青年館公演「銀ちゃんの恋」。
初日は見る事ができませんでしたが、昨日、今日と見てきました。
いやー、良くなりましたね。皆さん、本当に良くなって、嬉しいです。
出演者の皆さん一人一人が、のびのびと楽しそうに、そしてパワフルに演じていて。
青年館ではドラマシティよりも客席の空間が広くなりましたが、その分、いえもっと、皆さんのパワーが増した気がします。
舞台の隅から隅まで、大熱演です。そして、客席の拍手も熱いです。笑い声も大きいです。なんだか、ものすごい興奮状態の渦の中にいる気がしています。

それも、やっぱりオオゾラさんのテンションに圧倒されるからでしょうね。
声は更に出なくなってきたようですが、それを吹き飛ばすかのようなパワーを感じます。緊張感もありますが^^;
小夏のすみ花ちゃんは、ますます情が深くなって、いじらしいです。
そして、みつる君のヤスが、本当に本当に、良くなってます。
東京に来てから、なのかな?ヤスにグッと陰影がついてきたというか。
ドラマシティで私が見た時には感じなかった、屈折感や劣等感、そして何よりも銀ちゃんに対する執着心というか、歪んだ愛情のような色が出てきて。
「これよ、これ、私が見たかったのはこれなのよ」…という気分でございます。
やっぱり、この作品は銀ちゃんとヤスの二人の関係をどう描くか…ですものね。


以前にも書きましたが、私はこの作品は主役が銀ちゃんで、主人公がヤス、というダブル主演作品だと思っています。
「The Great Gatsby」が、主人公ニックの視線で描いたギャツビーの物語であるように、これはヤスの視線で描いた銀ちゃんの物語。
少なくともこの宝塚版「銀ちゃんの恋」は、主役であり、タイトルロールである銀ちゃんを描く物語です。この破天荒な「映画スタァ」銀ちゃんの生きる世界が、作品世界そのもの。

でもギャツビーと違うのは、二幕ではヤスと小夏が話の中心となる事ですね。
銀ちゃんは二人を照らし出す光となり、遠い存在となって、自身で心情を語る事はなくなります。
結婚式の幻想や出会いの場面など、ヤスの心が抱く銀ちゃんが描かれる事になり、現実の銀ちゃんはヤスから遠ざかっていく。
置いていかれたヤスは、必死に銀ちゃんを求めて。なんとか振り向いて欲しくて、追い詰められていく。
階段で、銀ちゃんに煙草の火をつけて貰う瞬間の、なんとも切ない事…。
青年館に来て、この場面の二人がグッと良くなったな〜と思います。

そしてクライマックスとなる、階段落ちの場面。
階段を這い上がろうとするヤスに、銀ちゃんは手を差し伸べます。
「上がって来い、ヤス!」
主人公ヤスの求める、光が、世界が、手を差し伸べる。
その、何とも言えないカタルシス!
「…銀ちゃん、かっこいい…」
観客は、ヤスに共感して、そのセリフに頷くのです。
土方コスが似合い過ぎの銀ちゃんが、手を伸ばしてくれるのが嬉しくて。


「上がって来い」というのは、階段そのものの事ではなくて。
多分、精神的な場所、なんですね。
二人が、対等の位置に立ち、並んで歩くという事。
10年間、ヤスは自分の意志を消して銀ちゃんの意志に従っていた。それは、ヤスが銀ちゃんの一部となろうとしていたようなもの。
確かにそれで二人は互いに理解しあっていた…事に、限りなく近かったのかもしれない。二人はべっとりとくっついて、不自然な状態なりに、幸せだった。
怒鳴られ、殴られても、ヤスは銀ちゃんの事以外何も考えず、自分の人生に不安を感じる事なく、すべてを銀ちゃんに委ねて生きてきた。

小夏の出産費用の為に自分で仕事を取るようになったヤスは、やがて自分の世界を持ち、自分の意志で生きていく存在となる。
ヤスは銀ちゃんの為にしているつもりでも、現実に二人の距離は離れてしまって。
今まで「良い映画を作る」ヤスの夢は、銀ちゃんが実現してくれるものだったのだけれど、ヤス自身が少しでも力を尽くす事ができるようになる。
たとえ、ちゃんとした役じゃなくても、顔が写らなくても、ヤスなりの「哀愁」で映画作りに参加して、お金もプラスして貰える。

でも、銀ちゃんは、もはや自分の一部でなくなったヤスを、以前と同じには扱えない。
もう銀ちゃんの望み=ヤスの望みではないから。
二人それぞれに違う不安と孤独を抱える、別の人生を歩きだしている。
でも、ヤスはその事に気付きたくなくて、まるで置いていかれた子犬のようにしょんぼりして…。
なんとか銀ちゃんの元に戻ろうとするヤスが、切ないですね~。
だってやっぱり二人は、互いに必要で。なお、傍にいたいから。
だから、ヤスが階段を上がらなければならない。

この花組版「銀ちゃんの恋」は、そんな銀ちゃんとヤスの物語なのかなーと、私の中で繋がったのでした。
…これからこの作品がどこまでいくのか。
楽しみに見守りたいと思います。

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