CSニュース「シャングリラ -水之城-」の千秋楽映像を見ました。
ちゃんと、轟天号の運転手交代アドリブや、ラストのさっつんの「トラファルフガー」の看板の営業も映してくれて、嬉しいです♪
でも、もっと映してくれてもいいのに^^;
全体に「そこ、映すんだ(@_@)」と「あともう少し流して…」の繰り返し。焦らさせます。こんなにDVDの発売が待ち遠しい作品も久しぶりかも。
なんだかんだ言っても、終わってしまったのが淋しい…というか、もっと見たい。
短期間の公演でも十分な回数を見た筈なのですが…回数の問題では、ないらしいです。せめて、オーブニングとタイムリミットとフィナーレだけでも、ずっと体感していたい。もう少しで、禁断症状がでそうな気分です。

あの音楽とダンスのかっこよさを、客席で舞台と一体になって感じていた、あの感覚をもう一度味わいたい。
こう書くと、ショーとしてダンス場面を楽しみたいようですが、そうではないのがこの作品の面白いところでした。
あの物語があるからこそ。あの世界の、あのキャラ達を、舞台で見たい。たとえ、つっこみどころ満載な物語であっても。
また、ソラ達みんな、あのキャラクター達に会いたいのです。そして、あのキャラクターの皆さんが踊る姿が見たいし、客席で体感したいんだなぁ。
…これは、私のなかで、新しい感覚かもしれません。

ドラマシティの千秋楽の挨拶での、オオゾラさんの「ソフトシェルクラブのような、柔らかい」作品という言葉。
その時は、どういう意味だかよくわからなかったのですが、青年館の舞台を見て、すごく納得しました。
皆さんのキャラクターがイキイキと舞台で動いている姿が、とっても自由度が高い気がして。
まるで、その人そのもの、のように見える。
美雨はすみ花ちゃんそのもの、嵐はらんとむさん、そのもの。どのキャラも、皆さんそう思える。
皆さんの役者としての本質のキャラクターと、役のキャラクターが合っているという事かな?

オオゾラさんに至っては、記憶喪失という、役の設定を取り払ったキャラクターから始まるのですから、尚更です。
役としての”ソラ”と、役者・オオゾラユウヒは、一見すると境目が曖昧な存在のようにも見えます。
「記憶」という、人間の行動や判断の基準となるものが無いという役は、人物のニュートラルな性格を現す存在として描かれていますから。
でも勿論、素のオオゾラユウヒさんとは、全然別の存在です。
逆に、”ソラ”という人物のニュートラルな状態を、細心の注意を払って作りあげた存在。
記憶喪失のソラは、回想場面の記憶を失う前のソラの願った姿。そして、記憶を取り戻してからのソラは、美雨達との心の触れあいという経験値が増えて、また心の在りようが変わった存在になります。
”ソラ”という役は、同じ人間だけど少しずつ違う、三人の人物の役作りが必要だったのではないかと思います。

それでも、やはり。記憶喪失の”ソラ”は、オオゾラユウヒそのものだった、気がするのですよ。他の皆さんと同じ意味で。
あまり詳細な設定が語られない、近未来という舞台だから。
歴史の資料をもとに作りこむ事ができない状態で、役者の力で描く世界観。その時、その役者さん達のイマジネーションそのものを、見せる事になる。
演じる役者さんの人生経験や、その経験から導き出せる役者さんたちの表現力が、舞台の枠を作っていく。
役者さん達が感じ想像したキャラ達を舞台の上で表現して、どれだけリアリティを待たせる事ができるか。
緩い設定の舞台だからこそ、役者さん達の持つ色をダイレクトに感じるから。皆が、役の人物そのものとなる。だから、あのキャラクター達、みんなが愛しい。
そして役者の解釈が深まり変わっていけば、舞台の枠は形を変える。どんな新しい解釈もどんな変化も、許容される舞台。
それが柔らかい舞台ということなのかな~と思います。

これは宝塚では、珍しい事だけれど、外の演劇では割とある表現方法なのかもしれませんね。
今回は「近未来」の設定ですが、逆に世界設定をまるで見せない事で、ただ人間対人間のドラマを描く、という表現もあるわけですし。ま、それは極端な話ですが。
…この作品の緩さがどれだけ意識的なものなのかは、作者のみ知る、ですが^^;
いま、公演が終わってみて、皆さんが成果をあげた後となっては、なかなか面白い挑戦だったなーとも思えます。
同じ宛書きでも、植田景子先生の「HOLLYWOOD LOVER」は、かっちりと作品世界の枠が作られていて、その枠の中をどれだけ深く複雑に埋めていくか…という作品だった印象。今回は、どんな枠を作るのかを見れた作品だった、ということで。その違いが面白かったです。
まぁ、二人の対照的な女性作家の夢をカタチにした、オオゾラさんの力を見た…という事で(^^)

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