宙組公演「美しき生涯」
2011年8月3日 演劇ご無沙汰してます。もう、ずいぶん更新してなかったんだなぁ。
ま、色々気にせず、気が向いたので書き留めておきます。
宙組公演「美しき生涯」について。終わってしまう前に少しだけでも。
まずは、いきなり直球で。
この作品の一番のびっくりポイントについて。
誰もが驚くと思う、あの場面。
鶴松君を亡くした茶々の生きる力を与える為に、次の子供って…そんなバカな!!と。
子供を、人の命を何だと思っているのか、この男?とビックリしますよね?
今とは違って、子供が亡くなる確率が高かった時代とはいえ、あんまりな言い方だと思います。
でも、2〜3回見ているうちに、そして、鶴松は赤ん坊の頃から病がちでも3歳程まで生きた事を知ってから、考えが変わってきたのです。
約20年の出来事を、一時間半にまとめたこの物語。時間経過の一言の台詞を入れるのも惜しくて、ひと場面にしてありますが。
常に命の危険を持った病がちの子供を二年間余りも看病し続けて、とうとう我が子を喪ってしまったこの時の茶々は、どれ程に悲嘆に暮れていた事だろうかと思うと。
何年間も抱き続けた初恋の形見であり、戦いで親を喪い、妹二人を嫁がせた後に得た、ただ一人の肉親。ただ一人の家族…ただ一人の愛する者。
天下人・秀吉の側室として所有される事になった茶々にとっては、もはや子供しか、家族を得る事はできないのです。秀吉はお市様に生き写しの茶々に執着しているとはいえ、それは愛とは違うもの。普通の家族のような愛情は、自分の子供としか望めない。
大石先生は三成を孤独な存在として描きたかったと語られていますが、この物語のお茶々様は、それ以上に、孤独な存在として書かれています。
命を狙われるような侍女達に囲まれ、心許せる相手は三成と疾風だけしか登場しないのですから。
愛する三成の為に身体も人生も売り渡した茶々は、三成の子と思われる鶴松を心の支えに生きてきて。
その子を喪った時、彼女は空っぽになってしまったんじゃないかな。
三成は上様の命令で結婚して子供もできていた頃でしょうし、そんな噂は伝わっても、もはや三成に会う機会もあまり無い事でしょう。
もしかしたら、三成は家族を得て、幸せに暮らして…もう茶々への愛は失くしているかもしれない。
それならば、三成の為に身を売った自分は、もう生きていなくてもいいのではないか?孤独の中、そんな風に生きる力を失う事は十分に考えられるなーと思うのです。
それに幼い子供を亡くした母親って、本当にひたすら自分を責めるんですよね。「自分が丈夫な体に生んであげられなかった」とか「何か、育てかたが間違っていたんじゃないか」とか。しかたのないこととはいえ、見ているほうも、とても辛いです。
そして、ああいう時代の事、生きる意志を失くしてしまった人間が、ちょっとした病などで簡単にこの世を去ってしまうのはよくある事です。
そんな茶々に生きる生きる力を取り戻してもらう為、疾風は三成に土下座でも何でもしなければならなかった。
三成だって当然、子供を喪ったお茶々様の事を心配していたでしょう。会う機会の少ない立場だからこそ、心配は深かっただろうと思います。
だから、疾風と三成が茶々に与えたかった「生きる力」は、次の子供ではなく、彼女を心から愛する人が、彼女を抱きしめ優しく包み込んで慰める時間なのだろうと思うのです。
でも、疾風が三成にそう言っても、三成の立場では「それは秀吉様の役目だ」と言うしかない。だから、疾風は秀吉にはできない「子供」という言葉を選んで言ったのだろうな、と。三成しか与える事が出来ないのは、実は「愛」なのだけれど。
三成は、その言葉に納得したふりをして「子供」を与えるという名目で、お茶々様に会いに行けたのではないかと思います。
でも本当は、ただお茶々様を心配して、抱きしめて慰めたかったのではないかと思う。そして、一度だけしか抱けなかった、二人の子供の死を悼んで、二人で泣きたかったのではないかとも。
次の子供なんて、言い訳だと思いたい。
三成が本気で子供を作ろうとしたとは、常識的に考えにくい事と思います。言い訳のできないくらい、父親に生き写しの子供が生まれる事だって普通にあり得るんだし。二人にとってリスクが高すぎる。それに、鶴松の時とは意味が違います。天下を狙う謀反の意味に近い事ですから。
ただ、彼は子供を亡くして失意のお茶々様に一目会って、慰めたかった。
どんな危険を冒しても、何かあれば一人で責めを負う覚悟で、天下人の愛人に会いに行った。大事な上様を裏切っても、家族も地位も仕事も全てを捨てる事になる可能性があっても。
そんな三成の覚悟を感じて、遠い立場となっても自分を想ってくれる人の愛の為に、お茶々様は生きる力を取り戻したのではないかと思うのです。
だから、二人のこの命がけの逢瀬は、ただ一度だったのだと思うのだけれど。
「言葉の綾」で子を作ると言っただけなのに…本当に子供ができてしまった。
そして、またもや、男の子。
そんなバカな!とも思うけれども、なんというか、物事が悪いほうばかりに転がっていくのに翻弄されるのが、オオゾラさんらしいかな、と^^;
今まで大勢の側室にもお子ができなかったのに、生まれた子供。
どの側室が身籠っても、上様が自分の子だと言い張れば、三成はその言葉に従って後継者となるお子に忠誠を誓う事でしょう。例え、あり得ないと思っていても。
それが自分が父親であったとしても、同じ事だったのだろうとは思います。
むしろ、徹底的に上様の後継者として、主君と家臣の立場を守る事になったのでは。
それ故に、三成は主君の母であるお茶々様に対しても、一歩引いた立場となった。
ある意味、それは恋の終わりに等しいものだったのではないかと思います。
その裏切り故に、二人の道は完全に別れてしまった。
秀吉様が亡くなっても、二人は最早、主君の母と家臣として対する事しかできない。
…もし、あの時に子供を授かっていなければ、違った関係になれたかもしれない。でも、もう、二人はそこには戻れない。
お茶々様がますます孤立して、一人で「我が子」を守ると歌うのが哀しいです。
愛した男が、子供の実の父親が、すぐ傍にいるのに。もう、三成に丸ごと頼る事は、できないのです。お互いに、愛が消えたのではない事はわかっているのに。
そして、三成はそんな彼女に何も言う事ができずに、黙り込む。「豊臣の大義の為に」なんて言わずに、もう一度「自分の為に」、茶々にお願いしていれば…と、じれったい思いがします。彼女はそうして欲しかったのではないかと。
でも、それができない人だからこそ、愛しいのですよね。
三成が「豊臣」の為に戦う事は、すべての愛の為に命を懸ける事であるのだけは確かな事で。
お茶々様を、秀頼様を生かす為に、関ヶ原で彼は戦った。
どんなに不器用でも、間違いだらけの行いを重ねながら、迷いながら、正しい道も殿への愛も茶々への愛も秀頼への愛も全てを守って戦って。激しく生きた事が「美しき生涯」なのだろうと、納得させられる牢獄の場面。美しい場面です。
しかし…時間切れなので、続きはまた今度という事で。
ま、色々気にせず、気が向いたので書き留めておきます。
宙組公演「美しき生涯」について。終わってしまう前に少しだけでも。
まずは、いきなり直球で。
この作品の一番のびっくりポイントについて。
誰もが驚くと思う、あの場面。
鶴松君を亡くした茶々の生きる力を与える為に、次の子供って…そんなバカな!!と。
子供を、人の命を何だと思っているのか、この男?とビックリしますよね?
今とは違って、子供が亡くなる確率が高かった時代とはいえ、あんまりな言い方だと思います。
でも、2〜3回見ているうちに、そして、鶴松は赤ん坊の頃から病がちでも3歳程まで生きた事を知ってから、考えが変わってきたのです。
約20年の出来事を、一時間半にまとめたこの物語。時間経過の一言の台詞を入れるのも惜しくて、ひと場面にしてありますが。
常に命の危険を持った病がちの子供を二年間余りも看病し続けて、とうとう我が子を喪ってしまったこの時の茶々は、どれ程に悲嘆に暮れていた事だろうかと思うと。
何年間も抱き続けた初恋の形見であり、戦いで親を喪い、妹二人を嫁がせた後に得た、ただ一人の肉親。ただ一人の家族…ただ一人の愛する者。
天下人・秀吉の側室として所有される事になった茶々にとっては、もはや子供しか、家族を得る事はできないのです。秀吉はお市様に生き写しの茶々に執着しているとはいえ、それは愛とは違うもの。普通の家族のような愛情は、自分の子供としか望めない。
大石先生は三成を孤独な存在として描きたかったと語られていますが、この物語のお茶々様は、それ以上に、孤独な存在として書かれています。
命を狙われるような侍女達に囲まれ、心許せる相手は三成と疾風だけしか登場しないのですから。
愛する三成の為に身体も人生も売り渡した茶々は、三成の子と思われる鶴松を心の支えに生きてきて。
その子を喪った時、彼女は空っぽになってしまったんじゃないかな。
三成は上様の命令で結婚して子供もできていた頃でしょうし、そんな噂は伝わっても、もはや三成に会う機会もあまり無い事でしょう。
もしかしたら、三成は家族を得て、幸せに暮らして…もう茶々への愛は失くしているかもしれない。
それならば、三成の為に身を売った自分は、もう生きていなくてもいいのではないか?孤独の中、そんな風に生きる力を失う事は十分に考えられるなーと思うのです。
それに幼い子供を亡くした母親って、本当にひたすら自分を責めるんですよね。「自分が丈夫な体に生んであげられなかった」とか「何か、育てかたが間違っていたんじゃないか」とか。しかたのないこととはいえ、見ているほうも、とても辛いです。
そして、ああいう時代の事、生きる意志を失くしてしまった人間が、ちょっとした病などで簡単にこの世を去ってしまうのはよくある事です。
そんな茶々に生きる生きる力を取り戻してもらう為、疾風は三成に土下座でも何でもしなければならなかった。
三成だって当然、子供を喪ったお茶々様の事を心配していたでしょう。会う機会の少ない立場だからこそ、心配は深かっただろうと思います。
だから、疾風と三成が茶々に与えたかった「生きる力」は、次の子供ではなく、彼女を心から愛する人が、彼女を抱きしめ優しく包み込んで慰める時間なのだろうと思うのです。
でも、疾風が三成にそう言っても、三成の立場では「それは秀吉様の役目だ」と言うしかない。だから、疾風は秀吉にはできない「子供」という言葉を選んで言ったのだろうな、と。三成しか与える事が出来ないのは、実は「愛」なのだけれど。
三成は、その言葉に納得したふりをして「子供」を与えるという名目で、お茶々様に会いに行けたのではないかと思います。
でも本当は、ただお茶々様を心配して、抱きしめて慰めたかったのではないかと思う。そして、一度だけしか抱けなかった、二人の子供の死を悼んで、二人で泣きたかったのではないかとも。
次の子供なんて、言い訳だと思いたい。
三成が本気で子供を作ろうとしたとは、常識的に考えにくい事と思います。言い訳のできないくらい、父親に生き写しの子供が生まれる事だって普通にあり得るんだし。二人にとってリスクが高すぎる。それに、鶴松の時とは意味が違います。天下を狙う謀反の意味に近い事ですから。
ただ、彼は子供を亡くして失意のお茶々様に一目会って、慰めたかった。
どんな危険を冒しても、何かあれば一人で責めを負う覚悟で、天下人の愛人に会いに行った。大事な上様を裏切っても、家族も地位も仕事も全てを捨てる事になる可能性があっても。
そんな三成の覚悟を感じて、遠い立場となっても自分を想ってくれる人の愛の為に、お茶々様は生きる力を取り戻したのではないかと思うのです。
だから、二人のこの命がけの逢瀬は、ただ一度だったのだと思うのだけれど。
「言葉の綾」で子を作ると言っただけなのに…本当に子供ができてしまった。
そして、またもや、男の子。
そんなバカな!とも思うけれども、なんというか、物事が悪いほうばかりに転がっていくのに翻弄されるのが、オオゾラさんらしいかな、と^^;
今まで大勢の側室にもお子ができなかったのに、生まれた子供。
どの側室が身籠っても、上様が自分の子だと言い張れば、三成はその言葉に従って後継者となるお子に忠誠を誓う事でしょう。例え、あり得ないと思っていても。
それが自分が父親であったとしても、同じ事だったのだろうとは思います。
むしろ、徹底的に上様の後継者として、主君と家臣の立場を守る事になったのでは。
それ故に、三成は主君の母であるお茶々様に対しても、一歩引いた立場となった。
ある意味、それは恋の終わりに等しいものだったのではないかと思います。
その裏切り故に、二人の道は完全に別れてしまった。
秀吉様が亡くなっても、二人は最早、主君の母と家臣として対する事しかできない。
…もし、あの時に子供を授かっていなければ、違った関係になれたかもしれない。でも、もう、二人はそこには戻れない。
お茶々様がますます孤立して、一人で「我が子」を守ると歌うのが哀しいです。
愛した男が、子供の実の父親が、すぐ傍にいるのに。もう、三成に丸ごと頼る事は、できないのです。お互いに、愛が消えたのではない事はわかっているのに。
そして、三成はそんな彼女に何も言う事ができずに、黙り込む。「豊臣の大義の為に」なんて言わずに、もう一度「自分の為に」、茶々にお願いしていれば…と、じれったい思いがします。彼女はそうして欲しかったのではないかと。
でも、それができない人だからこそ、愛しいのですよね。
三成が「豊臣」の為に戦う事は、すべての愛の為に命を懸ける事であるのだけは確かな事で。
お茶々様を、秀頼様を生かす為に、関ヶ原で彼は戦った。
どんなに不器用でも、間違いだらけの行いを重ねながら、迷いながら、正しい道も殿への愛も茶々への愛も秀頼への愛も全てを守って戦って。激しく生きた事が「美しき生涯」なのだろうと、納得させられる牢獄の場面。美しい場面です。
しかし…時間切れなので、続きはまた今度という事で。
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