月組大劇場公演、初日、おめでとうございます。
…本当は、来て欲しくなかったこの日が、とうとう現実のものとなってしまいました。いや、初日、というか公演が始まるのはいいんですけどね。
今回の退団者は、本当にツライので…。毎回、集合日のたびに失ってきていたライフを、どおーーーーんと持っていかれる気分。
みなさん、それぞれの人生の中で選んだ道なのは分かっていますが、それでもツライです。でも私には、祈る事しかできないから。
どうか、退団者の皆さんはじめ月組の皆さんが、元気で楽しく、充実した公演を過ごされますよう。心より祈っております。


さて、そろそろ忘れてしまう前に、少しでも書いておかなければ、という事で。
「大江山花伝」について。
原作が大好きで、初演を見ていない私。再演の希望の高い名作、という評判を色々と聞いて、楽しみに見に行った初日。
見終わった時の第一印象は「随分マイルドにした舞台化だなぁ」という、驚きでした。
そして後に、「歌劇」での、原作者の木原敏江先生の「今回はとっても瑞々しい茨木童子でした」というコメントに、すごく納得。
瑞々しい茨木童子…さすが、素敵な表現ですね(^^)
わざわざ「今回は」とおっしゃられたという事は、初演の茨木様は、また違ったイメージだったのでしょうか?

原作ファンの私にとっては、今回の「瑞々しい」茨木様は、最初はちょっと意外な役作りだと思いました。他の脚色も含めて、こういう舞台化になるんだ…と、場面が進むたびに驚いておりまして。初日はびっくりのまま、幕が降りた感じ。
幕間にロビーを埋め尽くす人々に、盛大に泣かれた後のような方が沢山いらして「あ、泣く話だったんだよなぁ」と気付きました。

原作のイメージが強すぎたばかりでなく、私にとって、原作の茨木童子のイメージがオオゾラさんにぴったりだったから、なのだろうなーと思います。
オオゾラさんなら、茨木をどう演じるかを色々と想像して初日を待っていたのですが、その想像は原作の茨木をもとにしたもので。
20数年前の脚色がこういうものだと、よくわかってなかったのです。
原作にはあまりにもキャラクターが少ないですし、話も短いので変更があるのはわかっているのです。当時の宝塚であれば、親を殺すなんて無理で、色々なマイルド化は当然の事でしょう。役を増やす為に鬼の里の暮らしを大きく膨らませたこの舞台化では、鬼達が人間に征伐されずに逃げていくのも納得できるものです。
都を襲っている場面も「悪」として描かれないし、わざわざ貴族の屋敷から攫ってきた姫君達は下働き…なんて効率の悪い^^;
鬼達は単にツノがあるだけの、気のいい村人達でしかないのですね。
茨木が忌み嫌う「鬼」は、自らの心の闇としてだけの問題であるのだから、気のいい鬼の仲間たちは無事に逃げ延びて欲しい…と、見ている観客は思います。

一番の変化は「鬼」としての茨木童子。
原作の茨木・酒天童子を筆頭とした鬼達の存在は、罪無き都の人々に害をなす「悪」ですし、攫われた姫君達は下働きだけの為ではありません。
盗む、犯す、殺すという人でなしの鬼達。ひらたくいうと、都の治安を脅かす凶悪な強盗団…といったものでしょうか。
過去の罪により「鬼」となる事を選んだ茨木は、裏切りの記憶に自ら塩を塗りこむように、酒天童子や鬼達と共に悪事を重ね、この世の終わりを待っている。
綱との出会いをキッカケとして、その「終わりの時」が来るのが、この物語の始まりです。茨木は、綱の手配で頼光の軍が攻め入るのを知っていても、黙って見すごします。
…そして。
「あとからわたしも まいりますゆえ」
「せめて鬼族の王たるあなたの首は 人手にはかけさせませぬゆえ」
と、みずからの手で酒天童子を討ち、自分に尽してくれた仲間の鬼丸も斬る。深く激しい愛と憎しみの果て、親を殺し一族を滅ぼす。
実は、やっぱり今のオオゾラさんで、この茨木を見たかったなぁ…という思い、今でもあります。研ぎ澄まされた、凄烈な、鬼を。

原作の茨木の何が違うって、何があっても、決して、自分の裏切りの罪の記憶を封じたりはしそうにない事。
「茨木は、そんなヤワじゃないだろ!」というのが、実は初日に思ったことで^^;
彼は自分の犯した裏切りの罪を身体に刻みつける為、ひとでなしの記憶を毎日泉に映している。そうする事で、萱野とこぞ丸と過ごした、暖かい血の通う人間だった過去を葬り続けているのです。
その裏切りの罪故に、愛するふじこにはもう二度と逢えない事を、何度も確認している人…というのが、続編「鬼の泉」で書かれた茨木でした。

この宝塚版の茨木は、裏切りの罪の重さに耐えられず、記憶を封じて、罪の意識の残り香を頭痛として抱えている…ヤワな人。
オオゾラさんは、この「ヤワ」な部分を、かなり強調して演じいて。
それが「瑞々しい茨木」に繋がっていたのかな、と思います。
私にとって最初はすごく違和感があったんですが、慣れればそれはまた魅力的な「宝塚らしい大江山花伝」でした。

茨木が三年前の旅の記憶を失っているのは、多分、回想場面へのキッカケとして、忘れていた記憶を思い出して語るほうが自然だったから…という単純な理由じゃないかと思うのですが^^;
ちょうど、過去の萱野・六郎太と現在の花園と金時を重ねることで若手スターの役を膨らませる事もできて、一石二鳥ですし。
しかし、理由は単純でも、人物の根幹をなす大切なところ。
それをきちんと役作りの基本にしたオオゾラさんのセンスが、やはり好きだなぁと思ったのでした。

「瑞々しい」という言葉には、「若い・新鮮」という意味があるのですが。
三年前の記憶を失った為に、ずっと「鬼」と「人」の自分の間で悩み続ける茨木に、原作よりもずっと若い印象を持ちました。
今のオオゾラさん、もはや役の年齢設定、自由自在ですよね^^;
さて、その若さについては、長くなるので、また。

コメント

nophoto
hanihani
2009年10月13日15:07

確かに木原先生は上手く感想を話したなぁという感じを私も受けました。

初演の平みちさんはあまり芝居上手でなかったので、
なんというのか、お父さん役の同期のはっぱさん、そして
渡辺綱のかりんちょさん、藤子の神奈美帆さんがどなたも素晴らしくて
ものすごく芝居を深く掘り下げてくれたので、
その周囲の受けの芝居をみて、「ああ、茨木はこう考えてるのか」とか
「苦しみの理由はそういう訳だったのか」と私達は妄想したに近い観劇だったような気がします。(笑)
だから重々しいともいえないし、硬いというか一本調子っていうか
ファンの方に叱られちゃいますね、とにかく茨木の「心の動き」というのには
余り重きを置かれてない演出になってました。

それよりも深く心に残ったのは新公のほうでした。
新公のかりんちょさんの茨木、いちろさんの綱、古代みず希さんの酒天童子が
素晴らしくて歌も良くて色々納得した新公でした。ふふ

今回は何よりも茨木として生きてるゆうひさんが、その解釈が深いことに
ああ、さすがに上級生!と思い、またふじこに対する想いとかあれこれの
心の動きの柔軟さに若さを感じて、色々な面で感心したり楽しめた公演でしたね。
行ってよかったです。(今、貧乏してますが)

いつか
2009年10月14日0:31

hanihaniさま
コメントありがとうございます。
私、初演について聞いた事があるのは、かりんちょさんと神奈美帆さんについてだけだったんです。平みちさんの茨木がどうだったのか、まったく情報が無くて^^;
ただ、良い作品で涙無くしては見られない、という事のみで。
そういう事なんですか~。
平さんのお芝居について、普段はあまり…という方も、あの作品だけは良かったとは聞いたのですが、具体的にどういう演技だったのかは、不明でした。
初演ファンの方の感想をいただけて、嬉しいです。なるほど。
それにしても、新公はかりんちょさんが主演なさったのですか!
それはさぞかし…って、まだ新公学年でいらしたんですね。すごいですね~。
そして、その新公の主要三役…ああ、確かに素晴らしいでしょう。今更ですが、私も見たいです。
でも、オオゾラさんの茨木も納得していただけたとの事、ファン的にホッとしました。20年以上たっていても、やはり再演ものは、初演ファンの方に認められると嬉しいです(^^)