最近、舞台を見て改めて思ったこと。
役者さんの力の立脚点は、結局は「脚本を読む力」なんだなーと。

脚本に直接書かれている事は勿論、書かれている事柄から推測できる事も。
色々含めて、その人物の心を、どれだけ深く読み取る事ができるかどうか。
読むことが出来なければ、脚本には何も書かれていないも同じ。

まず、正確に読み取ること。
それから読み取った中の、様々な事を深く深く考えて、どれだけ多くを感じ取る事ができるか。

それを元に、表現したいものを組み立てて、体を使って表現していく。
顔、声、体の全て。
表情、台詞、立ち居振る舞い。
適当なものを選び取り、適切な間合いで。

でも、その表現の源は、演じる人の心だから。
一番大切なのはやっぱり、目、です。
「目は心の窓」だから、ね。
瞳の奥に、どれ程の豊かな感情を見せることができるか。
だって顔は笑顔爆発でも、目が笑ってない人って、信じられないじゃないですか。
だから、私が芝居を見る場合、目、ばかり見ています。


「カサブランカ」について、色々な事を考えつつ見ていましたが。
対訳についてなど、私ごときが考える事など、多分、オオゾラさんは大劇場のお稽古の時には考えていただろうなーと思う事が多いです。
見れば見る程、深く考えられて作られたお芝居だという事がわかる。
一つ一つの台詞、動き、様々な状況や心の動きを、深く考察したうえでの表現がある。
オオゾラさん「脚本に書いてある事を、ただ、演じているだけ」というような事を言われた事がありますが。その時、書いてある事をそこまで読でいるのが、あなたの力なんですよ…と思ったんですよね。

舞台を見て、色々思う事はあるけれど、考えるほど自分の思慮の浅い事に気付かされます。
「これは、こういう意味もあるのでは?」と思うような事があっても、それも配慮のうえだろうと納得する事が、今までの作品でも沢山ありました。
色々な解釈が有り得るけれども、行間の豊かさのようなものが、オオゾラさんのお芝居にはあるのかも。
だから、見る者が色々想像する事ができる。
いくらでも考えられるように、どんな感じ方をしても許容できるように、組み立ててある部分がある。
意識的に曖昧な、どうとでも受け取れるように、器械の”遊び”のような、緩やかな部分がある感じ。
だから、オオゾラファンは、色々な事を考えさせられながら、オオゾラさんの芝居から目が話せないのかなー。
ま、頭の悪い、私だけかもしれませんが(^^ゞ

でも、トップさんになられて、今回の「カサブランカ」はかなり明確な芝居の割合が増えた気がしていたのです。
…大劇場の時は。けれど、東京に来てから、明快な表現は、そのままに、更に複雑に、味わい深くなって。
芝居が深まるにつれて、また簡単に読めない部分が増えてきたような…。

気が付けば、今回、友人達とお芝居について語り合う事が少なかったのです。楽の日の帰りに、そういえば…、何にも話してないかも?と。
なんやかやと慌しくて、当座の事や、おバカな事ばかり話していて。
他の生徒さん達の見所も多過ぎで、誰が何をしていた情報を交換しあうだけでも、十分過ぎるネタがありまして。
でも、敬愛する友人達の、深い話を聞いていたら、もっと私も考えられたかもしれないなー、などと思いつつ。
とりあえず、誰とも話せなかった作品感想を、つらつらと書いたりしています。
まだまだ、いったいどのくらい書けるのか。道のりは遠い、かも^^;

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