花組公演「銀ちゃんの恋」、初日おめでとうございます
2008年10月20日 花組明日、いえ、もう今日ですが、いよいよ、花組青年館「銀ちゃんの恋」始まりますね。
ちょっと早いですが、初日、おめでとうございます。
私は多分、初日は見る事ができないのですが、成功をお祈りしております。
とはいえ、4.5日と、11〜13日でドラマシティ公演を観劇してきまして。
今までの感想を、まとめておきたいと思います。
今回は青年館の為のお稽古期間がありませんので、あまり変化はないかもしれませんが、どうなりますか?
非常に楽しみです(^^)
私は、初演は発売されたビデオを見たのみ。
まだ宝塚初心者でチケットの取り方もわからなかったし、簡単に見に行ける環境でもなかったのです。
当時の月組作品は、ビデオで見るばかりで、皆かなりの回数を見ていますが、この作品だけは二回か三回しか見ていません。
痛くて苦しくて、見る事が出来なくて。
だいぶしてから、テレビ放送された映画版を見ました。他の舞台は見ていません。
そのまま、10年以上がたってしまいました。
今回の再演・花組版の「銀ちゃんの恋」の印象を一言でいうならば。
「洗練されてクリアな、甘口。雑味のないスッキリとしたドライな味わい」というのが、私のイメージでした。
どうも、お酒のコピーのツギハギみたいですけど^^;
「初演とは、ずいぶんイメージが違う」「初演より、ずっと宝塚作品っぽい」
色々な方の感想などを読ませていただいても、作品に対する感想はこういうご意見が多かった気がします。
そしてヤスと小夏の二人の場面が、すごく切なくて、泣ける。
…まず、よく聞くのはこんなところでしょうか?
大空さんの「銀ちゃん」は、実に、意外なハマり役でした。
数々の「恐ろしい」お衣装をかっこよく着こなす…という不思議な技で、今の日本には存在しない「映画スタァ」を表現しています。
笑ったり泣いたり怒ったりと表情豊かな、陽気でパァっとしたスタァ・倉岡銀四郎は、今までのオオゾラさんのイメージを覆す、大胆な演技です。
ヒロイン小夏の野々すみ花ちゃんは、初演の風花舞さんと同じく、映画版の松坂慶子さんのコピーでした…初日の頃は。多分、初演と同じ演出指示によるものでしょう。しかし、後半はどんどんすみ花ちゃんの話し方になり、すみ花ちゃんの感情での芝居になった、という印象を受けました。
ヤスのみつる君(華形 ひかる)は、純粋で真っ直ぐに銀ちゃんを慕い、映画に命を懸け、小夏を愛する一途な若者。
銀ちゃんにどんなに殴られても、その憧れの念に、濁りも曇りも無い。
どんなに酷い事を言われても、悔しさや劣等感など抱く事もなく、ただ真っ直ぐにひたすらに銀ちゃんを愛している。
だから、彼の小夏に対する思いも葛藤も切なくて、美しい。
観客は素直にヤスに同情し、切ない想いを共有して、涙を流す事ができます。
「つか こうへい」作品なのに。
ジメジメと鬱屈した感情も、人間の醜さも、現実のむごさも、あまり感じない。
…痛くて痛くて、ビデオですら見るのが辛かった初演とは違って、切ない涙を流しながら、何度でも見たくなってしまいました。
さすがに、一日に二回見たら、ぐったり疲れてしまうのですが…それでも、また見たいと思いました。
役者が変われば、作品は変わるものですね。
それぞれの個性に合わせて場面の差し替えはありますが、メインの三人のドラマは、基本的に初演と変わらない筈なのですが。
今回の花組版は、やはり「宝塚的」というのが、一番しっくりするように感じます。
私が一番感じたのは、今回の再演は、銀ちゃんとヤスの関係における「暴力」の扱いが違うんじゃないかなー、という事でした。
私にとって、初演で一番痛くて見るのが辛かったのが、ヤスが暴力をふるう場面だったからです。
小夏に対しても、撮影所でも。
今まで虐げられていたヤスが、銀ちゃんに成り変わるように暴力に転じるのが、恐くて…。その恐ろしさが、痛みとして感じられたと思うのです。
でも、今回はその恐ろしさを感じなかった。
ヤスが「虐げられた存在」ではなかったからです。
ミツル君のヤスは、殴られて、肉体的な痛さを表現しても、精神的な痛みはあまり感じません。
大空銀ちゃんは、殴る姿までも、ひたすらカッコ良いばかり。
銀ちゃんもヤスも、暴力にしか縋れない心の歪みの得体の知れなさに、観客を恐怖させる事が無いと思うのです。
それに、殴られる側の悔しさ、肉体を征服される屈辱、理不尽な扱いを受ける事に反抗できない劣等感…。
初演では宝塚において可能な限り、「暴力」を振るう者・受ける者の、複雑に入り組んだ加虐心と被虐心の感情を、痛みとして描いてみせた。
今回、その部分をスパっと無くした事は、意図的なものかなーと思います。
この変化によって、石田先生が各所で語るテーマ「依存と束縛の関係性」が、クリアにストレートに見えるようになった…と、私は思ったからです。
銀ちゃんとヤスの二人において「暴力」の複雑な心情が消えた事で、ただの一方的で過剰なコミュニケーションの表現となった事が作品の根幹を変えたのではないかと思うのです。
「どうして殴ってくれないんですか?」というセリフは、だから、二人の関係が変わった事をストレートに表現するセリフとなりました。
銀ちゃんとヤスや小夏の間にある、生ぬるくて甘美な、相互依存の関係。
「ヤスだと、俺が安心するんだよ」
「ばーか、お前が俺の事、一番良く知ってからじゃないか」
一見突っ張った、その実は甘いセリフで、銀ちゃんは二人を縛り付けようとします。
今回の再演で気づいたのですが、ヤスと小夏はお互いにちゃんと紹介されてないんですね。
ヤスとは10年、小夏とも5年くらい?結構、長い付き合いなのに。
どうやら、生活と撮影所の密着した生活のようなこの人々。しょっちゅう一緒に行動して、私生活の関わりもあるらしいのに、小夏と一緒に住んでる事を何年も話してないなんて不自然じゃない?と、疑問に思ったのです。
朋子の事は見せているのに?
まあ、これが依存の一つの形なんだろうなーと思いますね。
心の奥にあるものを見せられるのはお前だけ…と思わせて、最大限に甘える為に、二人を会わせなかったのではないかと。
ヤスと小夏も、自分こそが銀ちゃんにとって、唯一の存在だと思う事が依存の形だったのでしょう。
「あのとんでもない人には、自分が傍にいてあげないと駄目なんだ」と。
恋人の小夏と、子分のヤス、それぞれに違う形で必要とした銀ちゃんは、二人の存在をそれぞれ見せない事で縛り付けていた。
けれど、小夏の子供の存在が起爆剤となり、三人の関係は壊れていきます。
三人の関係がストレートに見える事で、また、恋愛の三角関係もすっきりとクリアに見えるようになりました。
ヤスが暴力に対する複雑性を失った事で、銀ちゃんに対する憧れの念がより美しく見えるようになります。その為に辛い痛みは消えて、恋愛の切なさのみが真っ直ぐに表現されるようになったと思うのです。
そして「蒲田行進曲」は、「銀ちゃんの恋」というタイトルどおり、より三角関係の恋愛物語として、宝塚らしい作品となった。
つか作品らしい、じめっとした湿度の高い、鬱屈とした感情は無いけれど。
甘美な依存の関係が壊れ、自立した人間同士の関係として再生していく様は、ある意味でつか作品の本質の一部分を綺麗に見せる作品となったとも思えます。
というわけで、冒頭に書いた印象になるのです。
洗練された大空銀ちゃんによる、クリアな甘口の「蒲田行進曲」。スッキリと雑味のない、ドライなつか作品、です。
とはいえ、ドラマシティで私が見た限りでも、大きく芝居は変化していった部分がありました。
青年館では、この関係性も変わっていくのか、それともこのままスケールアップしていくのか。
興味津津で、観劇の日を待ちたいと思います。
皆様、どうぞお体にお気をつけて、この素敵な作品を楽しんでいただきたいですね。
「銀ちゃんの恋」チーム、頑張って下さいね〜(^^)/~~
ちょっと早いですが、初日、おめでとうございます。
私は多分、初日は見る事ができないのですが、成功をお祈りしております。
とはいえ、4.5日と、11〜13日でドラマシティ公演を観劇してきまして。
今までの感想を、まとめておきたいと思います。
今回は青年館の為のお稽古期間がありませんので、あまり変化はないかもしれませんが、どうなりますか?
非常に楽しみです(^^)
私は、初演は発売されたビデオを見たのみ。
まだ宝塚初心者でチケットの取り方もわからなかったし、簡単に見に行ける環境でもなかったのです。
当時の月組作品は、ビデオで見るばかりで、皆かなりの回数を見ていますが、この作品だけは二回か三回しか見ていません。
痛くて苦しくて、見る事が出来なくて。
だいぶしてから、テレビ放送された映画版を見ました。他の舞台は見ていません。
そのまま、10年以上がたってしまいました。
今回の再演・花組版の「銀ちゃんの恋」の印象を一言でいうならば。
「洗練されてクリアな、甘口。雑味のないスッキリとしたドライな味わい」というのが、私のイメージでした。
どうも、お酒のコピーのツギハギみたいですけど^^;
「初演とは、ずいぶんイメージが違う」「初演より、ずっと宝塚作品っぽい」
色々な方の感想などを読ませていただいても、作品に対する感想はこういうご意見が多かった気がします。
そしてヤスと小夏の二人の場面が、すごく切なくて、泣ける。
…まず、よく聞くのはこんなところでしょうか?
大空さんの「銀ちゃん」は、実に、意外なハマり役でした。
数々の「恐ろしい」お衣装をかっこよく着こなす…という不思議な技で、今の日本には存在しない「映画スタァ」を表現しています。
笑ったり泣いたり怒ったりと表情豊かな、陽気でパァっとしたスタァ・倉岡銀四郎は、今までのオオゾラさんのイメージを覆す、大胆な演技です。
ヒロイン小夏の野々すみ花ちゃんは、初演の風花舞さんと同じく、映画版の松坂慶子さんのコピーでした…初日の頃は。多分、初演と同じ演出指示によるものでしょう。しかし、後半はどんどんすみ花ちゃんの話し方になり、すみ花ちゃんの感情での芝居になった、という印象を受けました。
ヤスのみつる君(華形 ひかる)は、純粋で真っ直ぐに銀ちゃんを慕い、映画に命を懸け、小夏を愛する一途な若者。
銀ちゃんにどんなに殴られても、その憧れの念に、濁りも曇りも無い。
どんなに酷い事を言われても、悔しさや劣等感など抱く事もなく、ただ真っ直ぐにひたすらに銀ちゃんを愛している。
だから、彼の小夏に対する思いも葛藤も切なくて、美しい。
観客は素直にヤスに同情し、切ない想いを共有して、涙を流す事ができます。
「つか こうへい」作品なのに。
ジメジメと鬱屈した感情も、人間の醜さも、現実のむごさも、あまり感じない。
…痛くて痛くて、ビデオですら見るのが辛かった初演とは違って、切ない涙を流しながら、何度でも見たくなってしまいました。
さすがに、一日に二回見たら、ぐったり疲れてしまうのですが…それでも、また見たいと思いました。
役者が変われば、作品は変わるものですね。
それぞれの個性に合わせて場面の差し替えはありますが、メインの三人のドラマは、基本的に初演と変わらない筈なのですが。
今回の花組版は、やはり「宝塚的」というのが、一番しっくりするように感じます。
私が一番感じたのは、今回の再演は、銀ちゃんとヤスの関係における「暴力」の扱いが違うんじゃないかなー、という事でした。
私にとって、初演で一番痛くて見るのが辛かったのが、ヤスが暴力をふるう場面だったからです。
小夏に対しても、撮影所でも。
今まで虐げられていたヤスが、銀ちゃんに成り変わるように暴力に転じるのが、恐くて…。その恐ろしさが、痛みとして感じられたと思うのです。
でも、今回はその恐ろしさを感じなかった。
ヤスが「虐げられた存在」ではなかったからです。
ミツル君のヤスは、殴られて、肉体的な痛さを表現しても、精神的な痛みはあまり感じません。
大空銀ちゃんは、殴る姿までも、ひたすらカッコ良いばかり。
銀ちゃんもヤスも、暴力にしか縋れない心の歪みの得体の知れなさに、観客を恐怖させる事が無いと思うのです。
それに、殴られる側の悔しさ、肉体を征服される屈辱、理不尽な扱いを受ける事に反抗できない劣等感…。
初演では宝塚において可能な限り、「暴力」を振るう者・受ける者の、複雑に入り組んだ加虐心と被虐心の感情を、痛みとして描いてみせた。
今回、その部分をスパっと無くした事は、意図的なものかなーと思います。
この変化によって、石田先生が各所で語るテーマ「依存と束縛の関係性」が、クリアにストレートに見えるようになった…と、私は思ったからです。
銀ちゃんとヤスの二人において「暴力」の複雑な心情が消えた事で、ただの一方的で過剰なコミュニケーションの表現となった事が作品の根幹を変えたのではないかと思うのです。
「どうして殴ってくれないんですか?」というセリフは、だから、二人の関係が変わった事をストレートに表現するセリフとなりました。
銀ちゃんとヤスや小夏の間にある、生ぬるくて甘美な、相互依存の関係。
「ヤスだと、俺が安心するんだよ」
「ばーか、お前が俺の事、一番良く知ってからじゃないか」
一見突っ張った、その実は甘いセリフで、銀ちゃんは二人を縛り付けようとします。
今回の再演で気づいたのですが、ヤスと小夏はお互いにちゃんと紹介されてないんですね。
ヤスとは10年、小夏とも5年くらい?結構、長い付き合いなのに。
どうやら、生活と撮影所の密着した生活のようなこの人々。しょっちゅう一緒に行動して、私生活の関わりもあるらしいのに、小夏と一緒に住んでる事を何年も話してないなんて不自然じゃない?と、疑問に思ったのです。
朋子の事は見せているのに?
まあ、これが依存の一つの形なんだろうなーと思いますね。
心の奥にあるものを見せられるのはお前だけ…と思わせて、最大限に甘える為に、二人を会わせなかったのではないかと。
ヤスと小夏も、自分こそが銀ちゃんにとって、唯一の存在だと思う事が依存の形だったのでしょう。
「あのとんでもない人には、自分が傍にいてあげないと駄目なんだ」と。
恋人の小夏と、子分のヤス、それぞれに違う形で必要とした銀ちゃんは、二人の存在をそれぞれ見せない事で縛り付けていた。
けれど、小夏の子供の存在が起爆剤となり、三人の関係は壊れていきます。
三人の関係がストレートに見える事で、また、恋愛の三角関係もすっきりとクリアに見えるようになりました。
ヤスが暴力に対する複雑性を失った事で、銀ちゃんに対する憧れの念がより美しく見えるようになります。その為に辛い痛みは消えて、恋愛の切なさのみが真っ直ぐに表現されるようになったと思うのです。
そして「蒲田行進曲」は、「銀ちゃんの恋」というタイトルどおり、より三角関係の恋愛物語として、宝塚らしい作品となった。
つか作品らしい、じめっとした湿度の高い、鬱屈とした感情は無いけれど。
甘美な依存の関係が壊れ、自立した人間同士の関係として再生していく様は、ある意味でつか作品の本質の一部分を綺麗に見せる作品となったとも思えます。
というわけで、冒頭に書いた印象になるのです。
洗練された大空銀ちゃんによる、クリアな甘口の「蒲田行進曲」。スッキリと雑味のない、ドライなつか作品、です。
とはいえ、ドラマシティで私が見た限りでも、大きく芝居は変化していった部分がありました。
青年館では、この関係性も変わっていくのか、それともこのままスケールアップしていくのか。
興味津津で、観劇の日を待ちたいと思います。
皆様、どうぞお体にお気をつけて、この素敵な作品を楽しんでいただきたいですね。
「銀ちゃんの恋」チーム、頑張って下さいね〜(^^)/~~
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