東北地方太平洋沖地震から三週間が過ぎました。
震災の影響でお亡くなりになられた方々のご冥福を祈りますとともに、被害を受けた方々、その家族の皆さまに心よりお見舞い申し上げます。

やっと三週間…特に最初の一週間は、今までの人生で一番長く感じた一週間だったような気がします。
都内在住で特に大きな被害も無かったのですが、毎日テレビで流れる被害の大きさには茫然とするばかり。強大な自然の力の前で、為すすべもなく翻弄される人間の無力さを、改めて感じる他はありませんでした。
そして次々と引き起こされる二次災害、原発事故。いつまでも続く余震に怯え、原発の被害に怯え。それでも直接の被害にあわれた方々の事を考えたら、命があるだけでも有難い事で。

翌日12日から「ヴァレンチノ」の為の大阪行きの予定だったのですが、結局その週の大阪行きは”自粛”する事となりました。その後の都内の停電と、それに伴う交通機関の混乱に「こんな中で、青年館での公演は難しいだろうなー」と思っていたら、やはり中止の発表。
かなり迷いましたが、予定を少し早めて、ドラマシティ公演に行ってきました。
…行って、良かった。救われました。

「ヴァレンチノ」は、以前にCSで放送されたものを一度見た事があり、物語は覚えている…という程度。オオゾラさんが演じると決まってからは、あえて、もう一度見たりはしませんでした。
最初の観劇時は、杜けあきさんのお芝居や、ミユさん、高嶺さん、古代さん等のお芝居を少しだけ思い出しながら、とても冷静に見ていたと思います。大阪に到着してそのまま劇場に入り、ちょっと落ち着かない状態で席につきまして、そのまま舞台に入り込めなかったのかも。
ところが、二幕のクライマックス、ボロボロになったルディが歌う姿に、打ちのめされました。

「失くした夢の大きさは、失くした時に気付くもの」
この一言に、本当に色々な思いが重なってしまって…。毎日、テレビのニュースでエンドレスで流れる、地震の被害映像も頭に浮かんで…自分自身の事も、無くなった青年館公演も。
そうしたら、突然、泣けてきました。
そして、朝日の訪れと共に「希望」を取り戻すルディの姿に、更に涙。

たとえ、多くのものを失っても。それでも人は、一筋の希望の光に向かって歩いて行ける。強くて、しなやかで、しぶとい力を持っている…その力強い美しさは、素晴らしい説得力となって。胸をギュッと掴まれるような衝撃でした。
それから後は、只々、涙を流し続けました。
ルディとジューンの心の繋がりも、ルディの最後の「チャオ!」も、幻の四人と共に去っていくジューンの姿も、あまりに美しくて。
みーちゃんのジョージの語りかける言葉は、あまりにも優しくて。
そして再び登場したルディの笑顔、アランチャを歌う希望の光が、ジューンに手渡すオレンジの枝が象徴する「希望と幸福」が、あまりにも、純粋な光に満ちていて…。

フィナーレはカッコよく、タンゴの音楽はクールで情熱的で、見とれている間に涙も止まり、呼吸を整える事ができました。
でも、最後に全員で歌う「アランチャ」に満ち溢れる、望郷や希望や哀惜や幸福や…様々な思いが混然となった皆さんの歌声に、また涙。
更にはカーテンコールでのオオゾラさんの挨拶の、真摯で力強い、思いやりに溢れた言葉にも涙を流して、劇場を出る頃にはぐったりしてしまいました。

震災以後、テレビのニュースを見ているだけで、あまりの事に涙が出る…という事をよく聞きました。まあ、私はそういうキャラではないわ、などと思っていたのですが(^^ゞ
でも、人間にとって「泣く」事って、必要な事なんですね。この最初の観劇でたっぷり泣いた後には、不思議と体が軽くなっていました。余震やその他様々な事への怯えの為、ぐっと縮こまって固まっていた体から、力が抜けたのです。同時に、心もぎゅっと固まっていたのが、ほぐれたようです。
目の前の霧がすーーっと晴れたようで、恐怖で曇っていた視界が明るく開けた気がしました。おかげで気持ちも軽くなって、その夜は地震の日のあと初めて、ぐっすりと眠る事ができました。

すべては、祐飛ルディが見せてくれた「希望の光」のちからによって。
このドラマシティメンバーが作り上げて下さった、美しく生き生きとした、ひとときの夢の舞台によって。私は救われました。
今までも、宝塚の舞台に、オオゾラさんの舞台に、慰められ力をもらった事は何度もあったけれども。今回は本当に祐飛さんと宙組の皆さんに感謝しています。
私一人では、ただ恐怖に固まる事しかできなかったのに。
あの舞台から力強い「希望」をもらって、「大丈夫だ」と励まされて、落ち着きを取り戻しました。色々な事に無駄に怯える事なく、現実に向きあっていこうと、思えるようになった気がします。

「アランチャ」の曲に象徴される、ルディの「希望の光」は、根拠も無く、無茶と言っていいほどの闇雲な希望です。
アメリカに来たばかりの、18歳のルディの若い「希望」。
多くの職を経て辿り着いた「マキシム」のNO.1ダンサーという仕事を失い、ハリウッドに流れて来て、ジューンに語る前向きな「希望」。
ナターシャとの愛を失い、映画スターとしての栄光も地に墜ちて。孤独の中、ボロボロになりながらも、それでもそこから立ち直り、もう一度新たな道を歩こうとする「希望」。
多くのものを失う度に、彼が抱く「希望」は、力強く、重い意味を持っていく。
「希望」は、簡単に持てるものではなくなって。傷つく事を恐れずに、真っ直ぐに見つめる勇気と、強い意志が無ければ持ち続ける事はできないものだと。
それでも、彼は立ち上がり、「希望」を歌う。
「希望」を抱いて、未来を信じる。
真っ直ぐに、純粋に。

ジョージがルディとジューンを喪った後に思い出す、回想のルディは、どの時代のルディというものではないんですよね。彼の芯にあった「希望」の結晶のようなもの。たとえ肉体を喪っても、彼の「希望と幸福」のアランチャは、ジューンに手渡される。
…そして、ジョージや、彼らの物語を知る、すべての人にも。
どんな状況でも「希望」はいつでも純粋で、ひとしく美しいもので。「アランチャ」は、この物語のルディだけでなく、もっと普遍的な、すべての人が持つ「希望の光」の象徴でもあると思います。ルディの純粋な「希望」の結晶は、この作品を見た人の心の奥にある「希望」をも、照らす光なのだと思うのです。

人間、誰もがそれぞれの「希望」を抱いて、生きている。具体的な形のある”夢”…という程ではなくても。「きっと物事はうまくいく」とか「どこかに幸せが待っている」というような、漠然とした希望でも、心の糧にして生きているものではないかと思うのです。曖昧な形でも、それは祈りのように純粋なものだと。
今まで「当たり前」の事と信じていた”日常”を失って、多くの人が、不安な日々を送る、今。
失って傷ついても、それでも人は何度でも「希望」を持つ事ができるのだと訴えるこの作品を、この時期にやっていてくれた事は本当に有難い事だったと思います。青年館公演が中止になったのは残念ではありますが、それでも。

オオゾラさんは、温かく、力強く、ルディの心の奥にある「希望」を体現して見せて下さって。まるで祈りを捧げるように、真摯にルディを演じる姿に、胸を打たれました。今回は本当に、言葉も無い程に感動しました。
願わくは、事態が落ち着いたところで、なんとか関東で公演して欲しいものです。この関東でこそ、あの美しい「希望の光」を照らして欲しいなぁ。

もう昨日のことですが、宙組大劇場公演千秋楽おめでとうございます。
私は行けなかったので、昨夜は多くの方が書いて下さる、有難い千秋楽報告を色々読ませていただいてちょっと寝不足です。
そして、今日はCSニュースで抜粋を見て。…やっぱり、アリスちゃん、くらっち、ちさちゃんの退団は間違いの無い事なんだな、と思い知り。遠い土地にいて随分前に私の大劇場観劇が終わっているので、なんだかもう夢の中の事のように思っていたらしいです。
…アリスちゃんの挨拶は本当にかっこいいわ。こんなにもカッコいい女性なのですもの。やはり「可愛い妹ちゃん」ばかりでなく、もっとカッコいい女の子の役にあたる事で、この男前な魅力もいかす事ができただろうに勿体無い…と残念に思います。
東京公演では、思い残す事の無いようにしっかり見させていただきます。
公演の様子を見ても、私が大劇場で見た時よりも格段によくなっている模様。なんか、ものすごく良い公演になっているのではありませんか?
東京公演が益々楽しみになりました。もう少しだ!

そして、もう一つ。日付が変わる前に。
大空祐飛さん、お誕生日おめでとうございます。
のんびりケーキでお祝いしてたら、またギリギリになってしまった(^^ゞ

宙組の皆さんに囲まれて、幸せそうな笑顔の千秋楽映像を見て、私も本当に幸せを噛締めました(ケーキと共に(^^)
いま、充実したこの時間、オオゾラさんはいっぱい幸せを感じておられる事と思います。
毎年のこの日、幸せな充実したこの歳を…と祈ってきましたが。今、間違いなく幸せで充実したこの歳。今までの努力が花開いたこの環境で、ずっとやりたかった事を実現して、更に充実した一年を満喫して下さいね。
どうか、お体だけは大事になさって、豊かな時を過ごされますよう祈っております。

一ヶ月、引きこもりしてました。
いや。当ブログの事で、一応最低限の日常生活は送っておりますし、宙組大劇場公演にも行ってきました。
でも、なんか、感想書く気にならなくて(^^ゞ
一度止まってしまうと、なかなか書き出せなくなるんですよねー。こんなネット世界の果ての果てのブログなんて、無くてもいいかなーと。だからといって「もうやめます!」というほどでもないのですが。なんとなーくずるずると書かないで、なんとなーく書き出してみます。

えーと、前回に書いてから色々な事がありましたね。
東宝では、まだ花組公演を一回見て、新公を見た所で止まってるし。結局、その後、花組公演を見る事はできず、感想も書きたいなーと思っているうちに、月組公演が始まり。まさおショーヴランを一回だけ見てきました。新公も無事に見れる予定。

それからラインナップの小出し発表に、キムちゃんの内定発表も。色々、ありましたね。
雪組新公主演&ヒロイン発表の日には、思わず「世界は複雑ね、ロジェ…」とだけ、呟こうかと思いましたが。
懐かしい「螺旋のオルフェ」の、ゆらさんの台詞です。
初めて見た時には「かっこいい台詞だわ~。宝塚でこういう台詞使いができるなんて!」と感動した、荻田浩一氏の台詞。その衝撃は、子供の頃に「認めたくないものだな、若さゆえの過ちというものは。」という台詞を、初めてテレビアニメで見た時と同じくらいのインパクトがありました(^^ゞ
ロジェって、実在のスパイの名前かなんかでしょうかね?
・・・こんな切れ端の文章だけを残して、挫折していました。

そんなヨタ話はともかく。
ちゃんと宙組公演「TRAFALGAR(トラファルガー)-ネルソン、その愛と奇跡-」「ファンキー・サンシャイン」の感想。
二週連続で遠征しまして、「一週間での公演の成長っぷりがすごくて、びっくり!」というのが、まず何よりの感想です。いや、遠征なので土日で連続して4回見て、その一回一回で大きく成長している公演でした。
…というわけで、感想も書きにくい。最初の週に見た公演と翌週に見た公演では、別ものくらいに違うものだったから。
今更、初見の印象との違いを書いても、きっと今、大劇場で公演されている作品は違っていると思うしね。
そして、おそらくは東京に来る頃には、また違うものになっているだろうしなー。

「カサブランカ」も「シャングリラ」でも、毎回すごく成長していましたが、なんか今回はちょっとそれとは違う感じ。お芝居もショーも、まだ固まってないから、かな?東京に来る頃には安定してきているのかもしれない。
とはいえ、もう大劇場には行けないので、私が見てきた時点での感想をひとこと。

まず、お芝居の「TRAFALGAR(トラファルガー)-ネルソン、その愛と奇跡-」。初日を見た友人達みんなから、「サイトー君が大人になった」と言われて臨んだ初観劇。確かに。今まで「オモシロ世界文学」とか、「カッコいいけど、トンデモ作品」などの齋藤先生のイメージを覆す、真面目な宝塚作品。
「清く正しく美しい」宝塚らしく、史実を曲げても英雄の活躍と純愛を描いた、おカタイ歴史もの。むしろ宝塚の古典作品?というか。
初見は、ひたすら真面目に歴史を描いて展開していく物語に驚きつつ「チェーザレ・ボルジア」みたい・・・と、思いました。
演技派久世さんの為に書かれた「チェーザレ」は、禁断の愛と野心に満ちた色濃い作品になるかと思いきや。真面目に理想の為に戦い、ヒロインが実の妹の為、恋愛も無しで、相手役は夏川ゆらさん???二番手のマミさんは、ひたすら歴史を説明するナレーター???という、とっても真面目な歴史作品となった「チェーザレ・ボルジア」。柴田先生の作品としては、ちょっと拍子抜けしてしまった感のあるチェーザレを思い出しながら見ていました。

でも、次の週に見た時はかなり印象が変わっていました。
初見に感じた堅苦しさは無く。最初は詰め込み過ぎに感じたエピソードは、多くの人々の想いを積み重ね、ラストの「トラファルガー海戦」=英雄の最期に向かって、うねるようになだれ込む、勢いのある物語になっている…と、感じました。物語が身体に入ってからのほうが、のめり込める作品、というのもあるでしょうが。
やはり、作品を生かすも殺すも、出演者次第なんだなーと、改めて思ったりして。

もう一つ印象的だったのが、結構ちゃんと恋愛物語が書き込まれている事。
…いやぁ、本当にオトナになったなー、齋藤先生。
まだ、以前からの少年漫画的恋愛を引きずってはいますし、意外に恋愛体質なトップコンビが、勝手にやってる部分もある気がしますが(^^ゞ
ネルソン・エマ・ウィリアム・ファニーの、四人の想いがそれぞれに理解できて、切ない。
今まで齋藤オリジナル作品の恋愛部分は、何が言いたいのか、さっぱり意味が分からなかった事が多いですから。まず「気持ちが分かる」事に吃驚です^^;

物語の始まり。すみ花ちゃんの「イギリス大使夫人になった」というモノローグにあわせて、孤独と諦念の色に、すーっと変化する瞳に心を持っていかれます。この一瞬で、エマの心の全てを語ってしまう、さすがは天才の技!
この若くて可愛いくて才気あふれる妻を、46歳のウィリアム叔父様はどう扱っていいか分からなくて、遠くから眺めるだけだったんだろうなーとか。
女神像として祀られても、生身の人間は普通困るよね、とか。
戦争バカのホレイショ君は、「もう!!」と言いながら、その不器用さに突っ込みをいれてくれる相手のほうが付き合い易かったんだよね、とか。
田舎に引っ込んで義父の面倒をみながら、話し相手も無く孤独な生活を送るファニーは、ただただ、もっとかまって欲しかっただけなんだよね、とか。
どの人物も、分からない事を言わない。本当に吃驚です。
でも、やはり私も女なので、エマとファニーの二人の女性のそれぞれの孤独に、感情移入しちゃうかな。

ともかく、宙組男役の皆さんの軍服姿は完璧にカッコよく、男達の戦いのドラマは熱くて。恋愛部分も史実の不思議な関係を描いて欲しかった気もするけれど、宝塚らしくキレイに纏まっていて。
高校生の頃から考えていた、フィクションの傾向と対策「男はロマンを追い、女ロマンティックを求める」に、見事に一致する作品でした。
英雄と呼ばれる海の男ホレイショ・ネルソンにとって、エマはロマンであり、ファニーは彼にロマンティックを求めたのが間違いだったのかなーと。
ウィリアムはロマンを追い過ぎて、女神像として奉ったりしたから、逃げられちゃったのね^^;

さて、とりあえず忘れないうちに記録のみで時間切れです。ショーのほうは、また今度。
この作品の「近未来」世界の設定、詳しくはほとんど語られていません。
色々な事の端々から、色々推察するのみ。でも、それが物語を理解するのに必要な事なので、色々考えなくては話がわからない。
そして色々な人と考察を話し合ったり、ブログ等で読むと、皆さん結構違う解釈をしているらしい^^;
という訳で、私も自分なりの物語を考察する為の「シャングリラ世界設定」を書き留めておきます。

核戦争後の日本。
関西の「水源の村」出身の「蛇の目一座」のルイは電気というものを知りません。
でも、東京の九龍客桟のあたりはネオンサインが煌めいていますし、秋葉原にはパソコンも売っている。ペンダントに仕込める程の、小型の発信機も簡単に手に入るらしい。
東京は戦争中、中国に割譲されていた…という事は、中国も敵だったのかな?だから大陸に近い、関西の方が被害が大きかったのでしょうか。もしかすると、核の爆心地は関西方面なのかもしれません。
東京は割りと戦争の傷が浅く、機械類も発電所もかなり無傷で残っているらしい。
この作品中、戦争中の事を語る人物はいませんし、水源の村には水を祀る宗教が発生している所をみると、戦争はいつの事なのか。
残っているパソコンなどの寿命も鑑みると、戦後40年から50年程度、というところでしょうか。発信機等の小さな機械の寿命なんて短そうだけど、あの世界で新たに生産はできないだろうになぁ…。ま、それを言うなら、ペットボトルの製造もできないだろうけど、あんなのせいぜい数年でダメになるよなーとか、見た観客全員がつっこんでますよね^^;

関西のほうが核の被害が大きかったと考えると、人体に対する影響も深刻なのかも。
雨が汚染されているという事は、その雨水に濡れた土は、汚染を蓄積している筈。でも、土埃などに触れない事も、吸い込む事も、防ぐのは難しい事でしょう。
直接雨に濡れなくても、人間は放射線と酸の影響で、とても寿命が短いのでは…と考えられます。
更に治安も悪く、暴力に晒されて、人々にとって「死」はとても近いもののような気がします。子供を生んで次の世代を残したら、簡単に命を落とすような人が多いのでは。だから孤児が溢れ、親を亡くした子供達も、守ってくれる大人がいなければ生きていくことは難しいでしょう。
世代交代も早くなるので、教育も行き届かず、関西では戦前の知識は容易に忘れ去られていった…のかな。

最初に見た時から、私がずっと引っかかりを覚えるのが「村人達って、農民なんだよね?」という事。
見た目はどう見ても農民っぽい感じですが、だったら真っ先に農作物についての心配がある筈、だと思うんですよねー、普通。
雨が降らず旱魃があると、農作物は枯れて、飢饉がおきる。
人が必要とする飲み水の量はたかが知れていますが、田畑の作物はそうはいきません。まともに食べていくだけの量の作物を栽培する為には、飲み水など比べ物にならない程の、大量の水を必要とする筈です。旱魃の時の”水争い”は、田畑に引く水を争う事です。水が不足する時、人は渇きではなく、飢えて滅びるのです。
この作中では、水は不足していても、食べ物に困るという描写は出てこない。脚本のいい加減さを、一番感じるところです。

地表は水も土も汚染された世界。
自然の木は、かなり珍しいものらしい。
それでも、人はやはり農作物を育てて、食べていく事でしょう。汚染されてない土を確保して、汚染された雨に濡れないように、汚染された土と混じらないように。でも、適度に日に当てて…となると、あまり大規模な農業はできない事と思われます。おそらく、牛や豚などの大型の家畜を養う力も乏しい筈。鶏くらいなら大丈夫かな?魚も難しいよね?きっと。
人間が必要とする栄養は、かなりの部分、植物に頼るしかないのでは?動物性たんぱくが摂れない場合、一人の人間が必要とする穀物は結構な量になるものです。
今、核戦争などが起きれば、直接の戦争被害は勿論、食糧生産力の低下によって世界の人口は激減するだろうと考えられています。
地域の人口を決めるのは、その場所の食料生産力。この世界では、更に「きれいな飲み水」の量が、養える人口を決めている模様。
だから、”よそ者”に貴重な水を恵んでいる余裕は、無い。この村の今の人口が、この土地の生産力で生活を賄える、ぴったりの人数なのだろうと思います。
人口が減る…というのは簡単だけど、つまり弱い者から死んでいくという事。

逆に、食料生産能力と水が十分にある土地なら、人口は増やして労働力を確保したいのかも。何しろ簡単に人が死ぬ時代だし、斃れて働けなくなる時もくるかもしれない。互いに助けあう事で、自分達の危機の時に備えるべきでしょう。情けは人の為ならず。健康保険も年金もない世の中ですからね^^;
ソラが最後に辿りついた「シャングリラ」、さっつんの住む村は、そういう場所なのかもしれません。
隣の家や親戚などが、子供を遺して亡くなったら…親を亡くした子供達を、人は無碍にもできない。次の世代の貴重な労働力ですから。
そんな時、捨て子を連れたソラが流れ着いて、誰かがやらなくてはならない「村の子供達」を面倒見てくれるなら、有り難い事だったのでは。

村の廃屋と水と食べ物を提供する事で、元気なソラの労働力も得られて、一石二鳥、ギブアンドテイク。
閉鎖された小さな村なら、新しい遺伝子が混じる事も歓迎されると思う。なにしろイイ男だし、優秀らしいし。村に未婚の娘がいたら、嫁を取らせてしまえば、もう「余所者」ではなくなります。
さっつんの妹の、りりこちゃん(勝手に決定。歌ウマ兄妹)など、「ぜひ!」とオススメされてたりして(^^)
そして、ソラは適当に断っていたので、「あいつぅ!」(彼女がいるなら、そう言えばいいのに)と、なったのかも…なんてね♪
今日は、5歳の男の子と2歳の女の子と遊んできました。
二人とも、絶えず笑い続け、走り続け、転げ周り、大きな声で叫んでいました。
子供達を抱っこするのも、抱きつかれるのも、不思議と人間の心を暖めてくれるものです。これが、人間にとっての幸せの一つの形なんだなーと、改めて思いました。
…絶え間なく続く、お子様達のやんちゃを叱り付けて、人間らしい生活に当てはめていかなければならない親達は、げっそり疲れていましたけれど^^;
子供を相手にするっていうのは、本当に忍耐力のいる事。全ての子供を持つ親御さん達に尊敬の念を抱いた一日でした。

そして、今の私が思い出すのは、やっぱり「シャングリラ」の保育士さんとなった二人と子供たち(^^)
ドラマシティで最初にみた時にびっくりした「俺は幸せになるわけには、いかない」という台詞のすぐ後に、美雨を受け入れるソラ。
でも、次の週に見た時には、納得しちゃったんですよね。
だって、ぶっきらぼうで、小さい女の子を泣かしながらも、似合わない保父さんをやっているソラ。
でも、子供達の笑顔に囲まれて、空気の読める子供…心優しい子供達との生活は、やっぱり、もう既に「幸せ」そのものの暮らしだとしか、思えないんですよね。子供達は自分の面倒を見てくれるソラを、力いっぱい愛していると思うから。
「俺は幸せになるわけには、いかない」というのは、美雨の前から姿を消した時の状況説明でしかないんだな。この子供達との生活を見た後では。
だから、美雨の事だって受け入れられる。既に幸せになってしまったのだから、更に美雨という大きな幸せを得ても、もういいでしょう。

最初に見た時。ソラの記憶の「パンドラの匣」を開けて、あらゆる災厄が飛び出し、全てを喪ったソラが最後に手にした「希望」は、美雨の事かと思ったのですが。
でも、次の週に見た時からは「希望」は、子供達の存在だと思ったのです。
そして、子供達を見守る、幸せ。
自分が感じた、そしておそらくはアイスも感じただろうと思う、無邪気な子供達への、愛。その、素朴で強い、暖かな想い。アイスの場合は、思いが強すぎて道を誤ってしまったけれども、原点となった愛情の暖かさを身をもって感じたから。
だから、ソラは不器用にも子供達を育てるという、アイスと同じ道を辿る。
そして、美雨を抱きしめる「希望」を持てる。
美雨と共に新しい家庭を作り、喪った家族を再生する。それは、喪った者達への愛情を示す事だから。

…しかし、小さい美雨ちゃんの名前を変えるワケにもいかないだろうし、美雨はどう呼ばれる事になるんでしょうね(^^)

今頃、やっと→Pia-no-jaC←「風神雷神」を入手しまして。
繰り返し聞いています。もう、この音に頭が支配されそうな気分。
メロディとリズムをシンプルにピアノとカホンで分担した音。でも、ピアノも打楽器なんだなーと思ったり。正確には打弦楽器、ですが。
雰囲気もあり、すごく繊細なんだけど、派手なメロディと、有無を言わさず体を支配するリズム。この曲を使用した時点で「シャングリラ-水之城-」の世界観のかなり大きなイメージが決まったようなものだろうなー。

聞いていると、無条件に舞台のビジュアルを思い出したり、見ていた時の気分を思い出したりします。あの空間が懐かしい。
特に「Time Limit」の始まりは、問答無用でソラと雹の場面を思い出します。
ソラの後ろに立った雹のしなやかな腕の動きが好きだったなー。切ない、美しい場面だった。

→Pia-no-jaC←さんの三曲だけでなく、吉田優子先生の音楽もみんな好きでした。吉田優子先生の曲は、繊細で、物語や登場人物の心情にそっと寄り添ってくれるような優しさがあって、すごく好きです。
アジアっぽい、二胡や尺八?のような優しい音の曲も、ピアノの音も、普通のオーケストラの曲も有り、なかなか凝った作りでした。二幕始めの80~90年代?という、軽い電子音の曲も、昔のテレビアニメみたいですごく懐かしい感じ。
まあ、子供の頃に好きだったテレビアニメを思い出してみると、この作品の設定や脚本の無理も、全然有りです。あのくらい、ふつーだわ^^;

とはいえ。最初にドラマシティで見た時には、幼い子供の頃に見て好きだった、まだ「テレビまんが」と呼ばれていたものを思い出したのですが。
青年館公演の終わりには、映画版「地球へ…」を初めて見た時の感動を思い出したのです。映画館には連れて行って貰えなかったけれど、家のテレビで見ても、しばらくはボーっとして何も喋れなくなった程に衝撃的だった。あの頃のような、まだ幼くて柔らかかった私の心だったら、このシャングリラにも本気で感動したかもなー。と、思う程に成長した作品でした。…ま、それでもやはり、ツッコミはしていたと思いますが(^^ゞ
オオゾラさん、ソルジャー・ブルーみたいだったなぁ。どんなに激しく動いても全く形を変えない、不思議なカタチになびいた青い髪が。
でも、読みたくなった時には「地球へ…」が見つからないわ。
昨日は宙組集合日。
…凹みました。アリスちゃん…。
胡蝶、好きだったのに。情感のある芝居のなかに、少女の初々しさと甘さを併せ持つ色が好き。宙組に来てたくさん見られるようになったのが、嬉しかったのに。オオゾラさんとの並びも、美しくて、大好きなのに。アリスちゃんと並ぶと、オオゾラさんの格が上がる、そんな素敵な娘役さんになられたなぁ…と。
娘役さんの人事というのは、本当にタイミングが全て。色々な事情があるのだろうなーとは思いますが、それと心は別のもの。
なんとも納得できないものがある。飲み込めない思いがある。

男役さんと違い、娘役さんの抜擢は早いもの。研一、研二くらいで重要な役を与えられ、無理矢理にでも早くヒロインとしての修行をさせられる。
でも、トップ娘役さんの数は決まっています。抜擢された娘役さんの数程の、あきは無い。しかもほとんどの場合、トップ男役さんの都合に合わせて時期が左右されてしまうのが悲しいところ。ちょうど良い時期に、相性のよさそうなトップ男役さんの都合がつく可能性は低いもの。新公・バウと、ヒロインを歴任しても、時期が合わないと、気が付いたら扱いが変わっていたりする。
ついこの前まで「劇団は必ずこの子をトップにするつもりなんだなー」と思っていた娘役さんなのに。いつの間にか、その場所には、もっと下級生の娘役さんがいた。
…そんな事が、立て続けに起こったこの一年。

思い出したのは、昨年末の「タカラヅカ・スペシャル2009」の事でした。
あの時、雪組のゆみこさんの退団が発表されたばかりで、生徒さん達も客席も涙にくれる中。私には、大きな瞳をウルウルさせているのがものすごく綺麗で、目が離せなくなった娘役さん達が印象に残っています。
大月さゆちゃん、白華 れみちゃん、花影アリスちゃんの三人の張り詰めたような、煌めく美しさ。
可愛い娘役さんだとは思っていたけど、この方達、こんなに綺麗だったったけ?と思いながら、イヤな胸騒ぎを感じたのを覚えています。

彼女達の心が燃え上がるパワーが、この生命の炎の煌めきのような、輝く美しさを生み出している。その輝きに圧倒されながら、切なくて、泣きたくなった。
…あの時には、色々なことが決まっていたのかな。と、今となってまた思うのですが。
人の力ではどうにもならないめぐり合わせなのかもしれないけれど、心がついていけない。切なさは止められない。私達ファンには、ただ、舞台を見ることしかできないけれど。できるだけ、その舞台を見て、拍手を送りたいと思います。
そして、舞姫あゆみさん、千紗れいなさん。今回はショーがあるから、三人ともちゃんと見せ場を作ってもらえるといいな。
ただ、三人の皆様がこの公演を楽しんで、お幸せに過ごされる事を祈ります。

CSニュース「シャングリラ -水之城-」の千秋楽映像を見ました。
ちゃんと、轟天号の運転手交代アドリブや、ラストのさっつんの「トラファルフガー」の看板の営業も映してくれて、嬉しいです♪
でも、もっと映してくれてもいいのに^^;
全体に「そこ、映すんだ(@_@)」と「あともう少し流して…」の繰り返し。焦らさせます。こんなにDVDの発売が待ち遠しい作品も久しぶりかも。
なんだかんだ言っても、終わってしまったのが淋しい…というか、もっと見たい。
短期間の公演でも十分な回数を見た筈なのですが…回数の問題では、ないらしいです。せめて、オーブニングとタイムリミットとフィナーレだけでも、ずっと体感していたい。もう少しで、禁断症状がでそうな気分です。

あの音楽とダンスのかっこよさを、客席で舞台と一体になって感じていた、あの感覚をもう一度味わいたい。
こう書くと、ショーとしてダンス場面を楽しみたいようですが、そうではないのがこの作品の面白いところでした。
あの物語があるからこそ。あの世界の、あのキャラ達を、舞台で見たい。たとえ、つっこみどころ満載な物語であっても。
また、ソラ達みんな、あのキャラクター達に会いたいのです。そして、あのキャラクターの皆さんが踊る姿が見たいし、客席で体感したいんだなぁ。
…これは、私のなかで、新しい感覚かもしれません。

ドラマシティの千秋楽の挨拶での、オオゾラさんの「ソフトシェルクラブのような、柔らかい」作品という言葉。
その時は、どういう意味だかよくわからなかったのですが、青年館の舞台を見て、すごく納得しました。
皆さんのキャラクターがイキイキと舞台で動いている姿が、とっても自由度が高い気がして。
まるで、その人そのもの、のように見える。
美雨はすみ花ちゃんそのもの、嵐はらんとむさん、そのもの。どのキャラも、皆さんそう思える。
皆さんの役者としての本質のキャラクターと、役のキャラクターが合っているという事かな?

オオゾラさんに至っては、記憶喪失という、役の設定を取り払ったキャラクターから始まるのですから、尚更です。
役としての”ソラ”と、役者・オオゾラユウヒは、一見すると境目が曖昧な存在のようにも見えます。
「記憶」という、人間の行動や判断の基準となるものが無いという役は、人物のニュートラルな性格を現す存在として描かれていますから。
でも勿論、素のオオゾラユウヒさんとは、全然別の存在です。
逆に、”ソラ”という人物のニュートラルな状態を、細心の注意を払って作りあげた存在。
記憶喪失のソラは、回想場面の記憶を失う前のソラの願った姿。そして、記憶を取り戻してからのソラは、美雨達との心の触れあいという経験値が増えて、また心の在りようが変わった存在になります。
”ソラ”という役は、同じ人間だけど少しずつ違う、三人の人物の役作りが必要だったのではないかと思います。

それでも、やはり。記憶喪失の”ソラ”は、オオゾラユウヒそのものだった、気がするのですよ。他の皆さんと同じ意味で。
あまり詳細な設定が語られない、近未来という舞台だから。
歴史の資料をもとに作りこむ事ができない状態で、役者の力で描く世界観。その時、その役者さん達のイマジネーションそのものを、見せる事になる。
演じる役者さんの人生経験や、その経験から導き出せる役者さんたちの表現力が、舞台の枠を作っていく。
役者さん達が感じ想像したキャラ達を舞台の上で表現して、どれだけリアリティを待たせる事ができるか。
緩い設定の舞台だからこそ、役者さん達の持つ色をダイレクトに感じるから。皆が、役の人物そのものとなる。だから、あのキャラクター達、みんなが愛しい。
そして役者の解釈が深まり変わっていけば、舞台の枠は形を変える。どんな新しい解釈もどんな変化も、許容される舞台。
それが柔らかい舞台ということなのかな~と思います。

これは宝塚では、珍しい事だけれど、外の演劇では割とある表現方法なのかもしれませんね。
今回は「近未来」の設定ですが、逆に世界設定をまるで見せない事で、ただ人間対人間のドラマを描く、という表現もあるわけですし。ま、それは極端な話ですが。
…この作品の緩さがどれだけ意識的なものなのかは、作者のみ知る、ですが^^;
いま、公演が終わってみて、皆さんが成果をあげた後となっては、なかなか面白い挑戦だったなーとも思えます。
同じ宛書きでも、植田景子先生の「HOLLYWOOD LOVER」は、かっちりと作品世界の枠が作られていて、その枠の中をどれだけ深く複雑に埋めていくか…という作品だった印象。今回は、どんな枠を作るのかを見れた作品だった、ということで。その違いが面白かったです。
まぁ、二人の対照的な女性作家の夢をカタチにした、オオゾラさんの力を見た…という事で(^^)
「シャングリラ -水之城-」青年館バージョン、終わってしまいました。
宙組シャングリラメンバーで苦労してつくりあげた、宝塚としては異色の、近未来を舞台にしたエンターテイメント作品。
曖昧な未来世界を創作したオリジナルの宛書作品だからこそ、出演者皆さんの個性と創意工夫と努力がそのまま見えた、変わり続ける舞台。
でも、どんなに苦労して作っても、泡のように消えてしまう瞬間。ナマの舞台で皆さんのエネルギーがはじけた時間は、二度と戻る事は無く。
この作品に懸けたエネルギーを燃やし尽くすような、熱い舞台でした。アドリブも沢山で楽しかったし♪
そして、別れいく仲間を見送る、暖かい、優しい千秋楽でした。

笹良 えるちゃん、九龍客桟のアドリブでは皆さんに握手を求められたりと色々あった挙句、最後には蒼くんと踊ってましたね。可愛かったです、お二人とも(^^)
最後のご挨拶も、ハキハキと元気で可愛かったです。
フィナーレでは、下手の袖の中から、おそらくこの公演に出演してない宙組生徒さん達と思われる掛け声や、囃し立てるヒューヒューという声が沢山。
宙組生、やっぱり皆元気だし、明るくて自由だわ♪
オオゾラさんのご挨拶もすっきりと纏まり、カーテンコールで、えるちゃんと二人で立っている姿にちょっと泣けた。
えるちゃんの、最後に一言「幸せです」という声が可愛くて、とても印象的でした。

ツッコミどころ満載のこの公演、出演者の皆さん、ものすごい苦労をして作りあげた事と思います。
でも皆の力で、見所満載でカッコいい、宝塚ならではのエンターテイメントに仕上げて見せた。出演者の力ワザの勝利。
皆の力で作品を練り上げ、ねじ伏せる。その皆さんの成長ぶりは、本当にすごいと思いました。
皆さん、公演中にどんどん変わっていって…それぞれが自由に色々な事を試している姿は、見ていてワクワクするものでした。
それぞれについて、ゆっくり書いていきたいけど…書けたらいいなぁ^^;
※誤字を訂正するつもりが記事を削除してしまい、ついでに他にも加筆・修正しましたm(__)m
※今更ですが、ネタバレですので、青年館からご覧になる方はご注意下さい。

「シャングリラ」ドラマシティ公演千秋楽、まさかのサバキゲットで見てきました。
本当は行くつもりのなかったドラマシティ公演、最後の週末。突然の遠征で周囲の方々に多大なご迷惑を撒き散らしつつ、行き当たりばったりのばったりの旅でした。ご迷惑をかけた皆様、申し訳ありませんm(__)m
結局、土日の4公演を全部見てきました。そして、この4公演、みんな違うお芝居だったので、なんだかとってもお得な気がしました♪
勿論、脚本・演出は同じですけれども。お芝居は皆さん、違っていたのですよ。ソラを含め、皆さんのお芝居…というか、キャラクター設定が違う気がしました。
4回、全部。先週は3回観劇しまして、それぞれに変化していっている気はしました。でも、このラスト4回の変化は先週よりもずっと大きくて。すごい勢いで、このドラマを完成に向けて作り上げていく様子を見た気がしました。

特に、楽の日の昼公演の、皆さんのテンションの上がりっぷりは素晴らしくて。
まあ、舞台が熱い、あつい、アツイ!
ドラマシティの閉鎖された地下空間、近い舞台での皆さんの熱い舞台に、見ているほうのテンションも上がり、終演後の大休憩は日常生活に支障をきたす程^^;
私はこのドラマシティ公演、通路より前で見たのは一度だけで、あとは全て24列か25列、つまり最後列とそのいっこ前の列でした。それでも、大劇場とは違う、凝縮された舞台に興奮しましたね。なんといっても、豪華すぎるこのメンバーが、この狭い空間でぶつかり合って芝居をしているのは、本当に贅沢な時間だと思いました。
青年館は二階席もあり空間が大きくなりますから、やはり見え方が違ってくるでしょうね。どうなるか、楽しみです。

この昼公演、本当にソラと嵐のお二人のテンションが凄かったのですよ。
ソラの私的見所は、一幕最後の幕が降りる瞬間のお顔。記憶を取り戻し、自分のした事に気付いたソラ。そのに瞬間の表情に、"空”という人間の心の全てが見えるような気もします。ここは、本当に毎回違う芝居で、衝撃にただ呆然としているようだったり、深い絶望に打ちひしがれるようだったり、激しく自分を責めるようだったり、静かな虚無的なものを感じたり…。色々な日替わりソラを見ました。ここでのソラから二幕へ繋がっていくので、私の一番のポイントなのです。
この楽の日の昼公演は、なんと形容したらいいのか…ともかく、グッと心を持っていかれました。
そして二幕の慟哭の激しいこと。
「心に傷を受けた」人物を演じさせたら、もはや今の宝塚ではオオゾラさんに並ぶ者はそうそうないのでは、と思いますね。その傷を受け止め、心癒すカタルシスまで含めて。何しろ、そういう役をこなした数が違います^^;本当に、色々なパターンの「心の傷」を演じてこられましたからね。あの微妙な立場のせいもあるでしょうが、かっこ良いヒーロー役ではなく、傷付き、傷付け、その事にまた傷付く…そんな役がとても多かったのですから。
でも、実はその傷が癒える役は少なかったので、ラストに美雨に見せる穏かな笑顔は印象的。楽の日は、あまりにも透き通った存在感に心奪われて「まるで仏様のようだ…」とさえ、思いました。ソラが、悟りをひらいた人であるかのように見えたらしいです^^;
まあ、とにかく美しかったのですよ。
空っぽの記憶喪失から始まり、過去を思い出す事への恐れ、記憶が戻ってからの葛藤、戦いと自己否定。それからの再生の場面まで、本当に色々な表情の”ソラ”を見る事ができる作品でした。最初の宣言どおり、確かに「今までに見た事の無い大空祐飛」を見せてもらったかな。…それについては、いずれまた。


そして、蘭寿さんの”嵐”もまた、熱かった。
レジスタンス役で「どんな拷問にも口を割らなかった」という、ちょっとヴィクター・ラズロとかぶる感じかと思いきや、全然違う今回の嵐。
自分のした事で、多くの仲間を死に追いやった自責の念に囚われる嵐は、状況的にはむしろリックに近いキャラクターなんですよね。しかし、同じような状況でも、出てくる芝居はまるで違うのが、オオゾラさんと蘭寿さん。
自分を責めるのも、熱く激しい蘭寿さん。でも、その打ちひしがれた姿に色気を醸し出す所は、やはり魅力的です。
私は今回の、この打ちひしがれた嵐の姿が、非常に大好きなんですよ。「全て無駄だった!」と、熱く叫んだ後、フォグに慰められてひっそりと眠りにつく姿が、本当に好き。この”嵐”も、私にとっては「今までに見た事の無い蘭寿とむ」さんで、とっても新鮮な魅力を感じました。らんとむさんに限らず、今回、皆さんが今までにあまり無かったキャラを演じて、新鮮な魅力が見えたような気がします。少なくとも、新前”宙組みファン”の私にとっては、出演者の皆さん、それぞれの新しい魅力を発見した公演でした。


ところが、この千秋楽の日の昼公演、らんとむさんの中で何かリミッターが外れたのか?
もの凄く熱い嵐は、「これでこそ、蘭寿とむ!」というような、今までのらんとむさんのイメージそのままの嵐、でした。いやー、びっくりしましたね。
昨日までの嵐とは、別人です(*_*)熱くて激しくて、らんとむさん、そのものでした。あ、勿論その新しい”嵐”も、また違った魅力がありました。
他の皆さんも、このお二人の熱さに負けないくらい、熱いようで。美雨、カイ、アイス、雹…皆が熱くて、ぶつかり合うような芝居でした。
これだから、ナマの舞台観劇はやめられない…と、思うような公演でしたね。

そしてドラマシティの楽は、お二人共、その熱さを持ったまま、グッと抑えていたような舞台だった…と、思います。
抑えてはいるけれど、静かな熱演。やっぱり皆さんのテンションは非常に高くて、舞台全体のテンションの高さを肌で感じました。
ジープに置いて行かれそうになって必死で走る、ソラさんも見れて楽しかった♪

最初に見た時には、結構「ええ???」と思う事の多い公演でしたが。最終的には設定部分を除き、キャラクターの心の動きについては、皆さん夫々の力技で、
一本新芯の通った造形となっていたと思います。
ま、宝塚の娯楽作品ですから。近未来設定に無理がある事だけなら、スルーできます。SF的価値を求めている訳ではないので。ぶっちゃけ、現実の歴史モノだって、無理がある事なんてフツーの宝塚ですからね(^^)
一本の芝居として、人物の心の動きに共感する事ができるなら、それで良し。
初期には手探り状態だったキャラクター達も、舞台で生きていくうちに、血の通った人間として、その心に共感できるようになっていました。
公演って、こうやって出来上がっていくんだなーと、感心しましたね。
これから東京公演では、この完成形を元に、またどれだけ変わっていくのか、楽しみです♪
宙組ドラマシティ公演。「シャングリラー水之城ー」見て来ました。
言い尽くされ、書き尽くされていますが、宙組男役の皆さんのビジュアルは、本当に素晴らしい。舞台の誰を見ても、めちゃくちゃ格好良いので、宝塚ファンとしてトキメキまくり。
そして、その真ん中で、オオゾラさんがビジュアルで勝負をかけてくるのですから。とにかく楽しいです。
何も考えず、ただキャーキャーしているだけでいい。宝塚のビジュアルを楽しむ作品です。
…できるだけ、頭を空っぽにして、目に見えるモノをひたすら見る事で、チケット代金分の価値があります(^^)

それにしても、オオゾラさんのビジュアルの作り込みは素晴らしいです。いやはや、おみそれしましたと、かしこまってしまいます。
ソラのビジュアルだけで、あの近未来の世界観を語り尽くす覚悟が見えます。
格好良いのは勿論、序盤の記憶喪失の不安げな様子から、記憶を取り戻すあたりの葛藤も含めて。色々な表情を完璧に作りこんで、ビジュアルで有無をいわせず見せていきます。

まぁ、見ている人間を冷静に考えさせてはいけませんからね(^^;
ツッコミどころ満載の、この作品。設定も物語も人物も、考える程に謎が増えるばかり。…というか、支離滅裂?
しかし、オオゾラさんと宙組の皆さんのビジュアルの力業で、色々なギモンさえも楽しめる、タカラヅカの娯楽作品として成立しています。かっこいい男役さん、可愛くて綺麗な娘役さんを堪能できて、満足して帰っていける程のビジュアルの力です♪
個人的には、記憶喪失のソラが大好き。不安そうな様子が、知らない場所に連れて行かれて怯えて毛を逆立てている猫のようで、可愛いい〜!
あ、勿論、ラストシーンの美雨と二人の穏やかな表情も好きですけどね。
月組「THE SCARLET PIMPERNEL」新人公演、珠城りょう君とりおんちゃん、初主演、おめでとうございます♪
ショーブランが紫門ゆりや君。ゆりやんは、前回の「Heat on Beat!」の東京公演で、何か今までにないスイッチが入った気がして(^^)とっても勢いを感じたので、ショーブランはとても楽しみ。たまきち君は、まだ下級生の大抜擢で大変だとは思いますが、きりやんにしっかり指導してもらって頑張ってね。
りおんちゃんは、可愛いマルグリットになりそうで、すごく楽しみ♪早く見たいです。

さて。CS、歌劇と、立て続けに「シャングリラ」の情報が出てきましたね。
情報がでて、ちょっと想像ができるような、できないような…。
それはともかく、なんと、もう初日が近づいてきてるじゃないですか。…びっくり。二月が短いのは分かっていましたが、そうすると3月が早く来ちゃうのは、分かってなかったのかも(^^ゞ
しかし、まだ「カサブランカ」感想、予定表を全然こなしてないなぁ。私にしては画期的な更新をしているのに、ハムレットに寄り道したのがいけなかったのか。いや、そもそも私の書くペースが遅すぎるだけなんですけどね(^^ゞ

さて、ともかく書くとして。まず、一番忘れてしまいそうな事から。
この公演の芝居の変化について。もう、だんだんと記憶が薄れているのですが…。
かなり偏った感想なのですが、こんなヤツもいるという事で深く考えずにスルーしてください。
今更意味があるかどうか不明ですが、一応記録として。

大劇場公演初日頃、リックの芝居で一番印象に残ったのは、一幕のパリの回想から現在に戻った時でした。
イルザに振られて1年半後のリックが、カフェで飲んだくれている姿です。
イルザからの手紙を読んで呆然としたリックが、サムに手を引かれて、ふと遠くを見てから汽車に向かって行った後。
盆が回ってお店のセットが見えると、リックが背を丸めてテーブルに俯いている。その姿に、さっきまでのパリでの彼の明るさが、イルザと共に失われた事に衝撃を受けていたんですよね。何度見ても、毎回。
激しく盛り上がる音楽と共に、リックの心がギュッ…と閉じてしまう姿を見るようで、切なくて。
セザールと話す戦いの過去があっても、パリでは明るい、普通の人だったのに。今、カサブランカでは、誰と話す時もどこか心ここにあらずのような、誰に対しても距離をおいたようになって。イルザを失った事で、こんなに人が変わってしまう程、心を閉ざしてしまうなんて。
その、あまりの変貌に、イルザの存在の大きさ、彼女への想いの深さが胸に迫ってくるように感じました。
パリでの最後のキスの甘さ、イルザを失ってからの変貌、その両方を見る事で、はっきりと「愛」というものの形を見たような気がしたのかもしれません。
リックがイルザと出会って得て、失った後に欠けた形が「愛」なのかな、と…。

そして、東京公演の初日頃。
お正月休み期間に、立て続けに見て、このブログにも色々書いています。
その時ははっきり分かっていませんでしたが、東京に来た初期には、一番印象に残る場面は大劇場とは違っていたのです。

この時一番印象に残る場面は、その後の店に訪ねて来たイルザとの会話から「カサブランカの夜霧」を歌うリック。そして、二幕の「愛を蘇らせた」後の、「世界の果てまでも」を歌う場面でした。
イルザとの再会で、凍っていた心が動き始めた場面と、心を開いた場面…という事なのかな?
特に「世界の果てまでも」の時、イルザを見つめながら、凍りついていたリックの心が、ふわぁ~っと開いていくような姿に胸をうたれました。
胸のつかえが取れて、何もかもを受け止めて、愛情に溢れた視線でイルザを見つめる、静かで穏かな横顔。
それまでの、イルザとの冷たく苦い会話に感情移入して見ていただけに、二人の幸せに満たされた姿に、こちらもふわっと包まれるような高揚感があった…と思いました。

公演中盤には、しばらく見られない期間があり、久しぶりに見た時には、すごく変化した印象がありました。
何が違ったかを考えると、この「世界の果てまでも」の場面の印象が変わったような。「リックの心が、ふわぁ~っと開いていくような姿」のイメージが、変化したのではないかと思ったのです。
もっとしっとりしていて、それでいて強く、二人の心が繋がった印象。

「ふわっと開く」という印象が消えた意味を考えてみると、リックは心を閉ざす人ではなくなっていたのではないかなーと、思いました。閉ざさないから、開く必要もない、という感じで。多分、公演中盤くらいからかな?
具体的に、どこがどう…という変化がわかるわけではないのですが。
ただ、私は東宝の初期の頃に、大劇場に比べて、リックの動作が全体に早回しになったのではないかと書いています。

「大劇場で見た時、リックの動作のひとつひとつが、ゆーーっくりとしたものである事がすごく印象的だったのです。ゆったり、のっそり、勿体をつけた動きで、歩き、話し、肩をすくめ、タバコを取り出し火を付けて、溜息のように煙を吐き出す。何もかもゆっくりした動作が、彼がまわりの人々から一歩離れたところにいる事、それでいて”今”を否定している事を表現しているような印象を受けまた。」
…この時「意図的に、リックとしての外側や外見を作りこむ事を、薄くしてみているのじゃないかな?」と、思ったと書いていますが。
作りこみを薄くしているのは、リックという人物の表現する為に、動作など外側を作りこむ必要がなくなってきた事もあると思います。
そして、この時書いた印象でいえば、リックが”今”を否定しなくなった事を表現しているのかもしれないなーとも思うのです。

心をギュッと閉ざして”今”を否定してする人ではなくなったから、イルザと再び心を通い合わせた時に「ふわぁ~っと開いていくような姿」はなくなった。
そう考えると、私の中で辻褄があうのです。
確かに、大劇場初日の頃は「誰と話す時もどこか心ここにあらずのような、相手に対して距離をおいたような」人だったと思うのですが、東京に来た頃にはその頑なさが薄れてきたのではないかと思います。店の従業員やルノーさんなど馴染みのお客達との会話で、大劇場初日の頃程の刺々しさを感じなくなったというか。
店の従業員達には、確かな信頼関係が見えるようになっていましたよね。いや、最初も従業員とオーナーとしての信頼感は見えたと思うのですが、もっと深い、人間の在り方としての問題で。最初は、心を閉ざして誰の事も信じていないような人物だったのが、本当は深い信頼関係があるけれど、愛想の悪い人…くらいになったような感じです。

そしてまた、大劇場の初日頃とは、ラズロとリックの関係も変わっていたように感じました。
公演初期は、ラズロに対して複雑な感情を抱いていたリックが、戦いに向きあう事を決意したから、空港で別れる時に、初めてラズロと対等になった…という造りだったと思います。でも、東京にきた頃には、リックはラズロに対して、最初から最後まで対等な男になっていたような。
心を閉ざして”今”を、全ての人も戦いも否定していた大劇場初期のリックは、ラズロに対して対等に向き合う事ができなかった。
けれど、心を閉ざしたのではなく、”武器を捨てて”「人の笑顔を見て」いられる場所を、“自分の為に戦って”従業員のみんなと共に作りあげたリックは、最初からラズロと対等に話せる人間となっていったのではないかと思ったのです。

公演中盤からリックとイルザの二人の会話は、どんどん変化を続けました。更に後半になると、それまでわりと安定していた、ラズロさんとイルザの会話も日替わりとなり。
毎回、間の取り方も抑揚も違っていました。単に言い方を変えている…というのではなく、心の動きが違っている結果、芝居が変わっていくのです。
最後の一週間、またたて続けに見たのですが、本当に毎回違う舞台でした。
それはもう「一期一会」の舞台。よく生徒さん達は「その時のお客様とは一期一会だから」と言われますが、この公演では「○月○日、この公演のリックとイルザとラズロとは、この時にしか会えない」という、観客からも一期一会の舞台となっていました。

そして更に公演後半になると、一番印象に残る場面は、また違ってきたんです。
最後に心に残る場面は、飛行場でのリックとイルザ、そしてラズロさんとの会話の場面になりました。
この”一番印象に残る場面”というのも、また曖昧な表現なのですが。色々な芝居の積み重ねで印象に残る場面、そして演じている側の、役に入り込んだテンションが高い場面…なのかもしれないし、違うかも知れない^^;ま、そのへんは私が感じただけなので、なんとも言えませんが。

勿論、大劇場の初日から、ラストの飛行場の場面は、この作品のクライマックスとして感動的なものでした。
リックのこの最後の決断に向けて、全て物語は動いているのですから。
このラストに向かっていく時、どの場面の感情がどういうふうに繋がるかという事が、最後に印象に残るか…という事なのだと思います。
そして、私の中でその印象的な場面は、次第に後のほうの場面になり、最後は飛行場の別れが一番になった。
これは、それまで一番と感じていた場面の印象が薄くなったから、ではないと思います。逆に、どの場面もバランスよく積上げられた結果、クライマックスのリックの気持ちが最高潮に盛り上がったのではないかと。
オオゾラさんの演じる役は、公演初期から後半にかけて、どんどん精神的に強い人物に変化していく…と、いつも思うのですが。
リックは、中でも一番強く大きく、変化した役かもしれないなーと、思います。
そして、イルザに対しての想いも、変化していったのではないかと思うのですが、それについては、また。
CS放送「螺旋のオルフェ」、久々に見ました。
懐かしいなー。
オープニングの黒燕尾の場面、何も考えずにちゃんとオオゾラさんの立ち位置を把握していた自分に驚きました。10年たってるのに(^^ゞ
そして、オオゾラさんと判別できるくらいにカメラが近づいた瞬間に、振りが遅れている。なんとかマミさんの後ろに映った瞬間に、よろめいているお約束…。
いや、久しぶりに見て、やっぱり美しい作品だと、その映像美を楽しみました。それに、やっぱりこの頃の月組は、人材豊富です。懐かしいお顔が沢山で、嬉しくなりました。あの時代の月組で、この作品にあたって良かったなーなんて、今更思いました。10年前だけど(^^ゞ

マルセイユマフィアの場面は、立ち位置は覚えていなかったけど、すぐに分かった自分に驚きました。オオゾラさんと判別できるくらいのサイズじゃないけど、銃を隠している懐が重いらしく、トレンチコートの片方が緩いので確信を持ちました。
そして、オオゾラさんと判別できる程にカメラが近づいた瞬間に、以下同文^^;
いや、それにしても若いなー。もう、新公卒業しているのに。可愛いなぁ。

この「螺旋のオルフェ」の時、ショーの「ノバ・ボサ・ノバ」で85期の皆さんが初舞台から引き続きロケットをやっていたんだよねー。それが、いま、宙組でこうやって出会おうとは…。
ということで、グラフ、読みました。
まさこちゃんとの対談。お二人とも可愛いです。
このグラフの対談でオオゾラさんにも言われていますが、まさこちゃん、なんだかすごく変わった気がします。僅かの間に、なんだか印象が変わったなー。なんか、すっきりした感じがします。85期の皆さんはやはり思いいれがあるので、こうやって対談とかしていただけると嬉しいですね。

しかし、本当に可愛いですよね~、まさこちゃん。食べ物の番をしてくれる話も可愛いです。「ガルルルルル~ゥ」って。笑っちゃいました(^^)「まさこさん、お願いします」というのも、お二人ともなんて可愛いんでしょう。
オオゾラさん、まるであんまり学年が違わないかのようなお顔で、笑ってます。
なんだか、宙組に来て、若返ってきたような。表情が明るくなりましたよね。やはり、宙組の皆さんに影響を受けてるのかなー。最初はやっぱり心配したけど、宙組に出会えて、良かった。改めて、この出会いに感謝しました。
そうそう、蘭寿さんも大変にお美しい。綺麗なお顔に、ライトで陰影をつけているお写真が、雰囲気があって特に素敵です。
…らんとむさんも、宙組で若返りましたよね^^;それが、宙組パワー?
月組公演「HAMLET!!」見てきました。
すごーく楽しかったです。
主演者、まさお君(龍 真咲)の比重の高い作品。シェイクスピアといえば、長台詞。かなり歌に仕立てていた部分もありましたが、やはり難しい台詞も多くて。
まさお君、大活躍でした。演出指示のものらしい、あの不思議な髪型とお化粧には??ではありましたが。一人で歌って踊って大奮闘でした。いや、ともかく、よく歌ってましたね。頑張ってた。
そして、オフィーリアの蘭乃はなちゃん、かわいいいいいいい!このオフィーリアだけでも、見に行った価値が有りました。
下級生中心の公演ですが、皆さん大活躍で楽しかった♪
さすがに藤井先生らしく、ショーアップされた華やかな楽しい「ハムレット」。
でも昨年末に七帆さん目当てで見た「笑いすぎたハムレット」のほうが、シェイクスピアを見た!という気分になったのが、不思議です^^;
そういうところが、お芝居の面白さかな。まあ、詳しい感想は、また見てから書く事として。
早いところ、「カサブランカ」について書いてしまいます。

抜粋ですが、やっと、映画版をもう一度見てみました。
対訳版シナリオを入手してから、映画の翻訳についても確認してみたかったのです。「君の瞳に乾杯」という、超訳のある字幕の翻訳、実は他にも超訳があって、元のシナリオと違っているのでは?という疑惑があり^^;
確認したくてこの対訳シナリオを入手したので、映画と見比べてみたくて。
シナリオを読んだ限り、省略は沢山あるけれどもそんなに違いは無いなーとは思っていたのですが。

最後に、大きな違いがありました。
二日目の深夜のカフェの場面。舞台でいうと「世界の果てまでも」の後の会話にあたる部分。
「これからどうする?」
「分からない…ただ、もうあなたと別れる力は残っていない」
「ラズロを脱出させてあげて、あの人の使命を全うさせる事が出来るのはあなただけなのよ」
「だが、彼は君を失う」
この「だが、彼は君を失う」の台詞が、「よかろう。君は渡せない」と言う字幕になっていました。
これは、随分、意味が違いますよね。「渡せない」という、リックの意思による言葉になっています。

実は、この場面のリックの台詞、納得できない気分があって。
「これからどうする?」「だが、彼は君を失う」って、なんて、勝手な言い分!
なんなの、この男。
…と、実はずーーーっと思ってました。最初に映画を見た時から、ずっと。大劇場初日に、オオゾラさんのリック像に感心したのですが、それでも引っかかる所があって。
だって、通行証という切り札をチラつかせて「通行証は売らない。理由は妻にきいてみろ」って、つまり「通行証が欲しければ、ラズロの命が惜しければ、自分のモノになれ」と、暗にほのめかした言葉ですよね。彼女は、言われたとおり、一人でリックに会いに行く。
そして、彼女は何を言ってもリックを説得できず、結局隠していた本心を晒す事になる。…でも、あんなにしつこく彼女を振り回しておいて。
中大兄皇子さまのように「ラズロには、俺が話す」とか、言ってもいいんじゃないの?と、思ってました。
きっと、あの字幕の翻訳者も、リックに不満があったのだと思う。そして「君は渡せない」と、超訳というか、意味の違う字幕にしちゃったんじゃないかと思ったりして。

実は以前に書いた、多くの方の感想で「イルザが勝手な女」というのに吃驚した話。私、逆だと思っていたのです。
リックって、本当になんて勝手で、迷惑で、嫌な男だと。
イルザにしつこく言いがかりをつけたうえに、通行証をタテに、脅迫。そして、彼女を手に入れて満足したら、今度は、勝手に自分と彼女の人生思い返して。
「一生後悔する事になる」って。
だから、最初からイルザはラズロをサポートする人生を、選んでるじゃん!!
挙句の果ては、勝手に一人だけ使命に燃えて。カッコつけちゃって。
自分だけが傷ついたような顔をして、悲劇のヒーロー気取り。
まったく、男なんて、悲劇のヒーロー大好きなんだから。
だったら、最初から脅迫なんてするなよ…と。実は、ひそかに思っていたのです。

だから「イルザが身勝手」説を知った時は、世の中色々な感じ方があるものだと思いましたね。

でも、イルザの人生、ほとんど選択の余地は与えられてないんですよね。
彼女が選ぶ事ができたのは、ラズロが死んだと思っていた時に出あったリックと付き合う事だけ。あとは、状況に流される事しかできていないんです。
幼い頃から聞かされていた英雄に出会い、彼の理想を教育されて、妻に望まれて。彼の死の報せに呆然として。
彼が無事だったという知らせを受けて、彼の元に戻らざるを得なくて。
それでも、それはもう、彼女の人生そのものとなってしまっていた道だから。まだ、忘れられないリックとの恋を押し殺しても、ラズロとの道を選んで歩こうとしているのに。そのラズロの為に、彼女はリックに向き合うしかない。逃げ道を塞がれて、結局、リックへの想いに流されて。
悩んだ末にリックを選んだつもりだったのに、彼女の知らない間に、男たちに譲り合いされちゃって。
彼女はその状況で選べる最良の道を選んだつもりでも、その選べる範囲は、とても狭かったのです。

勿論、傷ついたラズロを見捨てて、リックと共にパリを脱出!という道を選ぶという事もできたけれど。
…そんな勝手な女だったら、物語にならないですものね^^;このお話し、始まらずに済んでしまいます。
彼女は少ない選択肢の中から、常に人間として”正しい”道を選ぼうとする。それって、普通の事だと思う。運命と時代に翻弄されるだけの普通の女性。
でもリックは、その”正しい道”を進もうとして、”正しい”と信じた道が、人を傷つける結果となり打ちのめされた…という過去を持つ。だから、”正しい道”をそのまま選ぼうとはしない。今回、リックの過去を書き込んで下さった小池先生も、リックの勝手さをフォローする為?と、勝手に思ったり。
リックが武器商人の過去を、悔いる場面がある事で、観客は随分リックの心情に寄り添う事ができます。

そして、東京公演初日からすぐの事だったと思うのですが。
最初にカフェでリックと再会して見つめ合う場面で、すみ花ちゃんの目にぶわっと涙が盛り上がってきた事がありました。
でも、イルザがここで泣いたら、ちょっとおかしい。すみ花ちゃん、頑張れー!と、心の中で応援していたら、なんとか瞬きをして、涙がこぼれるのは防いでいました。見つめ合ってるオオゾラさんも、きっと心の中で「ヤバい、頑張れ」と、思っていらしたのでは^^;
そんなすみ花ちゃんのイルザは、まだリックの事を愛しているのは、バレバレで。
その後、皆さんの芝居も、イルザがまだリックを愛している事をわかっている前提で進むようになったような気がしています。

そして、切り札を振りかざし、ラズロの運命を握ったリックさん。もしも、イルザがリックへの愛を失っているのなら、かなり酷い脅迫者です。
ラズロに過去の二人の関係を匂わせて、夫婦仲に水を差そうとするあたり、ルノー大尉よりずっと悪質です。
だから、イルザがリックを愛しているのが見えているほうが、観客的には物語に素直に入り込めるような気がするのです。主人公の悪人度が低いほうが、感情移入しやすいですからね。
すみ花ちゃんの、嘘がつけない不器用なイルザが、リックを嫌な男と感じさせないようにしてくれたのかも。
いや、勿論、オオゾラさんは、私の斜めな目線から見た嫌な男リックを、説得力のある人物像として組み立ててくれたと思いますが。
そして結局のところ、その嫌な男であるところが、リックの愛しいところであり、この物語の魅力でもあるのだろうなーと。
それについては、また〜。
『Je Chante(ジュ シャント)』-終わりなき喝采- 集合日が過ぎまして。
天輝トニカさん、全日程休演って。びっくり。大丈夫なのでしょうか。心配…。
たいした事でなければいいのですが。
最近は本当に休演される生徒さんが増えましたよね。これだけ公演期間が詰まっていれば、無理もない事です。お稽古を一定期間休むと、公演に出られなくなって、自動的に全休演になってしまうと聞いた事もあります。
心配ですが、体が資本の皆様ですから。どうか、ゆっくり、しっかり休んで、キチンと直して下さいね。
代役で出演となった、風海恵斗さんも、突然の事で大変かもしれませんが…お二人とも、頑張って!!

配役は、見てもお話しがよくわからないので、なんとも言えませんが。
みーちゃんの役名は、ドイツっぽい?もしかして、軍人さん?悪役?軍服!!?と、ついつい反応してしまいました(^^ゞ
だって、やっぱりドイツ軍服はかっこいいですものねー。

その昔の「螺旋のオルフェ」の、マミさんの軍服姿のかっこ良さを、やはり思い出します。
軍服のマミさんが、瀕死の黒いドレスのアデルを撃つ、「最後の銃声」の場面の美しさといったら…。舞台中央の螺旋階段が印象的で、舞台全体が絵のように美しく、耽美的で。あんなに官能的で倒錯的で、でも幽玄の美のようでもある世界、宝塚で見た事はなくて衝撃的だったなぁ。
宝塚って、こういう事ができる場所なんだ…と、思ったような。

いや、話が逸れましたね。どうも、宝塚でパリでレジスタンスといえば「螺旋のオルフェ」を思い出して。
「カサブランカ」の公演中から、懐かしモードだったのです。
マルセイユの元レジスタンスだった、オオゾラさんの若き日の姿を思い出したりして。あの頃は、トレンチコートもまだ似合ってなかったなー。
小道具の拳銃の扱いに、見ながらドキドキしたり、手に汗を握ったりしてました。
当時は、いつかあのマミさんの素敵な軍服を着て欲しい…なんて、思っていましたが。今となっては、ちょっとシャレにならない気がする^^;
なので、大昔のパーソナルブックIを引っ張り出してきて、それらしい軍服姿を見て満足しました。いやー、若いわ。こんなに怖い物知らずなお顔してたんだ。
オオゾラさんだけじゃなく「マミさん&シューマッハ」で写っている、タニちゃんやきりやんも若い。当たり前だけど(^^ゞ驕りの春の美しきかな…。あ、勿論、皆さん今の方が美しいと思いますし、好きです。

…話を、戻して「Je Chante(ジュ シャント)」。
配役を見ると、ヒロイン・ジジの少女時代が、千鈴 まゆちゃんだったり、その父がこおまい(光海 舞人)とか、ほお、という感じ。
ちっすーは、また子役…という感じもありますが、父親共々、手堅いよねきっと。
改めて、若手豪華メンバーの公演ですね。皆さん、どんな役になるのか、楽しみです♪
それぞれに、見せ場ややりがいのある公演になるといいな~。私は行けるかどうか、まだ不明なのですが^^;

そして、今更ですが。
CSで、轟悠ディナーショー「Yu,il mondo!」を見ました。
当時も吃驚したけど、改めて見るとなんて豪華なコーラスメンバー。
みんな頑張ってるなー。みんな、かっこいいなー。いち君の女役、すっごい綺麗…って、あれは、フローレンスちゃんのドレスに似ているような。
記憶は曖昧ですが、あの肩のカバー具合が…懐かしい気がします^^;
いち君は色気があるし、博多座ではヘタレなイメージに見えていたあっきーが、中々骨太に”男役”しています。
りく君は、やっぱりテンション高めに入り込んでますね。このメンバーの中では、もんち君はなんだか、爽やかに見えますね。
皆さんにとって、良い勉強の機会だったのだろうなーと、思いつつ。ついつい、後ろの4人ばかりを見てしまった(^^ゞ

そして、なんとなく番組表を見ていたら、19日に「螺旋のオルフェ」の放送があるんだ。録画しとこう♪

最近、舞台を見て改めて思ったこと。
役者さんの力の立脚点は、結局は「脚本を読む力」なんだなーと。

脚本に直接書かれている事は勿論、書かれている事柄から推測できる事も。
色々含めて、その人物の心を、どれだけ深く読み取る事ができるかどうか。
読むことが出来なければ、脚本には何も書かれていないも同じ。

まず、正確に読み取ること。
それから読み取った中の、様々な事を深く深く考えて、どれだけ多くを感じ取る事ができるか。

それを元に、表現したいものを組み立てて、体を使って表現していく。
顔、声、体の全て。
表情、台詞、立ち居振る舞い。
適当なものを選び取り、適切な間合いで。

でも、その表現の源は、演じる人の心だから。
一番大切なのはやっぱり、目、です。
「目は心の窓」だから、ね。
瞳の奥に、どれ程の豊かな感情を見せることができるか。
だって顔は笑顔爆発でも、目が笑ってない人って、信じられないじゃないですか。
だから、私が芝居を見る場合、目、ばかり見ています。


「カサブランカ」について、色々な事を考えつつ見ていましたが。
対訳についてなど、私ごときが考える事など、多分、オオゾラさんは大劇場のお稽古の時には考えていただろうなーと思う事が多いです。
見れば見る程、深く考えられて作られたお芝居だという事がわかる。
一つ一つの台詞、動き、様々な状況や心の動きを、深く考察したうえでの表現がある。
オオゾラさん「脚本に書いてある事を、ただ、演じているだけ」というような事を言われた事がありますが。その時、書いてある事をそこまで読でいるのが、あなたの力なんですよ…と思ったんですよね。

舞台を見て、色々思う事はあるけれど、考えるほど自分の思慮の浅い事に気付かされます。
「これは、こういう意味もあるのでは?」と思うような事があっても、それも配慮のうえだろうと納得する事が、今までの作品でも沢山ありました。
色々な解釈が有り得るけれども、行間の豊かさのようなものが、オオゾラさんのお芝居にはあるのかも。
だから、見る者が色々想像する事ができる。
いくらでも考えられるように、どんな感じ方をしても許容できるように、組み立ててある部分がある。
意識的に曖昧な、どうとでも受け取れるように、器械の”遊び”のような、緩やかな部分がある感じ。
だから、オオゾラファンは、色々な事を考えさせられながら、オオゾラさんの芝居から目が話せないのかなー。
ま、頭の悪い、私だけかもしれませんが(^^ゞ

でも、トップさんになられて、今回の「カサブランカ」はかなり明確な芝居の割合が増えた気がしていたのです。
…大劇場の時は。けれど、東京に来てから、明快な表現は、そのままに、更に複雑に、味わい深くなって。
芝居が深まるにつれて、また簡単に読めない部分が増えてきたような…。

気が付けば、今回、友人達とお芝居について語り合う事が少なかったのです。楽の日の帰りに、そういえば…、何にも話してないかも?と。
なんやかやと慌しくて、当座の事や、おバカな事ばかり話していて。
他の生徒さん達の見所も多過ぎで、誰が何をしていた情報を交換しあうだけでも、十分過ぎるネタがありまして。
でも、敬愛する友人達の、深い話を聞いていたら、もっと私も考えられたかもしれないなー、などと思いつつ。
とりあえず、誰とも話せなかった作品感想を、つらつらと書いたりしています。
まだまだ、いったいどのくらい書けるのか。道のりは遠い、かも^^;

対訳版「カサブランカ」のシナリオを読んでいて、ふと気付いたこと。
この英語版の脚本には、何度も繰り返される言葉があること。
「わかってる」という台詞です。

一番印象的なのは、銀橋でのイルザとラズロの会話にあたる、ホテルでの会話。
この場面の会話は、映画版と今回の舞台化では少し変えてあります。
”翻訳”の範囲内かもしれませんが、その翻り具合がちょっと大きくて、会話の意味が違う…と思います。

「私が強制収容所にいたとき、君は寂しかったかい?」
「ええ、ヴィクター、寂しかった」

「寂しいという事がどういう事かわかるよ。何か、私に言う事があるかい?」
「いいえ、ヴィクター。ないわ。」

「とても愛しているよ」
「ええ、わかっている、ヴィクター。私が何をしても、お願い信じて、私が……」

というイルザの台詞をさえぎって、ラズロは

「言わなくてもいい。信じているよ」と告げ、部屋を出ていく場面になります。

映画版ではこの場面で、ラズロはイルザに「私が何をしたとしても」に続く「愛している」という台詞を言わせないのです。
いえ、むしろラズロが言わせなかった台詞を、小池先生が「あなたを愛している事にかわりはないわ」と、創作したという事になります。
この追加は、イルザの言動に主体性を持たせる意味でのものでしょうか。
それとも単に、可哀想なラズロさんに、イルザの口から「愛している」という言葉を言わせてあげたかったのかもしれません。
私個人としては、二人の会話としては、イルザの言葉をさえぎるラズロのほうが素敵なんじゃないかなーと、思いますが^^;

さて、その会話で私の印象に残ったのが「わかってる」という言葉なのです。
最後の「信じているよ」まで含めると、この会話は、お互いの言葉に対してそれぞれ「わかってる」と答える会話になります。
小池版では、ヴィクターの「愛してるよ」という台詞に返す、イルザの言葉は「私もよ」です。
そういわれれば、日本人的には「私も」と答えるほうが感覚的に納得するのかもしれませんが、やはり意味合が違っているのは気になります。
イルザは彼がどれほど自分を愛しているか、必要としているか、よく分かっているから身動きがとれないのですし。

アメリカ映画では、この「愛してる」「わかってる」という会話って、よくありますよね。たしか「WEST SIDE STORY」でも、そんなやり取りがあったと思います。
まだ少女だった頃、何の映画だったかは覚えていませんが、「わかってる」と答えるヒロインが、ちょっと上から目線のような気がしました。やっぱり、アメリカの女性は感覚が違うなーと、思った事を覚えています。
しかし、年をとって色々な想いを経験してみると、この会話の意味がわかってきたのです。
恋人に限らず、自分が好意をもって接している人に、それが伝わってなかったら、悲しい。特に相手の為に色々と心を砕いたりする人ならば、それをわかって貰えなかったとしたら、すごく悲しい。
だから、好きな人に「わかってるよ」と、言葉にして貰えたらすごく嬉しい事なんだな~、と。
更に、宝塚ファンになってから、贔屓の生徒さんができたりすると。私は公演を見て拍手をする事しかできないけれど、それでも、ファンの心を「わかってる」という言葉をメディア等で言っていただけると本当に嬉しいんですよね。それで私は、日本人の会話でも「愛してる」という言葉には、まず「わかってる」と返す言葉は必要なのではないかと思ようになってきました(^^)
そうしたら、いつかイルザもラズロに「わかってる」と、答えてあげられるかも。

ラズロさんの「言わなくていい」の言葉も、会話の順番が違うと意味が全然違いますよね。
映画ではウヤムヤにされたイルザのラズロへの愛の言葉を言い切るかわりに、彼女がラズロへ向ける愛が、より一層彼の「英雄」的な人間性そのものへの愛情だと、強調された気がします。すみ花ちゃんは「ラズロへの愛は理性的なもの」と言われてましたが、むしろ、一人の男性に対する愛じゃない…という感じ^^;


そしてこの後、リックに会ったイルザは、ぎりぎりの心を告白します。

「あなたがパリを離れたあの日、私がどんな思いでいたかわかってくれたら。
 あなたをどんなに愛していたか、今もどんなに愛しているか、わかってくれたら」

ここで、イルザは今度はリックに「自分の愛をわかって欲しい」…と、訴えるのです。
そして、リックはそんなイルザを抱きしめてキスをします。
小池版では、ここの台詞は「あなたを愛していた、そしても今でも…」と、強く言い切ってしまうように変更されています。
やはり、現代の女性にあわせて、でしょうか?イルザは、本当に強い女性に姿を変えているのです。
でも、自分の意思で強く行動するイルザだからこそ、葛藤はより深く、ずっと辛い気がします。

公演も終盤になった頃、ここでイルザを抱きしめるリックの背中が、イルザに「わかってる」と言ってあげているような気がした事がありました。
二人の男性への違う形での愛に、心を引き裂かれるようなイルザの苦しみを。
それでも、どうしても捨てきれない、リックへの想いを。
「わかってる」と、包みこむような背中。

その時、初めて、イルザの元の台詞が「今もどんなに愛しているか、わかってくれたら」だという事を思い出して。
この映画の、ラズロ、イルザ、リックの会話が「愛してる」「わかってる」という掛け合いになっている事に気付いたのでした。
そういえば、最初にイルザが一人で深夜のリックのカフェに来た時の会話でも、イルザの「あなたの気持ちはわかるけど…」という、安易な台詞にリックはキレ始めるのですよね。映画では、「俺の気持ちがわかるって?」と、まずカラミ始めてから「俺たちが何日一緒に過ごしたか、知ってるか?」となります。

この物語は、リックとイルザの二人が、運命によって壊されてしまった愛を、お互いの心を、それぞれに「わかって」いく物語なんだなーと。
言葉にしてしまえば、当たり前の事なんですが(^^ゞ

さて、今日はバレンタインデー。
私にとっては、自分で沢山味見をして、吟味したチョコを自分で食べる日、なんですが(^^)
せっかくなので、この物語における「愛」について、ちょっと語ってみたりしました。
※文中での映画版の台詞については、すべて「アルク英語企画開発部・編 アルク・シネマ・シナリオシリーズ 鈴木美幸訳」を参考にしております。



宙組 公演『シャングリラ -水之城-』 の集合日が過ぎました。
配役も発表されましたね。…さっぱり何も、想像できないけど^^;
名前の印象から、よりライトノベル感を増したなー、くらい?いったい、どういう作品になるのか。カフェブレイクでのらんとむさんの情報で、エンターテイメントというお話をきいて、より心もとない気分になったり。
ともかく、漫画大好き小柳先生がどのへんから持ってくるのか。
先日放送された「NAKID CITY」を見たら、吉野朔実「HAPPY AGE」他の禁酒法時代アメリカものの設定を色々継ぎはぎして出来ていた事を確認。
そして、ヒロインの設定は藤田和子・氷室冴子「ライジング!」の劇中劇「メリィ・ティナ」のヒロイン、ティナ・アリスンの設定と台詞を丸ごとそのまま使用。
今度は、どんな漫画から持ってくるのかな?

そして、退団者がお一人。笹良えるさん。
特別公演だと組の半分のメンバーとしかお別れができないのが、ちょっと淋しいですが。でも出演者の少ない公演だからこそ、全員を見る事ができる筈。この公演を最後まで楽しんで、幸せに、新しい道に旅立って欲しいと願っています。

さて、新しい作品は動き出していますが、私はまだ「カサブランカ」の世界にぼんやりしています。
沢山の感想なども検索して読ませていただいておりまして。こうやって、ブログで沢山の方々の思いを読めるなんて、良い時代になったなーと思います。
色々読んで、私はやはり少数派らしい事もわかりました^^;
こんなふうに感じる人間は、もしかしたら、この世に私一人なのかも…と思いつつ。できる限り書き綴っていきたいと思います。

タカラヅカファンとして、ついつい反応してしまうのが「地下新聞」という言葉。反射的に頭の中に「あなたが出してる地下新聞♪」というフレーズが浮かびます。体の中に名作の曲が沁みついて、様々な場面で頭に浮かびますよね。
そして、このラズロさんを見ていると、思い浮かぶ曲がありまして。この作品にあわせて替え歌で書きますと
「英雄は自分の為にあらず 理想と戦いの為生きる 険しい道をあゆむもの 
 妻となる人にも等しく重荷が待っている それでも君が・・・」
…フランツ・ヨーゼフ一世陛下のプロポーズの場面です。
ヴィクター・ラズロ氏がイルザにプロポーズした時、同志と呼ばれていた彼女は、どれ程の誇らしさにときめいたかと思うのです。
若く純粋で、理想の社会の実現を夢見てていた娘にとって、ヴィクター・ラズロはその理想を体現した、美しく煌めく世界そのもののように見えた事でしょう。
その彼にプロポーズされた時、若くハンサムな皇帝陛下に求婚されたシシィと同じくらい、非現実的な夢のような瞬間だったのではないかと。
レジスタンスという狭い人間関係の中、みんなが憧れるヒーローに、イルザも同じように憧れて「それを愛だと思った」のでしょう。

でも、少女が夢に描く「いつか王子様が」幻想が叶ってしまうのは、もしかしたら不運なことだったのかもしれない。
それは幻想であって、現実の恋愛がどういうものかを知らないまま、彼女は英雄からのプロポーズを受け入れた。
今回の舞台ではカットされていますが、映画では「ヴィクターがチェコに戻ったのは、結婚して間もなくの事だった」となっています。そして、そこにはゲシュタポが待っていて、収容所に送られた。二人が夫婦として過ごしたのは、ごく短い期間だったのです。もしかしたら、リックとイルザがパリで過ごした期間より短いかもしれません。
そのうえ周りにも秘密の結婚ですから、普通の恋人のような時間はあまり無かった筈。
逆に映画では、リックとイルザのパリでの時間は明確に語られません。何故、春から6月という期間が明示され、ラズロとの期間が削られたのか、謎。どなたか想像がつくかた、教えて欲しい…。

ともかく、チェコに戻ってすぐにラズロは捕らえられ「収容所に一年以上いた」。
という事は、イルザが彼の訃報を受け取ったのは、おそらく収容所に入れられた報せを受けてから、一年程は過ぎた頃かと思います。
一年間、彼女はラズロを心配して過ごしていた。希望と絶望が入り混じった、長く辛い時間。彼女は、やはり少しずつ諦めていたのではないかなーとも思います。自分の心を守る為に。
彼女に手紙を届けるカレル役の蒼羽りく君、大劇場ではイルザが店に入ってくるまでイライラした風情で待っていたのが、東京に来てから呆然とした様子になったのが良かったですね。その様子で、英雄を喪った人々の喪失感が見えて、イルザの心情も納得しやすくなりました。
イルザはその決定的な報せを受け取って、気を失いかけ、リックと出会う。
その時彼女が喪ったのは、夢と理想に輝いた世界そのもの。おそらくは、輝く少女時代、青春の終わりの瞬間だったのでしょう。

そんなギリギリの張り詰めた瞬間に出逢ったリックは、その命が燃え上がるような姿を目にして、彼女に惹かれて恋に落ちる。
リックもまた、心の傷を抱いてパリを彷徨う外国人。
多くの仲間の死を見つめて、自分の行いを悔いて悔やんで…心を誤魔化す為に享楽的に虚無的に過ごしている。
夫や父を亡くした女子供を沢山つくった負い目のあるリックにとって、悲嘆にくれるイルザは見捨ててはおけない存在なんですよね。悲しみの原因は分からなくても、その心を癒す事が、リック自身を救うことにもなる。
彼はひたすらにイルザを癒す事で救われるけど、おそらく、イルザにはそんな影は見せなかったのでしょう。

彼女はリックの優しさに包まれ、やがて穏かに笑えるようになる。
二人だけの時間を過ごし、女として愛される事を知って。
憧れの人を、思い切る。
一年間、緩やかに終わりに向かっていた憧れの人との幼い恋を完全に諦めて、現実に自分を求める男に身を任せる。

赤いドレスに着替えたイルザと踊るリックの場面が好きです。
「月夜のラヴ・ソング 酔いしれて 熱いパッション 
 ジェラシーさえ 女と男を結ぶ絆になる」
サムの歌声そのままに、ジェラシーにジリジリするリックの姿が可愛くてねー。こんな姿を見せてくれて、小池先生ありがとう!と、いつも思ってました(^^ゞ
すみ花ちゃんのイルザは本当に不器用で、リックと一緒にいても、過去に誰かがいた事を隠す事はできなかっただろうと思います。
祐飛リックの様子から、二人はそういう仲になったばかり。自分が彼女にとっての初めての男じゃなかったと、確認したところかな。
イルザも相手がそれを気にする事は承知で身を任せたのだから、自分から恋人がいた事を切り出す。なんとも色っぽい場面ですよね。
そしてリックは「過去は聞かない」と答える。
過去を無かった事にするという事ではなく、過去の心の傷ごと受け入れ、抱きしめるから。その過去が今の彼女を作るものなら、聞かなくても、今の彼女がいればいい。

やがてナチスから逃れ、パリを出る時に、二人は共に生きる決意をする。
イルザは「10年前歯にブリッジをしていたわ」という、キュートな台詞を言える人。
22~24歳くらい?お金をかけても、娘の歯並びは美しくなければならないという価値観の家に育った人。フランス語も当然の教養として習っていたような、上流階級のお嬢さんでしょう。まあ「身持ちの堅い女性」ですね。
そのうえ、すみ花ちゃんのイルザは、とっても世間知らずな感じ。
遊びの恋なんてありえないし、二人の男と同時に付き合う事も考えられない。
だから、リックを愛した時には、ラズロの事は完全に思い切っていると思うのです。
リックも、イルザが彼の愛を受け入れた時に、彼女に大きな覚悟が必要だったと知っている。だから結婚という生涯の誓いをたてようと言うのも、自然な流れなのですね。

でもラズロが生きているという報せを受けた時、彼女は迷わずリックと別れる事を選びます。
例え短い間でも、周りの人に秘密でも、「神様の前で、永遠の愛を誓った」から。
病めるときも健やかなる時も…と。彼を見捨てる事など、できる筈がない。
今は、愛する人が別にいるけれど。
死んだと思っていた人が無事だった事は嬉しいけれど、リックとの別れは、どんなに辛い事か。ラズロの無事を丸ごと喜べないのも、辛い事だけれど。
失う時になって、彼女は自分の真実に気付いた。
本当に愛するという事がどういうことか。
彼女はリックに「たった一つの真実」を告げて「この世界で最後のキス」を、乞う。

リックを愛した時、彼女はラズロへの想いが幼い憧れだという事を知った。それでも、ラズロの妻として生活に彼女は戻ったんですね。
一度思い切った恋はもう戻らないけれど、傷ついた英雄を支える事はできる。
もうラズロにトキメキは求めないけれど、ただ、優しさを与える事ならできる。
でも、不器用なすみ花ちゃんのイルザは、ラズロ氏にも心の変化を隠す事は出来なかったのではないかと思うのです。
だからカフェでリックと再会したイルザを見た瞬間に、二人に何があったか、ラズロにはほぼ正確に分かってしまったのではないかと思います。

そして、イルザがラズロを紹介した時に、リックもイルザの行動の意味を、全て察することができた。
もしも再会した時、イルザにリックへの愛が感じられなかったら、リックは酔っても「彼女は必ず来る」とは言えなかったでしょうし、彼女にあれだけの意地悪を言う事もできなかったと思うのです。
大空ファンのドリームなのかもしれませんが、リックはとてもプライドが高いから。彼女の心がもう自分に向いてないのに、彼女を責めるなんて、みっともない事はしない…と、思いたい^^;
状況によって別れただけで、まだ自分と同様に彼女にも愛が残っている事がわかったから。彼女がラズロに向ける視線が、自分と過ごした時のような熱を持っていない事にも気付いたから、あれだけ激しい想いをぶつけたのだと思います。

イルザはパリではひたすらに優しかったリックなら、事情を説明すれば彼が分かってくれると思って店に来たのでしょう。
でも、事情がわかるのと、彼の愛とは別の問題。
二人の男を愛せるなら、まだ他の男もいたのか?と、つっかかる。イルザがそんな女じゃない事は、分かっているけど。

そしてパリでは見せなかった激しさでイルザを責めるリックに、彼女は初めて、彼がどれ程深く自分を求めていたのかを理解する。
…彼を、愛しているから。

パリでの優しい日々の中、リックが過去に心の傷を抱いていた事は、なんとなく気付いていたとは思います。
悪夢でうなされた後に「戦場の記憶が…」という言葉を聞いても動揺を見せないという事は、カレル達チェコのレジスタンス側でリックの過去について調べていたのでしょう。カレルはセザールが店に入って来たときからさりげなくチェックしていますし、チェコ陣営はセザールを通じて武器の調達をしているのですし。
また、警察にマークされているリックは危険人物ですから、イルザへ警告があってもおかしくないですものね。
でも、自分の事に必死だったイルザは、リックの大人の優しさの裏に深い孤独と傷がある事を、それ故に深く彼女を求めている事をあまり分かってなかった。
ま、若い女の子なんて、そんなものですよね。子供扱いされるのは嫌だけど、自分がどれくらい甘やかされているのか、わからないもの。
リックもそれでいいと思っていたのでしょう、彼女が傍にいてさえくれたら…。

この場面の二人の会話は、毎回日替わりで、いつもすごい緊張感でした。
宝塚オリジナルではないだけに、普通は有り得ないような、主役とヒロインの怒鳴り合い^^;
最初の頃は、イルザを傷つけようという意思が見えていたリック、次第に、ただ、自分の心をぶつける芝居になっていったと思います。
こんなふうに心をぶつけてくる男性像って、なかなか表現できるものじゃないと思うなぁ。
本当に、なんて愛しい男なんでしょう。
そして自分を失う事で、あんなにもダメージを受けた男を見て、平気でいられる女なんてウソだ!と思って見ていました^^;
優しい愛の場面よりも、拗ねていじけた姿を見せるほうが、愛の深さが見える…という大空祐飛の個性、活かしまくりです。
でも、かつてスコットがゼルダに見せたような「相手を傷つける事で、自分がもっと傷つく」という印象を受けなかったのも、面白いところでした。
映画の雰囲気を意識したのか、単に過去の演技との重複を避けたのか、リックは全然そういうキャラじゃないのか?ちょっと判別が付かなかったですけど。

イルザは大劇場の初期の頃は、リックの意地悪に傷ついて走り去るという芝居だったと思うのですが、東京で気付いた時には変わっていました。
リックの愛と傷の深さ、自分のした事の意味を知ったイルザ、という芝居に変えてくれて。すみ花ちゃん、ありがとう!と思いました。やっぱり、リックの心が伝わってなければ、可哀想ですもの。
それから翌日のバザールの場面にも変化がありましたね。「ごめんなさい、正直に全て話すべきだった」という台詞に、リックの傷の深さに対する申し訳なさのようなものが、どんどん深くなっていたように思います。こんなふうに、お互いの芝居が深まる程に、その変化に対応して変わっていけるコンビ、やはり奇跡の出会いかもしれません。
さて、長くなったのでこれくらいで…。
あと、どのくらい続くのか、不明ですが(^^ゞ

書きたいものリストの中から、まずは「イルザという女」について。
以前に「小夏という女」というタイトルを使いましたが、イルザは、またもや難しい女性です。
小夏は銀ちゃんという愛する男に振り回されて、二人の男の間に立つ女性ですが、イルザは時代と戦争に振り回される女性。

この公演が始まってから沢山の感想を読みましたが、ブログなどの感想を読むと、イルザというのは女性に嫌われる女性らしいですね。
思った以上に、イルザの行動に納得できないという感想が多くて、驚きました。
イルザ目線だと切ないラブストーリーだけれども、男役さんに感情移入してみると、イルザが許せないという事になるのかな?
私はわりとヒロインの目線で物語を見るほうなので、「運命に翻弄される女性」としか思ってなかったんですよね。
パリでリックと出会い、別れたのは全て不可抗力。運命の悪戯で再会しても、挙句の果てには、二人の男達に譲り合いされちゃうし。

でも、ラズロにもリックにも「愛している」と言う事が、納得できないという感想をいくつも読みました。
色々な、感じ方はあるものだなーとはいうものの、ちょっと驚きましたね。
二人の男、それぞれに違う形の想いがあって、どちらにも「愛している」という他に、言葉が無いと思うのだけれど。
ラズロに対しては尊敬、リックに対しては恋愛…と、今回の脚本では表現されていますが。
でもやはり、どちらに対しても、その状況なりの愛しさがあるでしょう。
あの状況で、どちらかを愛したら、即座にもう一人への愛が消えてしまうといわれたら、そのほうが気味が悪いと思うんだけどなぁ。
リックを選んだら、ラズロへの愛が一瞬に消えて無くなるなんて、普通の人間でありえないと思う。

そしてラズロの命を救う「通行証」は、何があっても手に入れなければならない。
リックが通行証をタテに迫る以上、イルザはどうしてもリックと向き合わなければならなかった。
そうでなければ、パリでの事は無かった事にして、貞淑な妻のまま、リックのいるカサブランカから離れる事ができたのに。
イルザはそうして、必死にリックから離れようとしていたのに。
やはり難しいのは、ラズロに対して、ですよね。
リックに対しては、まあ、相手は主役ですから^^;
特に今回の宝塚版は、イルザがリックを愛している事は非常に明確です。
トップコンビですし^^;

東京に来てから、かな?カフェでリックと再会した時点で、イルザがまだリックを愛している事、心を押し込めようとしても全然忘れてなんていない事が、しっかり見えるようになったと思います。
そして、ラズロもリックも、それが判ってしまった事もはっきり見えます。お互いに、相手がイルザの心に気付いた事も判っている。

「イルザ、久しぶりだな」という、意味ありげな言葉で見詰め合う二人。遠くから見ていたラズロにも、二人が只の知り合いとは思えないでしょう。
一緒に一杯と誘うと、テーブルにつくまでジッとイルザを見つめるリック。たじろぐイルザ。
そんなリックに見せ付けるように、彼女の腰に手を回しエスコートするラズロ。その手付きで、二人がどういう仲か判ります。
それを見て、苦しげな顔を見せるリック。4人の会話で、リックは過去の二人の関係を匂わせ、イルザは動揺を見せる。
ラズロは会話を打ち切り、リックは「彼女はきっと来る」事を確信する。

すみ花ちゃんのイルザは、本当にとても不器用。嘘をつく事もできず、心がすべて顔にでちゃいますからね。無意識にも、リックへの愛が溢れてしまいます。
だからこそ、リックはしつこくイルザに本心を言わせようとするし、ラズロは何もきかずにイルザの答えを待っている。
イルザの瞳にリックへの愛が見える以上、彼女が逃げようとしてもリックは納得できない。
ラズロは、彼女が自分と共に歩む人生を選んでも、リックへの愛を選んだとしても受け入れるから、黙って待つ。

おそらく二人共、やろうと思えば、あの優し過ぎるイルザを言いくるめて、手放さない事は簡単だろうと思います。
でも、誇り高い二人の男達は、彼女の選択を優先しようと、答えを待つ。
イルザ自身が納得して、その心を丸ごと得るのでなければ、意味が無いから。

そして、イルザは気付かないふりをして、ラズロの妻としての姿勢を保とうとする。
すみ花ちゃんのイルザは、あまりにも不器用で頑なで。本当はリックへの愛を判っているのに、心を押し込めている姿が、とても痛々しくて愛しいです。
その瞳の奥にリックへの愛を抱きしめたまま、心を押し込め、張り詰めている…。


この三人の関係は、演技の深まりと共にキャラクター造形が変わっていくのにつれて、変化していったと思います。
もしかしたら、関係性が変わったからキャラが変わったのかもしれませんが。
台詞や動きは同じでも、その中にある物語は、大劇場初日頃とは東京公演は違うのものになっていたと思いました。
なので、まず、どこからどのように書いていけばよいか、難しい^^;

実は、この文章の最初のほうは、東京の前半の頃書きかけたものなので、ちょっと変化についていけてないんですね。
大劇場初期の印象はやはり強くて、ずっとその延長線上で考えていましたし。
ただ、大劇場の後半でイルザのキャラクターが変化したのは感じていました。
初期の頃は映画のイメージを元にした役作りだったのが、大劇場の後半からすみ花ちゃん独自のイルザのキャラが確立してきた感じ。
東京に来た時には、すみ花ちゃんのイルザは、もうすっかり映画とは別物で。
そこから、リックとイルザの場面は自由な日替わり芝居となり、しばらくは変化の方向性がはっきりわかってなかったのです。

まず、映画のイルザは「勝利者に与えられる、特別な女」という存在だと思います。また、ラズロはイヤミに「Victor」~勝利者、という名前で。
周りの男たちは彼女を特別に扱うし、イルザ自身にも、その自覚はある。ま、なんと言っても美人女優さんですから。
銀橋でのラズロとイルザの会話にあたる、ホテルの場面。
映画では集会に行かないでと頼むイルザに、ラズロは「男が妻の前で勇気ある行動を披露する機会なんて、そう多くあるものじゃない」という台詞で答えます。
バーグマンのイルザは、ラズロを奮い立たせ、戦う為の原動力となる女性なんですね。
彼女を失ったら、もしかしたらラズロは勇気ある行動を取れなくなり、戦う事を避けて生きるようになるかもしれない。


そして、すみ花ちゃんのイルザは自分を「普通の女」だと、思っているのではないかと思います。
純粋で繊細な揺れ動く心を持っただけの、ごく普通の心優しい女性。
らんとむさんのラズロは、完全無欠の「英雄」だけれども、その英雄であり続ける為の苦しさを、リックの存在が描き出すんですね。
ラズロ氏も「人が死ぬのを見るのは怖い」と感じる事だって、あるでしょう。でも、彼は犠牲者に黙祷を捧げながら、あくまでも戦い続ける。
英雄にだって、心弱くなる事はあるかもしれない。ちょっと愚痴を言いたくなる事も、あるかもしれない。
すみ花ちゃんのイルザは、そんな苦しいラズロを抱きとめ”英雄”の心を癒す存在だと思うんです。
らんとむさんのラズロは、彼女を失ったら、苦しいままに戦い続け、無茶を重ねて、あっけなく命を落としそうな危険さを感じます。

だから、すみ花ちゃんのイルザがラズロの妻であろうとするのは、ものすごく納得するのです。
ラズロのほうが、より、イルザを必要としているから。
そして、多くの人々がラズロの勇気ある姿を愛するように求めるように、イルザもまた、”英雄・ラズロ”の存在を愛している。
それが、恋ではなかったとしても。
だからやはり、ラズロに「愛している」と言うほかしかない。他の言葉を選ぶ事はできなかったのかなーと思うのです。
「カサブランカ」千秋楽のCSニュース見ました。
よもや「駅の…大時計の…下で」が流れるとは!!
一年後の放送まで、ナイショにできると思ったのに(^^)
いつもと違う、びみょーな間。そして、なんだか妙に激しい、鼻息。
リック…それほどまでに、イルザの事を。
早くお嫁さんにして、縛り付けたかったのね^^;
楽の日の二回公演観劇で、少し集中力が薄れかけていた私の意識を、一気に現実に引き戻してくれた場面でした。

サムの歌声が、リックの歌に変わる映像の切り替えは、素敵でした。
イルザの大きな輝く瞳が可愛い。らんとむさんが、やっぱりイイ男だ。この公演後半、このお二人の芝居が格段に良くなって。特にらんとむさんのラズロが大好きになりました。良い役者さんになられたものだと、改めて思いましたね。
緊迫した公演の様子が映るのは、嬉しいけど…早く全部放送してくれないかなー。

挨拶は全て映るのが、嬉しいですね。素敵な記憶がそのまま蘇ります。
その時、劇場では舞い上がっていたので、映像で初めて気付く事もありました。
オオゾラさん、挨拶を始める前に、すんっと鼻をすする音がマイクに入って可愛いわー。「皆さんの瞳に乾杯!」で、両手をあげていたお姿が、記憶よりもずっと可愛かったです。
映像で見ても、けいさんの「誰がHappy?」の声は素敵でした。目を丸くしている下級生なオオゾラさんも、面白い。

実は私、退団者のカーテンコールでの一言って、大好きなんです。堅苦しい挨拶よりも、好きかもしれません。
全てをやり遂げた後の開放された表情で、本当の宝塚の舞台最後のパフォーマンスであり、素の表情が垣間見える瞬間でもあり。
今回のカーテンコールは、ほのぼのと優しい雰囲気で良かったなーと思います。
ノリが良いとかでは、ないけど。まあ、進行役になるのがオオゾラさんですから、そこは望まないでいただけるとありがたいです^^;

それにしても、改めて終わってしまった事を確認した気分。…淋しいです。
大劇場の初日から、今までの最高観劇数を記録し、何度見ても色々考えさせられる事があり。そして、出演者のみなさんの芝居も変化し続け、見るたびに新しい発見のあった公演でした。

本当にすっかり「カサブランカ」にハマってしまい、日々の生活のどんな時にも公演のことを考えていた毎日。
ついには「映画で覚える英会話 アルク・シネマ・シナリオシリーズ カサブランカ」という本を購入。
英語シナリオの対訳で、かなり便利なものでした。今回の脚本は、映画の字幕よりも原文のシナリオを元にしてあるので、オリジナルを確認できるスグレモノ。
…英語の原文はほとんど読まず、訳のみの確認で、英会話のお勉強はしてないのは申し訳ないですが(^^ゞ
ちょっと疑問を感じたら、辞書のようにオリジナルのシナリオを読んで考えてみたりしておりました。

このブログ、新公感想をちょっと書きかけただけで止まってますね。
公演期間後半になると、公演を見て、感じた事を頭の中で日本語に組み立てただけで、文字にする余裕がなくなってしまった。
しかも一度言葉にすると端から忘れてしまったのです。容量の少ない私の頭は日々上書きされて、前のデータは消えてしまうのでした(T_T)
このまま忘れない為に、今、書けそうなもののメモを。

・新公感想の続き。
 記憶もかなり薄れてきましたが、なんとか、もう少し…

・イルザという女
かつて「銀ちゃんの恋」の時に、「小夏という女」というタイトルで書きましたが、イルザも、とっても難しい女。
一番不安定な人物であり、この物語の鍵となる存在、考えは尽きません。

・ラズロさんのカッコよさ。
いや、らんとむさん、本当に素敵でした(*^_^*)特に公演後半に、どんどん芝居が変わっていたのが、印象的です。

・カサブランカの町に居合わせた人々。
今の所、主要三人を書くだけで力尽きていますが、メインキャスト・カフェの従業員達、レジスタンス、亡命者たち。みんな愛しい仲間達。
この公演で、男役さんはほとんど覚えました。娘役さん達は、お衣装と髪型を変えると雰囲気の違いが大きくて、騙されてしまう私ですが^^;
今回は娘役さんの役が少なくて、覚えられなかった方も多くいて残念。 

・戦争とか時代とか、恋とか愛とかなんとかかんとか
色々考えさせられて、あの時代の事もネットで検索してちょっとお勉強してみました。簡単に書ける事ではないので、難しいかなー。

・オリジナル脚本と小池脚本・演出。そして、オリジナルキャストと宝塚キャスト
基本的には、オリジナル脚本に忠実なこの作品。でも小池先生が追加した場面は勿論、もとからある台詞も翻案されていたりします。
小池先生が加えたところ、削ったところに、今回の舞台で表現したいものが垣間見られるような気がします。
 
・リックさんをはじめ、皆さんの芝居の変遷
本当に変わっていった舞台。しかも深夜のカフェ、リックの場面はサムとのやり取りやイルザとの芝居も、全てフリータイム。
日替わりの芝居で、台詞の言い方、間の取り方も、抑揚のつけかたも何もかも、その時の心のまま。それでいて、ゆっくりと芝居の方向は変わっていって。
大劇場の初日頃と後半、そして東宝に来てからも変わり続け、中盤から楽にかけて、一回一回の公演で変わっていって。
楽の頃には、大劇場初日とはリックの人物像は大きく変わっていたと思います。
そして、勿論、イルザもラズロさんの芝居も、大きく変わられたと思います。
この三人の役者さんにとって、得るものの大きかった役だったのではないかな。

とはいえ、ちょっと書いちゃおうかな。 
すみ花ちゃんは、リックとの火花を散らす芝居、ラズロとの相手を思いやる芝居のやり取りを経験して、相手に合わせ心の動きを表現する大人になったなーと感じます。よく例えられる、リアル北島マヤの例でいうと、彼女はもう「舞台荒らし」ではないんだな…と。
若くして多くの役を与えられて必死で走ってきたすみ花ちゃんが、少し落ち着いて芝居をする余裕が出てきたのは、見ていてもホッとするところです。
あのすみ花ちゃんが、共演者の心を感じて、自分の表現したいものをもっと冷静に見つめて芝居ができるようになったら。抑制というのは、役者さんに必要なスキル。全体の中の一人としてピタリとハマった時に、その全体がどれ程鮮やかな絵を描く事になるのか。益々、先が楽しみになりました。

改めて、本当に、良い公演だったなぁ。この時期のオオゾラさんと宙組にぴったりの、公演。夢のような時間でした。
DVDを購入しましたが、今のこの記憶を上書きしたくなくて、しばらく見られそうにないなぁ。

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