我こそは!-藤井版「HAMLET!!」-
2010年2月28日 月組月組「HAMLET!!」感想を書くのが遅れましたが、楽しかったです。
結局、二回しか見られませんでした。何しろ「カサブランカ」で、搾れるだけ搾り取られているので(^^ゞ
主演者まさお君とメンバーの魅力を最大限に引き出しつつ、出演者全員の舞台力をアップさせる舞台だな、と思いました。
古典作品は、得るものが多そうですよね。宝塚はもっと文学作品をやるべきだと思います。やっぱり役者さんというのは、何よりも作品と舞台で育てられるものなんだろうな、と感じるので。
そして藤井先生の、出演者に対する愛情と、なんだかものすごい意気込みを感じた作品。バウ作品なのに生バンドだし、稼動式のセットは電飾ギラギラ。お衣装もみんな結構お着替えしていて、髪の毛はすごい事になっている。色分け以上の意味はよくわからないけれど、演出家に主張がある事だけは、強く伝わってきます。
やはり、演出家が「ハムレット」に取り組むという事は、それなりに覚悟が要る事なのかな?
プログラムには「世界中で上演されていない日がない」と書いてあります。CSニュースのバウの挨拶で、まさお君が「世界的にも有名な」と、言った時に、有名っていうか^^;シェイクスピアの代名詞のような作品であり、ある意味、西洋文化での「演劇」の象徴でもあるような芝居だよなーと、改めて思いました。
その、やっかいな台詞の長さにより上演時間も長い為、あらゆるアレンジ・色々な形で上演される芝居。ベースを誰もが知っているものだけに、どのようなカタチで見せるのか、演出家の意思がとてもよく見える作品です。
そして、今回は「ロック・オペラ HAMLET!!」。あの長い台詞をロックの音楽に乗せて歌い上げ、華やかにショーアップした、明快でロマンチックな宝塚作品。
本当に楽しくて、まさお君のパワーに巻き込まれ、蘭ちゃんの可憐さにポワ~ンとしている間に、終わってしまった舞台でした。
終わった後には、ただ「綺麗なものを見た」という感動と、「タカラヅカを見た」楽しさが残りました。
でも、シェイクスピアを見たとか、ハムレットを見た気はしなかった。
先日、博品館でみた「笑いすぎたハムレット」のほうがずっと、シェイクスピアで、ハムレットだった気がしたのです。
たとえ、ジュリエットがオフィーリアの親友で、腹話術のお人形のロミオ様相手に男役声と女性の声を切り替えながら会話をしていようと、ジャック・アバウアーさんが事件を円満解決しようと。歌謡曲をふんだんに使ったレビューであり、喜劇であっても、あれはハムレットだったんだなーと、改めて思う程に。
今回はハムレットを見た気がしなかった。
何よりそれが印象的で。二回目の観劇では、何故、そう思ったのかを注目してみました。
亡霊達が歌い、ホレーシオが、亡きハムレットを語るという冒頭。
亡霊達は最初「エリザベート」のオープニングの亡霊のヴェールをかぶり、振り付けもなんだか似たような振りもあり、まるでエリザのパロディのよう。
ホレーシオ役のとしちゃん、カッコいい。そして、上手い!でも「復習という名の正義」…へー、そうなんだ^^;などど思っているうちに。
ギラギラの電飾で飾られたセットの上に、ハムレットの登場。「To be, or not to be」と、カッコよく歌う。
この作品、あんなお衣装だけれども、意外に台詞はシェイクスピアそのまま。
ホレーシオの妹が創作されたり、ローゼンクランツが女性だったりするので、かなり印象が変わっているけれど、後で本をめくってみたらかなり戯曲に忠実で驚きました。カットは多いし、歌になっている部分が多いので、印象が軽い感じですが。
ローゼンクランツが「かつて殿下は私を愛して下さいました」と言うのは創作かと思っていたら、元の台詞は「かつては親友とみなして下さいました」なんですね。
でも、この二人がクローディアス王にお追従を言う場面はカット。
キャラクター達の性格を左右する台詞を削る事で、それぞれのキャラクターは違うものになっています。
見る前に予習しようと思って原作を開き、すぐに放り出してしまったけれど(^^ゞ
舞台を見た後に読んだらやっぱり面白くて、気になる場面のつまみ読みで、結局ほとんど読んでしまった「ハムレット」。
あれで、藤井版はかなり意識的に、台詞をカットしている事に気付きました。
ローゼンクランツとギルデンスターンだけでなく、追従や、自惚れや、悪意。登場人物の人間としての醜さ、愚かさを示す台詞をカットしています。
ポローニアスや、ローゾンクランツ達、そして仇であるクローディアスでさえ。主人公ハムレットの敵となる人物達は、特に丁寧に吟味した台詞だけを残してあるようです。
「ハムレット」の特徴である、世の中への皮肉と嘲笑に満ちた視線。あの長い台詞の多くは、あらゆるもの事に対しての皮肉です。
そして、それは主人公ハムレット王子の視線でもあります。
彼は世の人々の醜さと愚かさを皮肉って嘲笑います。そして、自分自身に対しても同じく。
運命の皮肉と破滅は、シェイクスピア作品に共通するものではありますが、「ハムレット」はその中でも特に、皮肉を意識する作品です。
狂気を装ったハムレットの言葉といい、彼に襲い掛かる運命の皮肉といい。
台詞も筋立ても、まるでハムレット自身も、観客をも突き放すように、全てを皮肉の煙にまいて嘲笑うようです。
私はこの物語の筋立ての皮肉さが、好きなんですよね。
見目麗しく頭も良く、剣も強くて民衆に人気もあり、美しい恋人もいて、何もかもを持っていた王子様ハムレット。けれど父親を殺された復習の為に、狂気を装い、人も羨む境遇を全て捨て去る。ところが、彼は誤解から、恋人の父親を殺してしまう。彼女は狂気の淵に落ち、やがて命も落としてしまい、ハムレット自身が仇と狙われる事となる。叔父である王を罠にかけ、その企みを暴くも、結局叔父の罠にかかって決闘で命を落とす。
正義を行う筈が、自分が殺人者となり、狂気と正気、裏切り、騙し、悲しみと、ハムレットの立場が次々と反転していくさまは、本当に良くできているなと、感心します。さすがに、400年の間、一番人気を守り続ける物語だなーと。
しかし、今回の藤井版「HAMLET!!」は、この作中から「皮肉」という要素を、きれいに排除しているのではないかと、感じました。
かなり意識的に、ハムレットの心の有り方から、愚かな人々を皮肉って嘲笑うという要素を排除しているのではないかと。
だから「笑いすぎたハムレット」のほうが、普通のハムレットのように見えた。皮肉の嘲いがあり、その結果喜劇仕立てとなったハムレットだったから。
そして藤井版は、皮肉な視線を切り捨てる事で、筋立ての面白さのみ、際立たせようとしたのでないかと思ったのです。
また、今回の上演で面白かったのが、オフィーリアの存在です。
私が今まで見た「ハムレット」では、オフィーリアは、若くて可愛い女優さんが演じてらっしゃいましたが、皆さん、なんだかイマひとつ…いや、みっつくらい。
ハムレット他、他のキャストが選び抜かれて気合を入れて演じているだけに、綺麗な飾りのような存在となり。物語のヒロインはガートルードお母様でした。
そもそも、一般の若い女優さんがドレスを着る事も、着こなしにちょっと無理があるし^^;
なので、宝塚の娘役さんで、オフィーリアを見たいと、ずっと思っておりました。
願いは叶い、そして実現したオフィーリアは、とても意外な存在でした。
オフィーリアというのは、ハムレットに降りかかる「悲劇」、そのまま同じ境遇を受ける存在なのですね。
ハムレットは母の再婚による「愛」への疑いを、オフィーリアに向け、彼女の真心を裏切り「尼寺へ行け」と迫る。そして父の死。
ハムレットは狂気を装うだけですが、オフィーリアは本物の狂気をその身に宿し、やがて死に至る。
蘭ちゃんのオフィーリアは、「尼寺へ行け」と言われた時に、狂気の片鱗を見せるところが、切なく、恐怖を誘う迫力がありました。
その後の”狂った乙女”の姿も、倒錯的な美しさを持ちながら可憐で、むしろこれが”宝塚の娘役”の美しさの真髄なのかもしれない…とも思いました。
「THE LAST PARTY」でゼルダが狂気のなかオフィーリアの台詞を言う場面の紫城るいちゃんにも感じたのですが。
本来、現実にありえない”純粋な乙女”である娘役。その純粋さを持つ為には現実の世界を見ない、知らないで、現実とはかけ離れていなければならない。
純粋過ぎて、現実を踏み外してしまったら、そこには狂気が待っている。そんなこの世ならざる存在が、娘役というものなのかも。
…あの時、オオゾラさんとるいちゃんで、ハムレットを見たいと思ったなーなどと、懐かしく思いつつ。
でも、オフィーリアというのが、これ程にハムレットを反転させた存在とは知らなかった。彼女がハムレットと同じ悲しみを背負う事で、彼の悲しい運命が強調され、その死によって、ハムレットに最後の打撃をあたえる事になる。
ただの綺麗どころの”主役の恋人”役だと思っていて、ごめんなさい。
立派なヒロイン役だったのですね。
更に、今回はローゼンクランツが女性で、ハムレットを愛しているという設定になったのが、面白い仕掛けでした。この為、ハムレット対クローディアス王の争いの被害を、全てハムレットを愛する女性達が負う事になったのです。(ギルデンスターンは、ついでの被害者…可哀想に^^;)
これが宝塚に相応しい感じですし、また意外にオフィーリアの存在を明確にしたような気がします。
通常なら死で終わるオフィーリアの出番ですが、この後、レアティーズとハムレットの決闘の打診役で「運命の使者」として登場するのが、今回の藤井版の面白いところ。原作ではオズリックという、最新流行の帽子を被った軽薄な伊達男の役どころです。この帽子を取る取らないの会話が、仮面についての会話になっています。これが、とても不気味な雰囲気を醸し出して”運命”のイメージを際立たせます。
そして、運命の決闘は行われ、全ての復習が果たされ、全ての決着がついた時。
白い光に包まれたオフィーリアがあらわれる。
無垢な乙女の優しい祈りによって、亡霊として「ハムレット」の運命を語ったモノ達は、浄められ、安らぎを得る。
黒衣の亡霊達は、白い”光”を纏う”魂”として、生まれ変わり、その思いは歌のなかに昇華される。
「ああ、タカラヅカだなー」と、思いました。
っていうか、「Apasionado(アパショナード)!! II」のラグリマの場面みたいな?
えーと、いつもの藤井ショーのクライマックス?
これってショーアップした「ハムレット」のお芝居だと思ってたけど、「ハムレット」を題材にしたショーだったんだ。
いや、わかってましたけどね。だって、ハムレットとオフィーリア以外、皆さん芝居らしい芝居してないし。
他のキャラクターは全て、ステレオタイプ…というより、記号的な演技。花組のショー「EXCITER!!」の、寸劇の芝居に近い感じ。
何しろ、時間が足りません。そのままやれば4時間近い芝居を二時間ちょいで。約半分、そのうえ沢山のナンバーがあります。タカラヅカですから劇中劇にも結構な時間を取りますし、各キャラの持ち時間は、非常に短い。
心情を語る独白の部分を歌うので、見るほうは感情移入しやすいですが、台詞は場繋ぎになる事が多い印象。物語を進めるうえで必要最低限の台詞のみ。キャラの性格や心情が見える部分など、ほとんどカット。
フォーティンブラスのノルウェー絡みも、国の状況や歴史なんか必要なし。亡霊が語るんだし。それどころか、亡き父が同じハムレットという名の王であった台詞さえ、カット。その一言の時間も惜しいらしい^^;
なので、各キャラクターは衣装も色分けされ、記号化されたキャラ造形で、ひと目でどういう立ち居地のキャラなのか示さなければなりません。
それでも、限界までシェイクスピアの台詞を無理矢理に詰め込み、ものすごいスピード感で物語は進みます。
…乙女の祈りに、救われる為に。
最後に救われる事が前提だから、人間の愚かさや醜さなどを強調する部分はカットしたのでしょうね。そのほうが、大衆は納得感がありますし。
なにしろ、堂々と「復讐という正義」と歌う、明快な物語としての上演なのですから。
時間短縮も兼ねて、キャラクターを記号化しつつ、それぞれの行動の動機となった純粋な気持ちだけを描いて、ラストの”浄化”に向かって、なだれ込んでいく。
それはとても心地よい、タカラヅカ・マジックでした。
皆さんが白い光になって、歌い踊るラストは、宝塚ならではのカタルシスがありました。「良いもの見たな~」と、幸せな気持ちで、主題歌を口ずさみながら帰る、楽しい時間。宝塚ファンとして、藤井版「HAMLET!!」は、大成功だったと思います。
そして、全編に盛り込まれた「エリザベート」のパロディ。これは、もしかしたら「宝塚」の象徴として使われているのでは?とも思いました。
これが、藤井版「宝塚」のハムレットだ!という、メッセージなのかも…なんて、考え過ぎでしょうかね^^;
藤井先生は、パロディが大好きなのは間違いないですよね。「から騒ぎ」でも、エリザのパロディが幾つかあったような。「から騒ぎ」は、「サーカスのよう」な物語、この「HAMLET!!」は、亡霊達が語る「復讐という正義」と、救いの物語…10年前のシェイクスピアシリーズに対応しているのも、今回のこだわりなのでしょうかね。
…主人公の髪の色とか。
ただ、これはしかめつらしい「演劇」の権威を持ったオジサマ方には認められないのでは…と、思ったのですが、どうなんでしょう。
「ハムレット」の、この皮肉な視線。”物語”からはみ出して、自分自身も観客さえも突き放し「このままでいいのか、いけないのか?」と、問いかける客観性が、”演劇”の幅を広げ、多様な舞台芸術を展開していく元になったのではないかと思うので。藤井版のこの明快さは、演劇のオジサマの好みじゃないかもなーなんて、いらない心配をしてしまいました。
ま、でも。400年、多様な解釈で上演されてきたであろう、「ハムレット」ですもの。宝塚の演出家として、藤井先生の表現は正しかったと思います。
宝塚は「乙女達の祈りに浄められ、救われる」場所ですからね。
…ただ一つ、まさお君の髪型と、お化粧は…ちょっと謎でしたが^^;
今の段階では、藤井先生の次回作がどうなるのか発表されていませんが、次はどんな作品を見せて下さるのか、楽しみです♪
結局、二回しか見られませんでした。何しろ「カサブランカ」で、搾れるだけ搾り取られているので(^^ゞ
主演者まさお君とメンバーの魅力を最大限に引き出しつつ、出演者全員の舞台力をアップさせる舞台だな、と思いました。
古典作品は、得るものが多そうですよね。宝塚はもっと文学作品をやるべきだと思います。やっぱり役者さんというのは、何よりも作品と舞台で育てられるものなんだろうな、と感じるので。
そして藤井先生の、出演者に対する愛情と、なんだかものすごい意気込みを感じた作品。バウ作品なのに生バンドだし、稼動式のセットは電飾ギラギラ。お衣装もみんな結構お着替えしていて、髪の毛はすごい事になっている。色分け以上の意味はよくわからないけれど、演出家に主張がある事だけは、強く伝わってきます。
やはり、演出家が「ハムレット」に取り組むという事は、それなりに覚悟が要る事なのかな?
プログラムには「世界中で上演されていない日がない」と書いてあります。CSニュースのバウの挨拶で、まさお君が「世界的にも有名な」と、言った時に、有名っていうか^^;シェイクスピアの代名詞のような作品であり、ある意味、西洋文化での「演劇」の象徴でもあるような芝居だよなーと、改めて思いました。
その、やっかいな台詞の長さにより上演時間も長い為、あらゆるアレンジ・色々な形で上演される芝居。ベースを誰もが知っているものだけに、どのようなカタチで見せるのか、演出家の意思がとてもよく見える作品です。
そして、今回は「ロック・オペラ HAMLET!!」。あの長い台詞をロックの音楽に乗せて歌い上げ、華やかにショーアップした、明快でロマンチックな宝塚作品。
本当に楽しくて、まさお君のパワーに巻き込まれ、蘭ちゃんの可憐さにポワ~ンとしている間に、終わってしまった舞台でした。
終わった後には、ただ「綺麗なものを見た」という感動と、「タカラヅカを見た」楽しさが残りました。
でも、シェイクスピアを見たとか、ハムレットを見た気はしなかった。
先日、博品館でみた「笑いすぎたハムレット」のほうがずっと、シェイクスピアで、ハムレットだった気がしたのです。
たとえ、ジュリエットがオフィーリアの親友で、腹話術のお人形のロミオ様相手に男役声と女性の声を切り替えながら会話をしていようと、ジャック・アバウアーさんが事件を円満解決しようと。歌謡曲をふんだんに使ったレビューであり、喜劇であっても、あれはハムレットだったんだなーと、改めて思う程に。
今回はハムレットを見た気がしなかった。
何よりそれが印象的で。二回目の観劇では、何故、そう思ったのかを注目してみました。
亡霊達が歌い、ホレーシオが、亡きハムレットを語るという冒頭。
亡霊達は最初「エリザベート」のオープニングの亡霊のヴェールをかぶり、振り付けもなんだか似たような振りもあり、まるでエリザのパロディのよう。
ホレーシオ役のとしちゃん、カッコいい。そして、上手い!でも「復習という名の正義」…へー、そうなんだ^^;などど思っているうちに。
ギラギラの電飾で飾られたセットの上に、ハムレットの登場。「To be, or not to be」と、カッコよく歌う。
この作品、あんなお衣装だけれども、意外に台詞はシェイクスピアそのまま。
ホレーシオの妹が創作されたり、ローゼンクランツが女性だったりするので、かなり印象が変わっているけれど、後で本をめくってみたらかなり戯曲に忠実で驚きました。カットは多いし、歌になっている部分が多いので、印象が軽い感じですが。
ローゼンクランツが「かつて殿下は私を愛して下さいました」と言うのは創作かと思っていたら、元の台詞は「かつては親友とみなして下さいました」なんですね。
でも、この二人がクローディアス王にお追従を言う場面はカット。
キャラクター達の性格を左右する台詞を削る事で、それぞれのキャラクターは違うものになっています。
見る前に予習しようと思って原作を開き、すぐに放り出してしまったけれど(^^ゞ
舞台を見た後に読んだらやっぱり面白くて、気になる場面のつまみ読みで、結局ほとんど読んでしまった「ハムレット」。
あれで、藤井版はかなり意識的に、台詞をカットしている事に気付きました。
ローゼンクランツとギルデンスターンだけでなく、追従や、自惚れや、悪意。登場人物の人間としての醜さ、愚かさを示す台詞をカットしています。
ポローニアスや、ローゾンクランツ達、そして仇であるクローディアスでさえ。主人公ハムレットの敵となる人物達は、特に丁寧に吟味した台詞だけを残してあるようです。
「ハムレット」の特徴である、世の中への皮肉と嘲笑に満ちた視線。あの長い台詞の多くは、あらゆるもの事に対しての皮肉です。
そして、それは主人公ハムレット王子の視線でもあります。
彼は世の人々の醜さと愚かさを皮肉って嘲笑います。そして、自分自身に対しても同じく。
運命の皮肉と破滅は、シェイクスピア作品に共通するものではありますが、「ハムレット」はその中でも特に、皮肉を意識する作品です。
狂気を装ったハムレットの言葉といい、彼に襲い掛かる運命の皮肉といい。
台詞も筋立ても、まるでハムレット自身も、観客をも突き放すように、全てを皮肉の煙にまいて嘲笑うようです。
私はこの物語の筋立ての皮肉さが、好きなんですよね。
見目麗しく頭も良く、剣も強くて民衆に人気もあり、美しい恋人もいて、何もかもを持っていた王子様ハムレット。けれど父親を殺された復習の為に、狂気を装い、人も羨む境遇を全て捨て去る。ところが、彼は誤解から、恋人の父親を殺してしまう。彼女は狂気の淵に落ち、やがて命も落としてしまい、ハムレット自身が仇と狙われる事となる。叔父である王を罠にかけ、その企みを暴くも、結局叔父の罠にかかって決闘で命を落とす。
正義を行う筈が、自分が殺人者となり、狂気と正気、裏切り、騙し、悲しみと、ハムレットの立場が次々と反転していくさまは、本当に良くできているなと、感心します。さすがに、400年の間、一番人気を守り続ける物語だなーと。
しかし、今回の藤井版「HAMLET!!」は、この作中から「皮肉」という要素を、きれいに排除しているのではないかと、感じました。
かなり意識的に、ハムレットの心の有り方から、愚かな人々を皮肉って嘲笑うという要素を排除しているのではないかと。
だから「笑いすぎたハムレット」のほうが、普通のハムレットのように見えた。皮肉の嘲いがあり、その結果喜劇仕立てとなったハムレットだったから。
そして藤井版は、皮肉な視線を切り捨てる事で、筋立ての面白さのみ、際立たせようとしたのでないかと思ったのです。
また、今回の上演で面白かったのが、オフィーリアの存在です。
私が今まで見た「ハムレット」では、オフィーリアは、若くて可愛い女優さんが演じてらっしゃいましたが、皆さん、なんだかイマひとつ…いや、みっつくらい。
ハムレット他、他のキャストが選び抜かれて気合を入れて演じているだけに、綺麗な飾りのような存在となり。物語のヒロインはガートルードお母様でした。
そもそも、一般の若い女優さんがドレスを着る事も、着こなしにちょっと無理があるし^^;
なので、宝塚の娘役さんで、オフィーリアを見たいと、ずっと思っておりました。
願いは叶い、そして実現したオフィーリアは、とても意外な存在でした。
オフィーリアというのは、ハムレットに降りかかる「悲劇」、そのまま同じ境遇を受ける存在なのですね。
ハムレットは母の再婚による「愛」への疑いを、オフィーリアに向け、彼女の真心を裏切り「尼寺へ行け」と迫る。そして父の死。
ハムレットは狂気を装うだけですが、オフィーリアは本物の狂気をその身に宿し、やがて死に至る。
蘭ちゃんのオフィーリアは、「尼寺へ行け」と言われた時に、狂気の片鱗を見せるところが、切なく、恐怖を誘う迫力がありました。
その後の”狂った乙女”の姿も、倒錯的な美しさを持ちながら可憐で、むしろこれが”宝塚の娘役”の美しさの真髄なのかもしれない…とも思いました。
「THE LAST PARTY」でゼルダが狂気のなかオフィーリアの台詞を言う場面の紫城るいちゃんにも感じたのですが。
本来、現実にありえない”純粋な乙女”である娘役。その純粋さを持つ為には現実の世界を見ない、知らないで、現実とはかけ離れていなければならない。
純粋過ぎて、現実を踏み外してしまったら、そこには狂気が待っている。そんなこの世ならざる存在が、娘役というものなのかも。
…あの時、オオゾラさんとるいちゃんで、ハムレットを見たいと思ったなーなどと、懐かしく思いつつ。
でも、オフィーリアというのが、これ程にハムレットを反転させた存在とは知らなかった。彼女がハムレットと同じ悲しみを背負う事で、彼の悲しい運命が強調され、その死によって、ハムレットに最後の打撃をあたえる事になる。
ただの綺麗どころの”主役の恋人”役だと思っていて、ごめんなさい。
立派なヒロイン役だったのですね。
更に、今回はローゼンクランツが女性で、ハムレットを愛しているという設定になったのが、面白い仕掛けでした。この為、ハムレット対クローディアス王の争いの被害を、全てハムレットを愛する女性達が負う事になったのです。(ギルデンスターンは、ついでの被害者…可哀想に^^;)
これが宝塚に相応しい感じですし、また意外にオフィーリアの存在を明確にしたような気がします。
通常なら死で終わるオフィーリアの出番ですが、この後、レアティーズとハムレットの決闘の打診役で「運命の使者」として登場するのが、今回の藤井版の面白いところ。原作ではオズリックという、最新流行の帽子を被った軽薄な伊達男の役どころです。この帽子を取る取らないの会話が、仮面についての会話になっています。これが、とても不気味な雰囲気を醸し出して”運命”のイメージを際立たせます。
そして、運命の決闘は行われ、全ての復習が果たされ、全ての決着がついた時。
白い光に包まれたオフィーリアがあらわれる。
無垢な乙女の優しい祈りによって、亡霊として「ハムレット」の運命を語ったモノ達は、浄められ、安らぎを得る。
黒衣の亡霊達は、白い”光”を纏う”魂”として、生まれ変わり、その思いは歌のなかに昇華される。
「ああ、タカラヅカだなー」と、思いました。
っていうか、「Apasionado(アパショナード)!! II」のラグリマの場面みたいな?
えーと、いつもの藤井ショーのクライマックス?
これってショーアップした「ハムレット」のお芝居だと思ってたけど、「ハムレット」を題材にしたショーだったんだ。
いや、わかってましたけどね。だって、ハムレットとオフィーリア以外、皆さん芝居らしい芝居してないし。
他のキャラクターは全て、ステレオタイプ…というより、記号的な演技。花組のショー「EXCITER!!」の、寸劇の芝居に近い感じ。
何しろ、時間が足りません。そのままやれば4時間近い芝居を二時間ちょいで。約半分、そのうえ沢山のナンバーがあります。タカラヅカですから劇中劇にも結構な時間を取りますし、各キャラの持ち時間は、非常に短い。
心情を語る独白の部分を歌うので、見るほうは感情移入しやすいですが、台詞は場繋ぎになる事が多い印象。物語を進めるうえで必要最低限の台詞のみ。キャラの性格や心情が見える部分など、ほとんどカット。
フォーティンブラスのノルウェー絡みも、国の状況や歴史なんか必要なし。亡霊が語るんだし。それどころか、亡き父が同じハムレットという名の王であった台詞さえ、カット。その一言の時間も惜しいらしい^^;
なので、各キャラクターは衣装も色分けされ、記号化されたキャラ造形で、ひと目でどういう立ち居地のキャラなのか示さなければなりません。
それでも、限界までシェイクスピアの台詞を無理矢理に詰め込み、ものすごいスピード感で物語は進みます。
…乙女の祈りに、救われる為に。
最後に救われる事が前提だから、人間の愚かさや醜さなどを強調する部分はカットしたのでしょうね。そのほうが、大衆は納得感がありますし。
なにしろ、堂々と「復讐という正義」と歌う、明快な物語としての上演なのですから。
時間短縮も兼ねて、キャラクターを記号化しつつ、それぞれの行動の動機となった純粋な気持ちだけを描いて、ラストの”浄化”に向かって、なだれ込んでいく。
それはとても心地よい、タカラヅカ・マジックでした。
皆さんが白い光になって、歌い踊るラストは、宝塚ならではのカタルシスがありました。「良いもの見たな~」と、幸せな気持ちで、主題歌を口ずさみながら帰る、楽しい時間。宝塚ファンとして、藤井版「HAMLET!!」は、大成功だったと思います。
そして、全編に盛り込まれた「エリザベート」のパロディ。これは、もしかしたら「宝塚」の象徴として使われているのでは?とも思いました。
これが、藤井版「宝塚」のハムレットだ!という、メッセージなのかも…なんて、考え過ぎでしょうかね^^;
藤井先生は、パロディが大好きなのは間違いないですよね。「から騒ぎ」でも、エリザのパロディが幾つかあったような。「から騒ぎ」は、「サーカスのよう」な物語、この「HAMLET!!」は、亡霊達が語る「復讐という正義」と、救いの物語…10年前のシェイクスピアシリーズに対応しているのも、今回のこだわりなのでしょうかね。
…主人公の髪の色とか。
ただ、これはしかめつらしい「演劇」の権威を持ったオジサマ方には認められないのでは…と、思ったのですが、どうなんでしょう。
「ハムレット」の、この皮肉な視線。”物語”からはみ出して、自分自身も観客さえも突き放し「このままでいいのか、いけないのか?」と、問いかける客観性が、”演劇”の幅を広げ、多様な舞台芸術を展開していく元になったのではないかと思うので。藤井版のこの明快さは、演劇のオジサマの好みじゃないかもなーなんて、いらない心配をしてしまいました。
ま、でも。400年、多様な解釈で上演されてきたであろう、「ハムレット」ですもの。宝塚の演出家として、藤井先生の表現は正しかったと思います。
宝塚は「乙女達の祈りに浄められ、救われる」場所ですからね。
…ただ一つ、まさお君の髪型と、お化粧は…ちょっと謎でしたが^^;
今の段階では、藤井先生の次回作がどうなるのか発表されていませんが、次はどんな作品を見せて下さるのか、楽しみです♪
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