1000DAYS劇場と公演を重ね、この作品を知り尽くしたメンバーによる、集大成となった勢いのある熱い公演でした。
…懐かしい。

博多座のキャストを見て旅行計画を考えていたら、CSで「LUNA」が始まってしまい、つらつらと思い出を書いてしまいました。
まだ研3くらいかな?のウェイトレス役のとなみちゃんの顔芸を懐かしく見たり、男役時代のるいるいを見て懐かしがったり。
この公演は役も多かったし、ウラヌスセミナー等で、舞台に常に沢山の人がいて小芝居を繰り広げていたので、かなり忙しく色々なな所を見ていました。
…久しぶりに見たら、記憶の中でかなり「薔薇の封印」とごっちゃになっていたのは、ナイショ^^;
来年の花組公演の小池作品は、どうなるんでしょう…まさか、白衣のマッド・サイエンティストは出てこないよね?
月組「ME AND MY GIRL」新人公演。
だいぶ時間がたってしまいましたが、感想を少しずつ。

本当に素敵な新人公演でした。
新公メンバーの皆さんが見せて下さった、私の大好きな「ME AND MY GIRL」の世界。
若い溌剌とした勢いと、素直で暖かい心で、この作品の新たな魅力を見せられた気がしました。

私はビルとサリーのカップルは、若者ではなく大人の役だと思っています。
階級の違いを大きなテーマとして扱った作品だから、二人は世の中というものをちゃんと分かった大人でなければいけないと思うんです。
下町の暮らしが体に染み付いて一人前の大人になったビルだからこそ、「貴族の血」と言われても抵抗がある。本人にも、貴族達にも、使用人達にも。
そして、ヘアフォード家の人間達が徐々に彼を受け入れていく事や、サリーやマリア叔母様がビルの為にしてくれる事の重みも、きちんと理解して受け止める事ができる。
そこに大きな意味のある作品だと、思っているのです。
…本当に、ずっと思っていたのですが、しかし。
いや、もう、みりおビルには完全に負けました^^;

若くて未熟な、世の中の汚れを知らない、無垢で清らかなビルとサリー。
…いいじゃん、そんなミーマイも。
ただ真っ直ぐに互いの事を思いあい、その純粋な心が回りの人々を動かしていく。
この美しい二人の為ならどんな事でもしてあげたい…と、自然に思わせる、ビルとサリーに胸を打たれました。
舞台の上の人々も、観客も、二人の為に悲しい思いをして、二人の幸せに涙する…そんな幸せな時間。本当に、見れて良かった。

みりおビルは、舞台の真ん中にいて、この人の為に全てが動いている…という存在で。
ともかく見た目が美しいので、ちょっとガラを悪くしても、あまり胡散臭い”下町の男”にはなれていなかったかな?
でも、軽妙な感じでまくし立てるセリフの調子で、周りの貴族達からは浮き上がって見えたのでOK。
多少セリフに詰まったりしても、そこに居るのは”ビル”なので、何の問題も無しでした。逆にみりおビルが可愛いくて親しみがでて、舞台と客席の一体感となった程。
初主演がこの大役で、かなり一杯一杯な様子でしたが、それも慣れない貴族の屋敷で右往左往しているビル…というようにも見えました。
厨房での場面の使用人達への親しみとそこに馴染めない孤独感とか、ヘザーセットに甘えた感じ等も印象的。
ジャッキーに迫られた時の反応や、ヘアフォード家の歴史の本を投げ捨てる…など、ちょっと引っかかる場面も、まるで嫌味を感じさせません。
叔母様にキスされて、荷造りをしに…と一度引っ込む時に、走りながら拳で涙をぬぐっていたのには、泣かされました。
そして、二人のハッピーエンドにも。

しずくちゃんのサリーは、本当にいじらしくて可愛かった。
なんというか、無垢な無私のサリーという印象。
自分の事よりも、ともかくビルの幸せが大事で。辛さも悲しみも確かに有るんだけど…ビルの為に行動するのは自然な事で、そに悲壮感などは感じられない。
サリー本人は、淡々と自分の事を扱う様子で…そのさっぱりした感じが余計に切なかった。
ラストの変身後は、本当に美しくて、納得の美少女ぶり。
二人とも本当に良い表情で、間もぴったりで、本当に良いハッピーエンドでした。
お歌は声が細くて、頑張れ…という感じでしたが、博多座に期待という事で。
見る前は、彼女はサリーというイメージじゃないかなーと思っていたのですが、きっちりとしずくちゃんなりのサリーを作ってくれて感心しました。
(でも、しずくちゃんだったら同じ英国の恋物語でも、森薫氏の『エマ』(Emma)のほうがイメージに合うと思う^^;…ビルの両親の物語より、ちょっと前の時代かな?)

他のキャストも素晴らしくて、芝居にも挨拶にも泣いて泣いて…。
こんなに泣いてしまって恥ずかしい、と思いながら帰りましたが、客席を立った人々の多くが、同じように泣いた後の清々しい顔をしていたのでひと安心。
やっぱり、あの舞台を見たらみんな泣くよね…と納得し、微笑ましく思いながら帰りました。
きっと、あの泣いていた多くの人が「いつの日か、本役でみりおビルが見たい!」と思った筈…なんて、勝手に思っています。

他のキャストについては、また(^^ゞ

いよいよ。

2008年3月12日 月組
宝塚ホテルでのディナーショー、始まるのですね。
私は東京組なので、あと一週間ありますが…一週間しか無いなんて。
ドキドキします。
大空さんの花組生としての初仕事。
初めてのメンバーとの、第一歩。
そして、四回目のディナーショーはどのようショーになるのか。
期待と不安で、胸が一杯です。まあ、ともかく。もう一度呟いておきます。
「頑張れ。」

…さて^^;
落ち着かないので、とりとめも無く、ハリラバの話でも書いておこうと思います。
ちゃんと纏めて話を進めようとすると勇気が必要なので、思いついた事から一つずつ、少しずつ…。

オープニング、記者会見でステファーノとローズのツーショット写真を撮った後。
ふと、目が合ったステファーノとローズ。
その瞬間、見つめ合うステファーノとローズが大好きです。

この二人が「ワケあり」な事を、あの一瞬で観客に一目でわからせる、良い演出と良い芝居だと思います。
だって、あれだけ遠慮なく相手の目を覗き込むなんて、恋人同士しかできませんよね。
しかもあんなに真っ直ぐに目を見つめて、心を問いかけるなんて。
ローズが何を考えているか、幸せなのか、何か不満は無いか。
ローズの心の状態を気遣う、その優しさがあまりにも自然な様子で。
いつもこうやって目で会話をしていた、幸せな恋人達だったんだなぁ…と、どんな説明台詞よりも雄弁に、過去を語ってくれます。

ステファーノがちょっと首を傾げて、ローズの目を覗き込むのが素敵なんですね〜(*^_^*)
その角度といい、肩や腕が見せる表情といい…磨き抜かれた、男役の格好良い仕草の美しさを見せつつ。
二人の芝居の間も、絶妙ですよね。

写真のポーズの為に近くに立って、互いに顔を見合わせた一瞬に。思わず、恋人だった時代のように、見つめ合ってしまった二人。
彼の戸惑いの色、優しさと甘さと悲しみと、問いかけが浮かんだ瞳を見て、慌てて離れるローズ。
彼女を見送り、小さく溜め息をつくステファーノ。

短いけれど、緊迫感のある流れです。
何よりも、一つ一つの動きのタイミングが絶妙だと思うんです。見ている者の感情が、二人の感情の動きにぴったりはまって、二人の戸惑いを一緒に体験できる。

二人の関係は、この短い場面でちゃんと表現されてしまうんですよね。観客がこの二人の姿を見て全て納得しつつ、キャラクターの人間性を説明して、しっかり感情移入させる。本当に絶妙な間の芝居だと、毎回関心しておりました。
他の場面では、見ていて「そこは、もうひと呼吸欲しい」等と思う場面もありましたが、ここはいつもバッチリだったと思います。
この後の二人の過去の説明は、物語を更に進める為のものとして機能する、という演出も良いですよね。

オープニングから派手に流れていた音楽が、二人のツーショットの場面でピタリと止まるのも、緊迫した雰囲気を作ってくれて好きでした。
記者会見の間は、真ん中の三人よりも記者達が面白くて、忙しく記者達をあちこち見ていたのすが。音楽が止んで、ダラダラしていた記者達が身を乗り出すようにステファーノのローズに注目すると、私も二人に注目!だったのでした^^;
そういえば。
先日書き忘れた事。

「ME AND MY GIRL」の中継を見て思ったこと。
瀬奈氏のビル、おどけた芝居をする時、やけに首を振ってませんでしたか?

…「ガイズ」の時の、大空氏のナイスリー君のトレードマークの首振り、そっくり。
懐かしかったなぁ。
同期って、ああいうところ似てくるものですかね?
CS中継『ME AND MY GIRL』前夜祭、見ました。
ああ、やっぱり『ME AND MY GIRL』は、いいなぁ。しみじみ。

お稽古途中で、皆さんまだ全然出来上がってない感じでしたが。
それでも、ラストのランベスウォークは楽しくて…ちょっと、涙が出てしまいました。
私はドライアイなほうで^^;舞台を見てあんまり泣いたりするほうではないのですが、こういうコメディとかでは涙が出る事があります。
ランベスのあんちゃんやおねーちゃん達が、次第に貴族達をノセていくところではかつての興奮が甦りました。
かつて、初めて宝塚大劇場でナマの舞台を見て、そのまま宝塚ファンになった日の、興奮。血沸き肉踊る、感じです(^^)

そして、大好きだったよしこちゃんのゲスト出演も嬉しかった。
私はよしこサリーが本当に好きで、あのサリーじゃなかったら、宝塚ファンにならなかったかもしれないと今でも思ってます。
今では、すっかり普通の女優さんになられて、もうあの退団の時の娘役トップオーラは無いけれど。でも、あの幸せの記憶を呼び覚ましてくれて。
やっぱり、頭がちっちゃくて、スタイル良いですね。佳子ちゃんの芝居はハートがあって、好きだったなぁ。今でも私の理想の娘役像ですね。…歌も踊りも、技術は問いません^^;
私が見た時、もう既に喉がダメになっていたと思うのですが、今回、ちゃんと「あごで受け止めて」を歌ってくれたのも嬉しかった事。

それに伝説の、初代ビルとサリー。
やっぱり素敵なお二人ですね。
初演の映像が少し映って嬉しい。映像あるなら、CSで流してくれたら、もっと嬉しいんだけど。
うたこさんのビル、本当に優しくてあったかくて、素敵です。
歌の僅かのフレーズに色々な感情が詰まっていて、非常に情報量が多い気がします。
何気ない仕草や、ちょっとした目線の動きに、人間味がにじみでる感じ。すごく色々な感情が伝わってきます。
やっぱり、うたこさん時代の月組が今の月組のオリジナルという気がしますね。私がファンになった時代の月組の原風景なのかな。
その時代に宝塚を、月組を知らなかったのは、残念です。

今は、もうだいぶ姿が変わってしまったけれど…。
それでも、月組が芝居の芝居の組である事が変わらないのは、嬉しい限り。

でも、もうあーちゃんが、もう副組長になろうかという時代なんですね。前回は、研一だったんだよね?
私は、東宝まで見る事はできませんが、今の月組の『ME AND MY GIRL』、楽しみにしています♪
昨日アップした記事ですが。
雑談のついでに感想を書いたので、これだと後から分からなくなるかなーと思いまして。
雑談と分けてカテゴリ分類しました。
全体に修正もして、ちゃんと話を終わらせてみましたので、改めてお読みいただけると幸いです(^^ゞ

「HOLLYWOOD LOVER」のDVDのCMを見て。

CMは、二幕のワールドプレミア前の、ステファーノとリチャードの掛け合いの歌から。
やがて、セットが開いて、ローズの登場。
…美しいなぁ。
青年館で、ここのローズのイメージが変わった気がしていました。バウの映像を見ると、やはり変わっていたんだな、と思います。
青年館では、振り向いたローズは、少女のように初々しくあどけない、甘い表情だったと思うんです。バウでは、まだしっかりした顔をしていますね。
この場面に限らず、青年館での二幕のローズは、始終、幸福に酔っ払ってめろめろ状態になっていたと思います。

撮影所の場面、遠くからでもずっとステファーノから目を離さずに、うっとりと彼を見つめるようになったローズを見て、「なんて、弱い女だろう」と思いました。
職場ですから、ステファーノはきっちりと自分を切り替えて仕事モード。なのに、ローズは恋人気分のままです。
むしろ「この良い男は、私のモノなのよ!」というオーラを振りまいて、周りに「この二人デキてる」とアピールしているようにすら思えました。
…これが、“弱い女”の姿なのかと、深く納得しました。
バウのナウオンの座談会で、景子先生が「ローズはもっと弱く」と、何度も言ったという話しでしたが。
そうだよねー。弱々しくするって事じゃなくて。
彼女は、恋に夢中になり過ぎて自分を見失ってしまう、弱い女なんだな…と。
8年前は、その弱さの為に、ステファーノから逃げ出してしまった。
そして、現在。最終的にはその盲目さが、リチャードを刺激して悲劇に向かう。

青年館では、ローズに関する変更が幾つかありましたが、すべてがローズをより弱い女として見せる為だったように思っていました。
ヴィラで、リチャード達が踏み込んできた時の「そうよ、私が捨てたの。」の台詞が「この手で彼を」と変更になり、「最愛の人を」という言葉が言えなくなったのもその為かと。
そのかわり、ステファーノに「俺達は愛し合っている」という台詞が追加されて。
青年館初日は、リチャードに対して言う台詞かと思いましたが、あれは“弱い女”ローズに対して、二人の気持ちを言い聞かせる台詞なんだと、その後気づきました。
公演の後半になっていくにしたがって、どんどん優しい言い方になっていくのも好きでした。

残念だったのが、電話の場面。
私のツボの台詞「ねえ、ローラって呼んでよ。」の後に、青年館の初日のみ「昔みたいに」という台詞が追加されたんです。
けれどその部分は、翌日からはカットされてしまいました。
そしてバウと同じく「ねえ、ローラって呼んでよ。私の本名…」と、なってしまったんですよね。最後まで復活しなくて、残念だったなぁ。
回想シーンでもずっとみんな「ローズ」と呼んでますから、わかりにくい為でしょうか?
でも、この一言があると、微妙にニュアンスが違ってくると思うんですよ。

本名の自分としてステファーノに向かい合いたい、と同時に。
ステファーノがローズという芸名を付ける前の「出会った頃みたいに」という意味もあるような気がして。
「出会った頃のローラに戻って、最初からやり直したい」というニュアンスが追加されたようで、なるほどなーと、思ったんです。

この「ローズ」と「ローラ」についての台詞は、彼女が自分を、そしてステファーノをどう思っているのかを表現する、とても重要な台詞。
受け取り方は、人それぞれなので難しいのですが。

女優の芸名の「ローズ」ではなく、一人の女として。愛するステファーノに本名で、呼んで欲しかった。
ただの孤独な「ローラ」を、愛して欲しかった。
それは確かだと思うけれど。
「私の本名」だけだと、「ローズ」という名前を否定しているようなイメージがあるんですね。その後に「やっと本当の自分になれたような気がする」という台詞もありますし。
「ローズ」=「本当の自分では無い」から、「ローラって呼んでよ」という台詞になるのかな、と。

でも、「昔みたいに」という台詞は、「あの日のサンセット」という台詞に繋がるのかなー、とも思えます。昔=「芸名を付ける前」=出会った頃なら。私的に感じた、「ローズ」のイメージとすんなり繋がるのです。

大空さんがローズについて語った事の一つで。
「ステファーノは“深紅の薔薇”という意味で(でも名前なのでちょっとアレンジして)彼女に「ローズ・クリムソン」と名づけた。
その後、リチャードによって「ローズ・ラムーア」という名前に変えられてしまったのですが。その時、彼女が「ローズ」という名は変えたくないと言ってくれたんじゃないかな…と、思ってる」
ステファーノがそう思ってハリウッドに戻ってきたのなら、やはりそれは彼女の意思なんだろうと思うんです。
恋人を捨てた彼女は、ステファーノから貰った「ローズ」という名前を抱きしめて生きてきた。遠い存在になってしまった彼に繋がる…別れた二人にとっての、ただ一つの絆だったのだと。
そんな大切な名前だから、否定的なイメージは持ちたくないんですね。

なので、私はここでは「本当の自分」の「ローラと呼んで」とは、受け止めたくなくて。
「昔みたいに」「ローラと呼んで」という流れのほうが、しっくりするのです。
初日だけの追加でしたけれど、私は青年館の間ずっと「昔みたいに」という台詞をイメージしてこの場面を見ていたのでした。

それに、あいあいの甘えた言い方も可愛くて(^^)
出会ったばかりの、18歳のローラに戻ったように思いたいのかなー、とも思いまして。
8年間の事は無かった事にはならないけれど、ステファーノに愛されて「本当の自分」に戻れる気がするのではないかと。
だって、彼は今の、彼女の真実の姿を見てくれるから。
…それもまた、弱い女だなーと思いますが。

さすがに、そろそろ記憶も曖昧になってきました。
ほかにもローズに「弱い女」を感じた事があった気がするのですが(^^ゞ
そろそろ、感想も全部まとめてしまわなければ。
なんだか、随分時間がたってしましまいましたが、続きます。

ローズとマギー。…薔薇と、マーガレット。
バウの初日では、恋人に「深紅の薔薇」と名付けたステファーノさんのロマンチストぶりが印象的で、アニメ版「ベルばら」の主題歌を思い出したのですが。その後で、一度だけ呼ばれる「マーガレット・コーマン」という名前が心に残りました。
そして、またあの歌を思い出して。
ああ、「マーガレット」って“名も知れず咲く花”のイメージなんだなぁ…と、思いまして。
景子先生のセンスに感心しつつ、ちょっと切なくなったのでした。

まあマーガレットは”草むらに咲く”花ではなく、園芸種だと思いますが…少なくとも日本では。素朴で可憐な、庶民的な花であることは間違いないと思います。お値段も、だいぶお安いかと思いますし^^;
花言葉は「恋を占う」「貞節」「誠実」「心に秘めた愛」「真実の友情」だそうです。
マギーを思い出すと…なんとも、ビミョーですね。花占いに使う花、という所からきているようですが。

女性にとっては「マーガレットの花のよう」と言われるのは、褒め言葉でよね。
清楚で可憐で。清潔感があり、花の姿は明朗でお日様を連想させる。「幸せ」のイメージの花だと思います。

でも、隣に深紅の薔薇の花が咲いていたら?
美しく薫り高く、鋭い棘を持つ、優雅でゴージャスな花が。

8年前の彼女達については詳細は語られてはいませんが、ステファーノがローズを主演女優として連れてきたのが、マギーとローズとの出会いだと思われます。まだ18歳くらいの、孤児院育ちのローラ。おそらく、孤児院を出て一人で生活し始めて間もない頃でしょう。
マギーは先輩女優として、少し年下のローラに色々と教えてあげたりしたんじゃないかな?女性じゃないと教えられない事は多いと思いますし。

世間に怯えた目を向ける孤児の少女に、ステファーノは「ローズ・クリムソン」と名づけて、愛し始める。
そして、おそらくローズ本人も知らなかった彼女の魅力を、「ハリウッド・ラバー」シリーズの映画で描き出していく。短編のシリーズという事ですから、二人の関係が深まっていく事と並行して、一作ごとに彼女の魅力が花開いていくように作られていた事と思います。
ステファーノに愛されて、映画のヒロインとして周りに認められて。
「孤児のローラ」から、「女優のローズ・クリムソン」に変貌していく。
…それはきっと、固い薔薇の蕾が少しずつほころんでいくような、鮮やかな変化だったのではないでしょうか。
やがてローズは、ハリウッドの帝王を魅了してしまう程の、艶やかな花の姿になる。

マギーは、ローズのすぐ近くで、その変化を見ていた。
孤児として愛に飢えて育ったローズは、おそらくその“飢え”こそが、マギーなどが持ち得ない魅力として、人を惹きつけた。
安い居酒屋で(ダニエルの店って、そういう設定ですよね?)一緒にビールかなにかを飲んでいたとしても、周囲から浮き上がって見えるような存在だったのではないでしょうか。
そして。すぐそばで、薔薇の花が咲いたら。マーガレットの花は、自分を見て貰おうとは思わなくなる。
女優の道を諦めて、暖かい陽だまりの庭で咲く幸せを選んで。
やがて、リチャードの手で過去を消されたローズとは住む世界が違ってしまい…8年後。

彼女は、「ともだち」を裏切った。
「大女優」としての成功を捨てて、ハリウッドを逃げ出そうとするローズを引き止める為。
それが間違いだと、ローズに気づかせる為に。

せっかく手に入れた「大女優」の地位を捨てるなんて。恋人を捨ててまで、手に入れたその地位を。
そんなにも、欲しかったものの筈なのに。
アメリカ中の女の子が憧れる。…自分が心の底から憧れた、その立場を捨てるなんて、いけない事。
だから、引き止めなくては。ローズの為に、ダメだと言ってあげなければ。

私はこのマギーというキャラクターは、この作中で一番痛々しく、リアリティのあるキャラクターだな〜と思うんです。
いますよねー、こういう人。
世の中に、自分の考え方と違う価値観があるという事が、見えない人。自分の考えを疑う事なく、その価値観を人に押し付ける…というつもりもなく、みんなが自分と同じように考えると思っている人。無邪気に、まっすぐに、善良に、そう信じている。
最初に見た時から、そのリアリティが恐ろしくて。とても痛くて。

多分、このマギーという人には「真実」という言葉の意味が、一生分からない。
だって、世の中に一つの考え方しか無いのだから。その奥に隠された「真実」というものも、存在しない。
私は、マギーの「あれは事故だったのよ!」という叫びは、本心からの叫びだと思うんです。
数年後には「あの事故さえなければ、あの二人は幸せになれたのにね〜」と、無邪気に、心から話していると思うんですよ。
ある意味、誰よりも丈夫な心を持った人だと思います。自分の心の底を、疑う事を知らないのだから。

マギーはローズに「あなたは、選んだ」と言いますが、同時に彼女はローズが「選ばれた」と思っているのではないか、とも感じました。
“ローズ”は選ばれた。ハリウッドから。…運命から。
リチャードからのプロポーズは、その結果に過ぎない事だと。
そして、ローズはその運命を受け入れた。
ステファーノに対するローズの葛藤を知らないマギーには、その選択は、あんなにも幸せな恋人との関係を捨てる程の、成功への強い意志での決断だったように見えたのでしょう。
それ程の強い意思も覚悟も、自分は持てない。だからこれ以上女優を続ける意味は、無い。そう納得して、ビリーとの結婚を選んだのだと思います。たとえ実際にマギーには、そのチャンスは無かったとしても。

バウの最初の頃に見た時には、あの裏切りはローズへの嫉妬によるものか…と思ったんですが。青年館のあたりでは、感じ方が変わってきました。

マギーは、ハリウッドの大女優に憧れていた。ガルボもディートリッヒも、そして、ローズ・ラムーアにも。
その憧れが大きすぎて。特に若い頃から知っているローズに対しては、格別大きな憧れと、同時に敗北感もあって。
自分が負けた「ローズ」には、ハリウッドに君臨する、輝いた女性であって欲しい。
恋の為に全てを捨てる、ただの普通の女になんか、なっちゃいけない。そんな葛藤を心の底に持ち…でもそれを意識する事は無く。
ただ、女優ローズ・ラムーアに憧れて「ハリウッドを去って欲しくない」という思いだけが強くあって、ああいう行動を取ったんだろうと思ったんです。本人にとっては、純粋な憧れの気持ちの結果として。
異性のファンより同性のファンのほうが、タチが悪いよねー、と、自分自身への感想も混ぜて思ったりして^^;

というのも、あの場面、特にローズの孤独を強く感じたんですよ。
誰からも理解されない“大スター”のローズ。夫は勿論、彼女のファンも周りの人間達もまた、「夢の女」として彼女の意思を、心を、否定する。ただただ、美しい幻であって欲しいと願う。
…そんなローズの孤独な現実を、ステファーノに見せる場面のように感じました。
8年前の幸せな恋人時代を知るマギーまでが、その幸せを取り戻す事よりも、スターの栄光のほうが大切と思う。
それが、“ハリウッドの狂気”の一つの形なのかな…と。
だって、狂ってますよね?
普通は「ともだち」だったら、その幸福を一番に考えるものでしょうに。
その狂気と、それを自覚しない心の在り方が、痛いなーと思ったのです。

後日談。
公演が終わってしばらくして。
マギーの事を、ものすごくリアリティのあるキャラクターとして感じていた意味が分かりました。
いるよねー、こういう人。
世の中に、自分の考え方と違う価値観や考え方があるという事が、見えない人。無邪気に、まっすぐに、自分の考えを信じて善良に暮らしている人。お説教されると、仕方なく「あなたが正しいわ」と、言うほか無い。
…うちの、親だ^^;
どうりで、恐ろしいほどのリアリティだよ。
やっぱり、植田景子氏は恐ろしい作家だわ。

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