わかってる~カサブランカ その7~
2010年2月14日 宙組対訳版「カサブランカ」のシナリオを読んでいて、ふと気付いたこと。
この英語版の脚本には、何度も繰り返される言葉があること。
「わかってる」という台詞です。
一番印象的なのは、銀橋でのイルザとラズロの会話にあたる、ホテルでの会話。
この場面の会話は、映画版と今回の舞台化では少し変えてあります。
”翻訳”の範囲内かもしれませんが、その翻り具合がちょっと大きくて、会話の意味が違う…と思います。
「私が強制収容所にいたとき、君は寂しかったかい?」
「ええ、ヴィクター、寂しかった」
「寂しいという事がどういう事かわかるよ。何か、私に言う事があるかい?」
「いいえ、ヴィクター。ないわ。」
「とても愛しているよ」
「ええ、わかっている、ヴィクター。私が何をしても、お願い信じて、私が……」
というイルザの台詞をさえぎって、ラズロは
「言わなくてもいい。信じているよ」と告げ、部屋を出ていく場面になります。
映画版ではこの場面で、ラズロはイルザに「私が何をしたとしても」に続く「愛している」という台詞を言わせないのです。
いえ、むしろラズロが言わせなかった台詞を、小池先生が「あなたを愛している事にかわりはないわ」と、創作したという事になります。
この追加は、イルザの言動に主体性を持たせる意味でのものでしょうか。
それとも単に、可哀想なラズロさんに、イルザの口から「愛している」という言葉を言わせてあげたかったのかもしれません。
私個人としては、二人の会話としては、イルザの言葉をさえぎるラズロのほうが素敵なんじゃないかなーと、思いますが^^;
さて、その会話で私の印象に残ったのが「わかってる」という言葉なのです。
最後の「信じているよ」まで含めると、この会話は、お互いの言葉に対してそれぞれ「わかってる」と答える会話になります。
小池版では、ヴィクターの「愛してるよ」という台詞に返す、イルザの言葉は「私もよ」です。
そういわれれば、日本人的には「私も」と答えるほうが感覚的に納得するのかもしれませんが、やはり意味合が違っているのは気になります。
イルザは彼がどれほど自分を愛しているか、必要としているか、よく分かっているから身動きがとれないのですし。
アメリカ映画では、この「愛してる」「わかってる」という会話って、よくありますよね。たしか「WEST SIDE STORY」でも、そんなやり取りがあったと思います。
まだ少女だった頃、何の映画だったかは覚えていませんが、「わかってる」と答えるヒロインが、ちょっと上から目線のような気がしました。やっぱり、アメリカの女性は感覚が違うなーと、思った事を覚えています。
しかし、年をとって色々な想いを経験してみると、この会話の意味がわかってきたのです。
恋人に限らず、自分が好意をもって接している人に、それが伝わってなかったら、悲しい。特に相手の為に色々と心を砕いたりする人ならば、それをわかって貰えなかったとしたら、すごく悲しい。
だから、好きな人に「わかってるよ」と、言葉にして貰えたらすごく嬉しい事なんだな~、と。
更に、宝塚ファンになってから、贔屓の生徒さんができたりすると。私は公演を見て拍手をする事しかできないけれど、それでも、ファンの心を「わかってる」という言葉をメディア等で言っていただけると本当に嬉しいんですよね。それで私は、日本人の会話でも「愛してる」という言葉には、まず「わかってる」と返す言葉は必要なのではないかと思ようになってきました(^^)
そうしたら、いつかイルザもラズロに「わかってる」と、答えてあげられるかも。
ラズロさんの「言わなくていい」の言葉も、会話の順番が違うと意味が全然違いますよね。
映画ではウヤムヤにされたイルザのラズロへの愛の言葉を言い切るかわりに、彼女がラズロへ向ける愛が、より一層彼の「英雄」的な人間性そのものへの愛情だと、強調された気がします。すみ花ちゃんは「ラズロへの愛は理性的なもの」と言われてましたが、むしろ、一人の男性に対する愛じゃない…という感じ^^;
そしてこの後、リックに会ったイルザは、ぎりぎりの心を告白します。
「あなたがパリを離れたあの日、私がどんな思いでいたかわかってくれたら。
あなたをどんなに愛していたか、今もどんなに愛しているか、わかってくれたら」
ここで、イルザは今度はリックに「自分の愛をわかって欲しい」…と、訴えるのです。
そして、リックはそんなイルザを抱きしめてキスをします。
小池版では、ここの台詞は「あなたを愛していた、そしても今でも…」と、強く言い切ってしまうように変更されています。
やはり、現代の女性にあわせて、でしょうか?イルザは、本当に強い女性に姿を変えているのです。
でも、自分の意思で強く行動するイルザだからこそ、葛藤はより深く、ずっと辛い気がします。
公演も終盤になった頃、ここでイルザを抱きしめるリックの背中が、イルザに「わかってる」と言ってあげているような気がした事がありました。
二人の男性への違う形での愛に、心を引き裂かれるようなイルザの苦しみを。
それでも、どうしても捨てきれない、リックへの想いを。
「わかってる」と、包みこむような背中。
その時、初めて、イルザの元の台詞が「今もどんなに愛しているか、わかってくれたら」だという事を思い出して。
この映画の、ラズロ、イルザ、リックの会話が「愛してる」「わかってる」という掛け合いになっている事に気付いたのでした。
そういえば、最初にイルザが一人で深夜のリックのカフェに来た時の会話でも、イルザの「あなたの気持ちはわかるけど…」という、安易な台詞にリックはキレ始めるのですよね。映画では、「俺の気持ちがわかるって?」と、まずカラミ始めてから「俺たちが何日一緒に過ごしたか、知ってるか?」となります。
この物語は、リックとイルザの二人が、運命によって壊されてしまった愛を、お互いの心を、それぞれに「わかって」いく物語なんだなーと。
言葉にしてしまえば、当たり前の事なんですが(^^ゞ
さて、今日はバレンタインデー。
私にとっては、自分で沢山味見をして、吟味したチョコを自分で食べる日、なんですが(^^)
せっかくなので、この物語における「愛」について、ちょっと語ってみたりしました。
※文中での映画版の台詞については、すべて「アルク英語企画開発部・編 アルク・シネマ・シナリオシリーズ 鈴木美幸訳」を参考にしております。
この英語版の脚本には、何度も繰り返される言葉があること。
「わかってる」という台詞です。
一番印象的なのは、銀橋でのイルザとラズロの会話にあたる、ホテルでの会話。
この場面の会話は、映画版と今回の舞台化では少し変えてあります。
”翻訳”の範囲内かもしれませんが、その翻り具合がちょっと大きくて、会話の意味が違う…と思います。
「私が強制収容所にいたとき、君は寂しかったかい?」
「ええ、ヴィクター、寂しかった」
「寂しいという事がどういう事かわかるよ。何か、私に言う事があるかい?」
「いいえ、ヴィクター。ないわ。」
「とても愛しているよ」
「ええ、わかっている、ヴィクター。私が何をしても、お願い信じて、私が……」
というイルザの台詞をさえぎって、ラズロは
「言わなくてもいい。信じているよ」と告げ、部屋を出ていく場面になります。
映画版ではこの場面で、ラズロはイルザに「私が何をしたとしても」に続く「愛している」という台詞を言わせないのです。
いえ、むしろラズロが言わせなかった台詞を、小池先生が「あなたを愛している事にかわりはないわ」と、創作したという事になります。
この追加は、イルザの言動に主体性を持たせる意味でのものでしょうか。
それとも単に、可哀想なラズロさんに、イルザの口から「愛している」という言葉を言わせてあげたかったのかもしれません。
私個人としては、二人の会話としては、イルザの言葉をさえぎるラズロのほうが素敵なんじゃないかなーと、思いますが^^;
さて、その会話で私の印象に残ったのが「わかってる」という言葉なのです。
最後の「信じているよ」まで含めると、この会話は、お互いの言葉に対してそれぞれ「わかってる」と答える会話になります。
小池版では、ヴィクターの「愛してるよ」という台詞に返す、イルザの言葉は「私もよ」です。
そういわれれば、日本人的には「私も」と答えるほうが感覚的に納得するのかもしれませんが、やはり意味合が違っているのは気になります。
イルザは彼がどれほど自分を愛しているか、必要としているか、よく分かっているから身動きがとれないのですし。
アメリカ映画では、この「愛してる」「わかってる」という会話って、よくありますよね。たしか「WEST SIDE STORY」でも、そんなやり取りがあったと思います。
まだ少女だった頃、何の映画だったかは覚えていませんが、「わかってる」と答えるヒロインが、ちょっと上から目線のような気がしました。やっぱり、アメリカの女性は感覚が違うなーと、思った事を覚えています。
しかし、年をとって色々な想いを経験してみると、この会話の意味がわかってきたのです。
恋人に限らず、自分が好意をもって接している人に、それが伝わってなかったら、悲しい。特に相手の為に色々と心を砕いたりする人ならば、それをわかって貰えなかったとしたら、すごく悲しい。
だから、好きな人に「わかってるよ」と、言葉にして貰えたらすごく嬉しい事なんだな~、と。
更に、宝塚ファンになってから、贔屓の生徒さんができたりすると。私は公演を見て拍手をする事しかできないけれど、それでも、ファンの心を「わかってる」という言葉をメディア等で言っていただけると本当に嬉しいんですよね。それで私は、日本人の会話でも「愛してる」という言葉には、まず「わかってる」と返す言葉は必要なのではないかと思ようになってきました(^^)
そうしたら、いつかイルザもラズロに「わかってる」と、答えてあげられるかも。
ラズロさんの「言わなくていい」の言葉も、会話の順番が違うと意味が全然違いますよね。
映画ではウヤムヤにされたイルザのラズロへの愛の言葉を言い切るかわりに、彼女がラズロへ向ける愛が、より一層彼の「英雄」的な人間性そのものへの愛情だと、強調された気がします。すみ花ちゃんは「ラズロへの愛は理性的なもの」と言われてましたが、むしろ、一人の男性に対する愛じゃない…という感じ^^;
そしてこの後、リックに会ったイルザは、ぎりぎりの心を告白します。
「あなたがパリを離れたあの日、私がどんな思いでいたかわかってくれたら。
あなたをどんなに愛していたか、今もどんなに愛しているか、わかってくれたら」
ここで、イルザは今度はリックに「自分の愛をわかって欲しい」…と、訴えるのです。
そして、リックはそんなイルザを抱きしめてキスをします。
小池版では、ここの台詞は「あなたを愛していた、そしても今でも…」と、強く言い切ってしまうように変更されています。
やはり、現代の女性にあわせて、でしょうか?イルザは、本当に強い女性に姿を変えているのです。
でも、自分の意思で強く行動するイルザだからこそ、葛藤はより深く、ずっと辛い気がします。
公演も終盤になった頃、ここでイルザを抱きしめるリックの背中が、イルザに「わかってる」と言ってあげているような気がした事がありました。
二人の男性への違う形での愛に、心を引き裂かれるようなイルザの苦しみを。
それでも、どうしても捨てきれない、リックへの想いを。
「わかってる」と、包みこむような背中。
その時、初めて、イルザの元の台詞が「今もどんなに愛しているか、わかってくれたら」だという事を思い出して。
この映画の、ラズロ、イルザ、リックの会話が「愛してる」「わかってる」という掛け合いになっている事に気付いたのでした。
そういえば、最初にイルザが一人で深夜のリックのカフェに来た時の会話でも、イルザの「あなたの気持ちはわかるけど…」という、安易な台詞にリックはキレ始めるのですよね。映画では、「俺の気持ちがわかるって?」と、まずカラミ始めてから「俺たちが何日一緒に過ごしたか、知ってるか?」となります。
この物語は、リックとイルザの二人が、運命によって壊されてしまった愛を、お互いの心を、それぞれに「わかって」いく物語なんだなーと。
言葉にしてしまえば、当たり前の事なんですが(^^ゞ
さて、今日はバレンタインデー。
私にとっては、自分で沢山味見をして、吟味したチョコを自分で食べる日、なんですが(^^)
せっかくなので、この物語における「愛」について、ちょっと語ってみたりしました。
※文中での映画版の台詞については、すべて「アルク英語企画開発部・編 アルク・シネマ・シナリオシリーズ 鈴木美幸訳」を参考にしております。
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