おめでとうございます。
2012年6月22日 ファンモードお誕生日おめでとうございます。
すっかり放置状態のこの場所ですが、最後のお誕生日となるこの日には、一言残しておきましょう。
この数年、ずっと、これが最後のお誕生日のお祝いかも…と思いながらお祝いしていました。
そして毎年「今年もお誕生日のお祝いができた事」が、何よりも嬉しい事でした。
そして、今、この時。
公演中にお誕生日を迎えられた事、本当に嬉しいです。
今日はお芝居でもショーでも、お誕生日のアドリブをして下さって。
嬉しそうなお顔を見る事ができて、本当に幸せでした。
数々のご卒業へのイベントが行われ、次々と過ぎていく日々の中。
多くの方が語るオオゾラユウヒさんへの愛に満ちたお言葉に、ファンとしても改めて幸せを感じます。
そして、やはり、別れの寂しさも…。
でも、今はただ。
「大空祐飛」という存在を作りあげ、私達に沢山の幸せをもたらして下さった事への感謝と、ありったけの愛を。
すっかり放置状態のこの場所ですが、最後のお誕生日となるこの日には、一言残しておきましょう。
この数年、ずっと、これが最後のお誕生日のお祝いかも…と思いながらお祝いしていました。
そして毎年「今年もお誕生日のお祝いができた事」が、何よりも嬉しい事でした。
そして、今、この時。
公演中にお誕生日を迎えられた事、本当に嬉しいです。
今日はお芝居でもショーでも、お誕生日のアドリブをして下さって。
嬉しそうなお顔を見る事ができて、本当に幸せでした。
数々のご卒業へのイベントが行われ、次々と過ぎていく日々の中。
多くの方が語るオオゾラユウヒさんへの愛に満ちたお言葉に、ファンとしても改めて幸せを感じます。
そして、やはり、別れの寂しさも…。
でも、今はただ。
「大空祐飛」という存在を作りあげ、私達に沢山の幸せをもたらして下さった事への感謝と、ありったけの愛を。
おかえりなさい、ルディ
2011年8月15日 演劇「おかえりなさい、ルディ」
8月13日、宙組東京特別公演「ヴァレンチノ」初日。
見終わった後に、ただ、その言葉がうかんできました。
帰ってきてくれた。
あの時。無残に奪われた、この作品の命が、希望の光が、戻ってきてくれた。
それが嬉しくて嬉しくて、夢中で手を叩きました。
久しぶりの「ヴァレンチノ」は、幕開きから、出演者の皆さんが、再演の喜びに光り輝いているのが見えるような舞台でしてた。
皆さんが、この作品が甦った喜びを全身で訴えているようにキラキラしていて、見ていて、もう、最初から胸が熱くなってしまいました。
その熱を持ったまま、舞台も客席も熱く、物語は終盤に向かい。「クラブ21」でリンチを受けたルディが、ボロボロになって歌う場面。
朝日を受けたルディの瞳に浮かんだ、畏怖の色に。その後、再び希望を歌う姿に、その美しい涙に、私も涙が止まらなくなりました。
人間とは、これ程に純粋で力強いものなのだと…圧倒されました。
信じて待っていて、本当に良かった。
ルディ、帰ってきてくれて、ありがとう。希望を持ち続けてくれて、ありがとう。
きっときっと、大変だっただろうに。それでも、この優しく力強い希望の光を、甦らせて届けてくれて、本当にありがとう。
心の中で、ひたすら「ありがとう~!!!」と思う、幸せな初日でした。
そして、翌日。14日の15時公演も見ました。
今日は、皆さんもかなり落ち着いてきた模様。カイちゃんナターシャのお化粧が、ビックリする程に綺麗になっていたり、お芝居も全体に地に足がついた感じ。
再演版ルディは、ドラマシティの時よりも、より無邪気で可愛らしく、そして、より大人で懐が深いなぁ…と、思います。ルディだけでなく、皆さんに精神的な成熟を感じますし、ずっと自由に舞台を楽しんでいるような感じを受けました。
今日は二階席だったので、後ろのほうの下級生もしっかりよく見えましたし、二階ならでの照明の美しさを堪能したり。
かなり上手端の席だったので、試写会後の場面で、ジューンを抱きしめたルディのお顔を上から見ることができて、これも二階席ならでは…と、感動しました。
昨日の熱いルディとは、ちょっと違う感じの芝居で、これから先の変化が、すごく楽しみになりました。
ドラマシティで作り上げて、東京公演で練り上げる…筈だった。それが奪われた時は寂しかったけど、これから更に深く、緻密に練り上げられていくのだと思うと、ドキドキします。今はただ、これからの公演を楽しみに見ていきたいと思います。
8月13日、宙組東京特別公演「ヴァレンチノ」初日。
見終わった後に、ただ、その言葉がうかんできました。
帰ってきてくれた。
あの時。無残に奪われた、この作品の命が、希望の光が、戻ってきてくれた。
それが嬉しくて嬉しくて、夢中で手を叩きました。
久しぶりの「ヴァレンチノ」は、幕開きから、出演者の皆さんが、再演の喜びに光り輝いているのが見えるような舞台でしてた。
皆さんが、この作品が甦った喜びを全身で訴えているようにキラキラしていて、見ていて、もう、最初から胸が熱くなってしまいました。
その熱を持ったまま、舞台も客席も熱く、物語は終盤に向かい。「クラブ21」でリンチを受けたルディが、ボロボロになって歌う場面。
朝日を受けたルディの瞳に浮かんだ、畏怖の色に。その後、再び希望を歌う姿に、その美しい涙に、私も涙が止まらなくなりました。
人間とは、これ程に純粋で力強いものなのだと…圧倒されました。
信じて待っていて、本当に良かった。
ルディ、帰ってきてくれて、ありがとう。希望を持ち続けてくれて、ありがとう。
きっときっと、大変だっただろうに。それでも、この優しく力強い希望の光を、甦らせて届けてくれて、本当にありがとう。
心の中で、ひたすら「ありがとう~!!!」と思う、幸せな初日でした。
そして、翌日。14日の15時公演も見ました。
今日は、皆さんもかなり落ち着いてきた模様。カイちゃんナターシャのお化粧が、ビックリする程に綺麗になっていたり、お芝居も全体に地に足がついた感じ。
再演版ルディは、ドラマシティの時よりも、より無邪気で可愛らしく、そして、より大人で懐が深いなぁ…と、思います。ルディだけでなく、皆さんに精神的な成熟を感じますし、ずっと自由に舞台を楽しんでいるような感じを受けました。
今日は二階席だったので、後ろのほうの下級生もしっかりよく見えましたし、二階ならでの照明の美しさを堪能したり。
かなり上手端の席だったので、試写会後の場面で、ジューンを抱きしめたルディのお顔を上から見ることができて、これも二階席ならでは…と、感動しました。
昨日の熱いルディとは、ちょっと違う感じの芝居で、これから先の変化が、すごく楽しみになりました。
ドラマシティで作り上げて、東京公演で練り上げる…筈だった。それが奪われた時は寂しかったけど、これから更に深く、緻密に練り上げられていくのだと思うと、ドキドキします。今はただ、これからの公演を楽しみに見ていきたいと思います。
明日は、青年館から宙組公演「ヴァレンチノ」が始まります。
やはり、感慨深いものがありますね。
あの震災で失われた東京特別公演。
なんだか、この公演自体が、突然の事故で未来を奪われてしまったルディとイメージが重なってしまったような気持ちがありましたから。
まだまだ、被災された多くの方々は苦しい生活をされていらっしゃるのだし、余震も無くなったわけではないけれど。
それでも、あの公演がもう一度見られるのは、本当に喜ばしい事です。
私は3月12日からドラマシティ遠征のつもりでしたが、本気で「今、遠出をして、二度と家族に会えなくなってしまったら…」と不安になって、諦めました。
結局、翌週には「避難だと思って行ってくる」と、不安を抱えたまま関西に向かいましたが。それでも、再び家族の顔を見るまでは、心のどこかで不安が残っていました。…あれから、5か月。
時間がたってからの強硬スケジュールでの再演で出演者の皆様は、本当に大変な事と思いますが、お体にお気をつけて頑張って欲しいと思います。
しかし、東宝公演が終わって、一週間で次の公演というのは、本当にすごいものですね。
発表された時は、ぼんやりと「大変そう」と思っただけでしたが、その時になってみると、ファンの気持ちの切り替えすら、まだついてない。
戦国武将と姫君のストイックで美しい生涯から、ハリウッド黄金時代のアメリカを舞台に切り替えるのって…どんなものだか、想像もつきません^^;
私の頭のなかは、まだ、三成様とお茶々様モードから、戻ってきておりませんので。
実は今朝頃まで、あの「美しき生涯」と「ルナロッサ」の世界を懐かしんで、寂しかったのです。
8月7日、東宝楽の日は友人達と「また来週~」と言ってお別れして。すぐに次の公演があるから、寂しくないような気がしていたけど。
やはり、公演が終わったあとはいつもと同じ寂しさがありました。
もう、あの美しい三成様もお茶々様も、この世界のどこにも存在しえないのだ。
あのうつくしい舞台は、公演が終われば、この世から消えてしまう存在なのだ…と思うと本当に寂しくなるのです。公演が終わった後にはいつも。
もう「ヴァレンティノ」のお稽古をしているだろう事までも、寂しく感じたりしていました。
でも、消えてしまうからこその儚い美しさがいとおしいものなのだな、とも思います。
そして今回は、石田三成氏の残した「散り残る紅葉はことにいとおしき 秋の名残はこればかりぞと」という歌を、改めて思い出しました。
私は石田三成氏が、本当に「紅葉」を詠った事を知らなかったのですが、何でも知っている友人に教えてもらいました。
秀頼様を”散り残る紅葉”にみたてて、”秋の名残”を豊臣の世と重ねて詠んだのではないかと言われているとの事。関ヶ原の直前だそうで。
この美しい歌だけでも、繊細で優しい方だったのだろうなーと、思いますよね。
そしてこの歌から連想して、琵琶湖のほとりでの会話を組み立てた大石先生のセンスも、とっても素敵だと思います。
心を押し隠した恋人達のあまやかな会話から、作品のテーマへ。本当に無駄の無い見事な組み立てですよね。
今回の脚本、物語もキャラクターもすごく好きなので、基本的にはよくできた作品だと思います。歴史ものの場合は、ある程度、観客が自分で調べて納得する部分があってもいいとと思う派ですし。
ただ、最初に見た時に?と思った事が多いのも確かだし、この作品で三成さんに納得できないと言う友人の言うことも、わかる。
で、考えてみると。作中に幾つかある、キャッチフレーズのような、キメ台詞。
「愛と勇気、どちらを選べばいいのか」
「男の真実は義だけではない」
「正義は勝つ」「我等は勝つ」
「裏切り者は許さん!」
等々の、派手なキメ台詞を無かった事にすると、この話、随分と謎が減るのではないかなー。耳障りの良い言葉を選んだつもりが、逆に混乱を招いたような。
それぞれ抱えている心情は、そんなに簡単なものではないのに、状況にそぐわない紋切型のキメ台詞がたくさん。
これを、言い換えたり、もうちょい詳しく言ってくれれば…。
少なくとも、私の頭の中では、三成さんの心の動きに疑問をはさんだりする事なく台詞の置換が完了しました(^^)
…なんて事を書いている間も無く、明日からは次の公演へ。
明日、青年館に行ってみれば、自然に受け止められるのでしょうけれど…。
ともかく、これで時間切れです。いつか、三成さんと、上様について、書けるといいなー。
やはり、感慨深いものがありますね。
あの震災で失われた東京特別公演。
なんだか、この公演自体が、突然の事故で未来を奪われてしまったルディとイメージが重なってしまったような気持ちがありましたから。
まだまだ、被災された多くの方々は苦しい生活をされていらっしゃるのだし、余震も無くなったわけではないけれど。
それでも、あの公演がもう一度見られるのは、本当に喜ばしい事です。
私は3月12日からドラマシティ遠征のつもりでしたが、本気で「今、遠出をして、二度と家族に会えなくなってしまったら…」と不安になって、諦めました。
結局、翌週には「避難だと思って行ってくる」と、不安を抱えたまま関西に向かいましたが。それでも、再び家族の顔を見るまでは、心のどこかで不安が残っていました。…あれから、5か月。
時間がたってからの強硬スケジュールでの再演で出演者の皆様は、本当に大変な事と思いますが、お体にお気をつけて頑張って欲しいと思います。
しかし、東宝公演が終わって、一週間で次の公演というのは、本当にすごいものですね。
発表された時は、ぼんやりと「大変そう」と思っただけでしたが、その時になってみると、ファンの気持ちの切り替えすら、まだついてない。
戦国武将と姫君のストイックで美しい生涯から、ハリウッド黄金時代のアメリカを舞台に切り替えるのって…どんなものだか、想像もつきません^^;
私の頭のなかは、まだ、三成様とお茶々様モードから、戻ってきておりませんので。
実は今朝頃まで、あの「美しき生涯」と「ルナロッサ」の世界を懐かしんで、寂しかったのです。
8月7日、東宝楽の日は友人達と「また来週~」と言ってお別れして。すぐに次の公演があるから、寂しくないような気がしていたけど。
やはり、公演が終わったあとはいつもと同じ寂しさがありました。
もう、あの美しい三成様もお茶々様も、この世界のどこにも存在しえないのだ。
あのうつくしい舞台は、公演が終われば、この世から消えてしまう存在なのだ…と思うと本当に寂しくなるのです。公演が終わった後にはいつも。
もう「ヴァレンティノ」のお稽古をしているだろう事までも、寂しく感じたりしていました。
でも、消えてしまうからこその儚い美しさがいとおしいものなのだな、とも思います。
そして今回は、石田三成氏の残した「散り残る紅葉はことにいとおしき 秋の名残はこればかりぞと」という歌を、改めて思い出しました。
私は石田三成氏が、本当に「紅葉」を詠った事を知らなかったのですが、何でも知っている友人に教えてもらいました。
秀頼様を”散り残る紅葉”にみたてて、”秋の名残”を豊臣の世と重ねて詠んだのではないかと言われているとの事。関ヶ原の直前だそうで。
この美しい歌だけでも、繊細で優しい方だったのだろうなーと、思いますよね。
そしてこの歌から連想して、琵琶湖のほとりでの会話を組み立てた大石先生のセンスも、とっても素敵だと思います。
心を押し隠した恋人達のあまやかな会話から、作品のテーマへ。本当に無駄の無い見事な組み立てですよね。
今回の脚本、物語もキャラクターもすごく好きなので、基本的にはよくできた作品だと思います。歴史ものの場合は、ある程度、観客が自分で調べて納得する部分があってもいいとと思う派ですし。
ただ、最初に見た時に?と思った事が多いのも確かだし、この作品で三成さんに納得できないと言う友人の言うことも、わかる。
で、考えてみると。作中に幾つかある、キャッチフレーズのような、キメ台詞。
「愛と勇気、どちらを選べばいいのか」
「男の真実は義だけではない」
「正義は勝つ」「我等は勝つ」
「裏切り者は許さん!」
等々の、派手なキメ台詞を無かった事にすると、この話、随分と謎が減るのではないかなー。耳障りの良い言葉を選んだつもりが、逆に混乱を招いたような。
それぞれ抱えている心情は、そんなに簡単なものではないのに、状況にそぐわない紋切型のキメ台詞がたくさん。
これを、言い換えたり、もうちょい詳しく言ってくれれば…。
少なくとも、私の頭の中では、三成さんの心の動きに疑問をはさんだりする事なく台詞の置換が完了しました(^^)
…なんて事を書いている間も無く、明日からは次の公演へ。
明日、青年館に行ってみれば、自然に受け止められるのでしょうけれど…。
ともかく、これで時間切れです。いつか、三成さんと、上様について、書けるといいなー。
宙組公演「美しき生涯」
2011年8月3日 演劇ご無沙汰してます。もう、ずいぶん更新してなかったんだなぁ。
ま、色々気にせず、気が向いたので書き留めておきます。
宙組公演「美しき生涯」について。終わってしまう前に少しだけでも。
まずは、いきなり直球で。
この作品の一番のびっくりポイントについて。
誰もが驚くと思う、あの場面。
鶴松君を亡くした茶々の生きる力を与える為に、次の子供って…そんなバカな!!と。
子供を、人の命を何だと思っているのか、この男?とビックリしますよね?
今とは違って、子供が亡くなる確率が高かった時代とはいえ、あんまりな言い方だと思います。
でも、2〜3回見ているうちに、そして、鶴松は赤ん坊の頃から病がちでも3歳程まで生きた事を知ってから、考えが変わってきたのです。
約20年の出来事を、一時間半にまとめたこの物語。時間経過の一言の台詞を入れるのも惜しくて、ひと場面にしてありますが。
常に命の危険を持った病がちの子供を二年間余りも看病し続けて、とうとう我が子を喪ってしまったこの時の茶々は、どれ程に悲嘆に暮れていた事だろうかと思うと。
何年間も抱き続けた初恋の形見であり、戦いで親を喪い、妹二人を嫁がせた後に得た、ただ一人の肉親。ただ一人の家族…ただ一人の愛する者。
天下人・秀吉の側室として所有される事になった茶々にとっては、もはや子供しか、家族を得る事はできないのです。秀吉はお市様に生き写しの茶々に執着しているとはいえ、それは愛とは違うもの。普通の家族のような愛情は、自分の子供としか望めない。
大石先生は三成を孤独な存在として描きたかったと語られていますが、この物語のお茶々様は、それ以上に、孤独な存在として書かれています。
命を狙われるような侍女達に囲まれ、心許せる相手は三成と疾風だけしか登場しないのですから。
愛する三成の為に身体も人生も売り渡した茶々は、三成の子と思われる鶴松を心の支えに生きてきて。
その子を喪った時、彼女は空っぽになってしまったんじゃないかな。
三成は上様の命令で結婚して子供もできていた頃でしょうし、そんな噂は伝わっても、もはや三成に会う機会もあまり無い事でしょう。
もしかしたら、三成は家族を得て、幸せに暮らして…もう茶々への愛は失くしているかもしれない。
それならば、三成の為に身を売った自分は、もう生きていなくてもいいのではないか?孤独の中、そんな風に生きる力を失う事は十分に考えられるなーと思うのです。
それに幼い子供を亡くした母親って、本当にひたすら自分を責めるんですよね。「自分が丈夫な体に生んであげられなかった」とか「何か、育てかたが間違っていたんじゃないか」とか。しかたのないこととはいえ、見ているほうも、とても辛いです。
そして、ああいう時代の事、生きる意志を失くしてしまった人間が、ちょっとした病などで簡単にこの世を去ってしまうのはよくある事です。
そんな茶々に生きる生きる力を取り戻してもらう為、疾風は三成に土下座でも何でもしなければならなかった。
三成だって当然、子供を喪ったお茶々様の事を心配していたでしょう。会う機会の少ない立場だからこそ、心配は深かっただろうと思います。
だから、疾風と三成が茶々に与えたかった「生きる力」は、次の子供ではなく、彼女を心から愛する人が、彼女を抱きしめ優しく包み込んで慰める時間なのだろうと思うのです。
でも、疾風が三成にそう言っても、三成の立場では「それは秀吉様の役目だ」と言うしかない。だから、疾風は秀吉にはできない「子供」という言葉を選んで言ったのだろうな、と。三成しか与える事が出来ないのは、実は「愛」なのだけれど。
三成は、その言葉に納得したふりをして「子供」を与えるという名目で、お茶々様に会いに行けたのではないかと思います。
でも本当は、ただお茶々様を心配して、抱きしめて慰めたかったのではないかと思う。そして、一度だけしか抱けなかった、二人の子供の死を悼んで、二人で泣きたかったのではないかとも。
次の子供なんて、言い訳だと思いたい。
三成が本気で子供を作ろうとしたとは、常識的に考えにくい事と思います。言い訳のできないくらい、父親に生き写しの子供が生まれる事だって普通にあり得るんだし。二人にとってリスクが高すぎる。それに、鶴松の時とは意味が違います。天下を狙う謀反の意味に近い事ですから。
ただ、彼は子供を亡くして失意のお茶々様に一目会って、慰めたかった。
どんな危険を冒しても、何かあれば一人で責めを負う覚悟で、天下人の愛人に会いに行った。大事な上様を裏切っても、家族も地位も仕事も全てを捨てる事になる可能性があっても。
そんな三成の覚悟を感じて、遠い立場となっても自分を想ってくれる人の愛の為に、お茶々様は生きる力を取り戻したのではないかと思うのです。
だから、二人のこの命がけの逢瀬は、ただ一度だったのだと思うのだけれど。
「言葉の綾」で子を作ると言っただけなのに…本当に子供ができてしまった。
そして、またもや、男の子。
そんなバカな!とも思うけれども、なんというか、物事が悪いほうばかりに転がっていくのに翻弄されるのが、オオゾラさんらしいかな、と^^;
今まで大勢の側室にもお子ができなかったのに、生まれた子供。
どの側室が身籠っても、上様が自分の子だと言い張れば、三成はその言葉に従って後継者となるお子に忠誠を誓う事でしょう。例え、あり得ないと思っていても。
それが自分が父親であったとしても、同じ事だったのだろうとは思います。
むしろ、徹底的に上様の後継者として、主君と家臣の立場を守る事になったのでは。
それ故に、三成は主君の母であるお茶々様に対しても、一歩引いた立場となった。
ある意味、それは恋の終わりに等しいものだったのではないかと思います。
その裏切り故に、二人の道は完全に別れてしまった。
秀吉様が亡くなっても、二人は最早、主君の母と家臣として対する事しかできない。
…もし、あの時に子供を授かっていなければ、違った関係になれたかもしれない。でも、もう、二人はそこには戻れない。
お茶々様がますます孤立して、一人で「我が子」を守ると歌うのが哀しいです。
愛した男が、子供の実の父親が、すぐ傍にいるのに。もう、三成に丸ごと頼る事は、できないのです。お互いに、愛が消えたのではない事はわかっているのに。
そして、三成はそんな彼女に何も言う事ができずに、黙り込む。「豊臣の大義の為に」なんて言わずに、もう一度「自分の為に」、茶々にお願いしていれば…と、じれったい思いがします。彼女はそうして欲しかったのではないかと。
でも、それができない人だからこそ、愛しいのですよね。
三成が「豊臣」の為に戦う事は、すべての愛の為に命を懸ける事であるのだけは確かな事で。
お茶々様を、秀頼様を生かす為に、関ヶ原で彼は戦った。
どんなに不器用でも、間違いだらけの行いを重ねながら、迷いながら、正しい道も殿への愛も茶々への愛も秀頼への愛も全てを守って戦って。激しく生きた事が「美しき生涯」なのだろうと、納得させられる牢獄の場面。美しい場面です。
しかし…時間切れなので、続きはまた今度という事で。
ま、色々気にせず、気が向いたので書き留めておきます。
宙組公演「美しき生涯」について。終わってしまう前に少しだけでも。
まずは、いきなり直球で。
この作品の一番のびっくりポイントについて。
誰もが驚くと思う、あの場面。
鶴松君を亡くした茶々の生きる力を与える為に、次の子供って…そんなバカな!!と。
子供を、人の命を何だと思っているのか、この男?とビックリしますよね?
今とは違って、子供が亡くなる確率が高かった時代とはいえ、あんまりな言い方だと思います。
でも、2〜3回見ているうちに、そして、鶴松は赤ん坊の頃から病がちでも3歳程まで生きた事を知ってから、考えが変わってきたのです。
約20年の出来事を、一時間半にまとめたこの物語。時間経過の一言の台詞を入れるのも惜しくて、ひと場面にしてありますが。
常に命の危険を持った病がちの子供を二年間余りも看病し続けて、とうとう我が子を喪ってしまったこの時の茶々は、どれ程に悲嘆に暮れていた事だろうかと思うと。
何年間も抱き続けた初恋の形見であり、戦いで親を喪い、妹二人を嫁がせた後に得た、ただ一人の肉親。ただ一人の家族…ただ一人の愛する者。
天下人・秀吉の側室として所有される事になった茶々にとっては、もはや子供しか、家族を得る事はできないのです。秀吉はお市様に生き写しの茶々に執着しているとはいえ、それは愛とは違うもの。普通の家族のような愛情は、自分の子供としか望めない。
大石先生は三成を孤独な存在として描きたかったと語られていますが、この物語のお茶々様は、それ以上に、孤独な存在として書かれています。
命を狙われるような侍女達に囲まれ、心許せる相手は三成と疾風だけしか登場しないのですから。
愛する三成の為に身体も人生も売り渡した茶々は、三成の子と思われる鶴松を心の支えに生きてきて。
その子を喪った時、彼女は空っぽになってしまったんじゃないかな。
三成は上様の命令で結婚して子供もできていた頃でしょうし、そんな噂は伝わっても、もはや三成に会う機会もあまり無い事でしょう。
もしかしたら、三成は家族を得て、幸せに暮らして…もう茶々への愛は失くしているかもしれない。
それならば、三成の為に身を売った自分は、もう生きていなくてもいいのではないか?孤独の中、そんな風に生きる力を失う事は十分に考えられるなーと思うのです。
それに幼い子供を亡くした母親って、本当にひたすら自分を責めるんですよね。「自分が丈夫な体に生んであげられなかった」とか「何か、育てかたが間違っていたんじゃないか」とか。しかたのないこととはいえ、見ているほうも、とても辛いです。
そして、ああいう時代の事、生きる意志を失くしてしまった人間が、ちょっとした病などで簡単にこの世を去ってしまうのはよくある事です。
そんな茶々に生きる生きる力を取り戻してもらう為、疾風は三成に土下座でも何でもしなければならなかった。
三成だって当然、子供を喪ったお茶々様の事を心配していたでしょう。会う機会の少ない立場だからこそ、心配は深かっただろうと思います。
だから、疾風と三成が茶々に与えたかった「生きる力」は、次の子供ではなく、彼女を心から愛する人が、彼女を抱きしめ優しく包み込んで慰める時間なのだろうと思うのです。
でも、疾風が三成にそう言っても、三成の立場では「それは秀吉様の役目だ」と言うしかない。だから、疾風は秀吉にはできない「子供」という言葉を選んで言ったのだろうな、と。三成しか与える事が出来ないのは、実は「愛」なのだけれど。
三成は、その言葉に納得したふりをして「子供」を与えるという名目で、お茶々様に会いに行けたのではないかと思います。
でも本当は、ただお茶々様を心配して、抱きしめて慰めたかったのではないかと思う。そして、一度だけしか抱けなかった、二人の子供の死を悼んで、二人で泣きたかったのではないかとも。
次の子供なんて、言い訳だと思いたい。
三成が本気で子供を作ろうとしたとは、常識的に考えにくい事と思います。言い訳のできないくらい、父親に生き写しの子供が生まれる事だって普通にあり得るんだし。二人にとってリスクが高すぎる。それに、鶴松の時とは意味が違います。天下を狙う謀反の意味に近い事ですから。
ただ、彼は子供を亡くして失意のお茶々様に一目会って、慰めたかった。
どんな危険を冒しても、何かあれば一人で責めを負う覚悟で、天下人の愛人に会いに行った。大事な上様を裏切っても、家族も地位も仕事も全てを捨てる事になる可能性があっても。
そんな三成の覚悟を感じて、遠い立場となっても自分を想ってくれる人の愛の為に、お茶々様は生きる力を取り戻したのではないかと思うのです。
だから、二人のこの命がけの逢瀬は、ただ一度だったのだと思うのだけれど。
「言葉の綾」で子を作ると言っただけなのに…本当に子供ができてしまった。
そして、またもや、男の子。
そんなバカな!とも思うけれども、なんというか、物事が悪いほうばかりに転がっていくのに翻弄されるのが、オオゾラさんらしいかな、と^^;
今まで大勢の側室にもお子ができなかったのに、生まれた子供。
どの側室が身籠っても、上様が自分の子だと言い張れば、三成はその言葉に従って後継者となるお子に忠誠を誓う事でしょう。例え、あり得ないと思っていても。
それが自分が父親であったとしても、同じ事だったのだろうとは思います。
むしろ、徹底的に上様の後継者として、主君と家臣の立場を守る事になったのでは。
それ故に、三成は主君の母であるお茶々様に対しても、一歩引いた立場となった。
ある意味、それは恋の終わりに等しいものだったのではないかと思います。
その裏切り故に、二人の道は完全に別れてしまった。
秀吉様が亡くなっても、二人は最早、主君の母と家臣として対する事しかできない。
…もし、あの時に子供を授かっていなければ、違った関係になれたかもしれない。でも、もう、二人はそこには戻れない。
お茶々様がますます孤立して、一人で「我が子」を守ると歌うのが哀しいです。
愛した男が、子供の実の父親が、すぐ傍にいるのに。もう、三成に丸ごと頼る事は、できないのです。お互いに、愛が消えたのではない事はわかっているのに。
そして、三成はそんな彼女に何も言う事ができずに、黙り込む。「豊臣の大義の為に」なんて言わずに、もう一度「自分の為に」、茶々にお願いしていれば…と、じれったい思いがします。彼女はそうして欲しかったのではないかと。
でも、それができない人だからこそ、愛しいのですよね。
三成が「豊臣」の為に戦う事は、すべての愛の為に命を懸ける事であるのだけは確かな事で。
お茶々様を、秀頼様を生かす為に、関ヶ原で彼は戦った。
どんなに不器用でも、間違いだらけの行いを重ねながら、迷いながら、正しい道も殿への愛も茶々への愛も秀頼への愛も全てを守って戦って。激しく生きた事が「美しき生涯」なのだろうと、納得させられる牢獄の場面。美しい場面です。
しかし…時間切れなので、続きはまた今度という事で。
希望の光-ヴァレンチノ-
2011年4月2日 宙組東北地方太平洋沖地震から三週間が過ぎました。
震災の影響でお亡くなりになられた方々のご冥福を祈りますとともに、被害を受けた方々、その家族の皆さまに心よりお見舞い申し上げます。
やっと三週間…特に最初の一週間は、今までの人生で一番長く感じた一週間だったような気がします。
都内在住で特に大きな被害も無かったのですが、毎日テレビで流れる被害の大きさには茫然とするばかり。強大な自然の力の前で、為すすべもなく翻弄される人間の無力さを、改めて感じる他はありませんでした。
そして次々と引き起こされる二次災害、原発事故。いつまでも続く余震に怯え、原発の被害に怯え。それでも直接の被害にあわれた方々の事を考えたら、命があるだけでも有難い事で。
翌日12日から「ヴァレンチノ」の為の大阪行きの予定だったのですが、結局その週の大阪行きは”自粛”する事となりました。その後の都内の停電と、それに伴う交通機関の混乱に「こんな中で、青年館での公演は難しいだろうなー」と思っていたら、やはり中止の発表。
かなり迷いましたが、予定を少し早めて、ドラマシティ公演に行ってきました。
…行って、良かった。救われました。
「ヴァレンチノ」は、以前にCSで放送されたものを一度見た事があり、物語は覚えている…という程度。オオゾラさんが演じると決まってからは、あえて、もう一度見たりはしませんでした。
最初の観劇時は、杜けあきさんのお芝居や、ミユさん、高嶺さん、古代さん等のお芝居を少しだけ思い出しながら、とても冷静に見ていたと思います。大阪に到着してそのまま劇場に入り、ちょっと落ち着かない状態で席につきまして、そのまま舞台に入り込めなかったのかも。
ところが、二幕のクライマックス、ボロボロになったルディが歌う姿に、打ちのめされました。
「失くした夢の大きさは、失くした時に気付くもの」
この一言に、本当に色々な思いが重なってしまって…。毎日、テレビのニュースでエンドレスで流れる、地震の被害映像も頭に浮かんで…自分自身の事も、無くなった青年館公演も。
そうしたら、突然、泣けてきました。
そして、朝日の訪れと共に「希望」を取り戻すルディの姿に、更に涙。
たとえ、多くのものを失っても。それでも人は、一筋の希望の光に向かって歩いて行ける。強くて、しなやかで、しぶとい力を持っている…その力強い美しさは、素晴らしい説得力となって。胸をギュッと掴まれるような衝撃でした。
それから後は、只々、涙を流し続けました。
ルディとジューンの心の繋がりも、ルディの最後の「チャオ!」も、幻の四人と共に去っていくジューンの姿も、あまりに美しくて。
みーちゃんのジョージの語りかける言葉は、あまりにも優しくて。
そして再び登場したルディの笑顔、アランチャを歌う希望の光が、ジューンに手渡すオレンジの枝が象徴する「希望と幸福」が、あまりにも、純粋な光に満ちていて…。
フィナーレはカッコよく、タンゴの音楽はクールで情熱的で、見とれている間に涙も止まり、呼吸を整える事ができました。
でも、最後に全員で歌う「アランチャ」に満ち溢れる、望郷や希望や哀惜や幸福や…様々な思いが混然となった皆さんの歌声に、また涙。
更にはカーテンコールでのオオゾラさんの挨拶の、真摯で力強い、思いやりに溢れた言葉にも涙を流して、劇場を出る頃にはぐったりしてしまいました。
震災以後、テレビのニュースを見ているだけで、あまりの事に涙が出る…という事をよく聞きました。まあ、私はそういうキャラではないわ、などと思っていたのですが(^^ゞ
でも、人間にとって「泣く」事って、必要な事なんですね。この最初の観劇でたっぷり泣いた後には、不思議と体が軽くなっていました。余震やその他様々な事への怯えの為、ぐっと縮こまって固まっていた体から、力が抜けたのです。同時に、心もぎゅっと固まっていたのが、ほぐれたようです。
目の前の霧がすーーっと晴れたようで、恐怖で曇っていた視界が明るく開けた気がしました。おかげで気持ちも軽くなって、その夜は地震の日のあと初めて、ぐっすりと眠る事ができました。
すべては、祐飛ルディが見せてくれた「希望の光」のちからによって。
このドラマシティメンバーが作り上げて下さった、美しく生き生きとした、ひとときの夢の舞台によって。私は救われました。
今までも、宝塚の舞台に、オオゾラさんの舞台に、慰められ力をもらった事は何度もあったけれども。今回は本当に祐飛さんと宙組の皆さんに感謝しています。
私一人では、ただ恐怖に固まる事しかできなかったのに。
あの舞台から力強い「希望」をもらって、「大丈夫だ」と励まされて、落ち着きを取り戻しました。色々な事に無駄に怯える事なく、現実に向きあっていこうと、思えるようになった気がします。
「アランチャ」の曲に象徴される、ルディの「希望の光」は、根拠も無く、無茶と言っていいほどの闇雲な希望です。
アメリカに来たばかりの、18歳のルディの若い「希望」。
多くの職を経て辿り着いた「マキシム」のNO.1ダンサーという仕事を失い、ハリウッドに流れて来て、ジューンに語る前向きな「希望」。
ナターシャとの愛を失い、映画スターとしての栄光も地に墜ちて。孤独の中、ボロボロになりながらも、それでもそこから立ち直り、もう一度新たな道を歩こうとする「希望」。
多くのものを失う度に、彼が抱く「希望」は、力強く、重い意味を持っていく。
「希望」は、簡単に持てるものではなくなって。傷つく事を恐れずに、真っ直ぐに見つめる勇気と、強い意志が無ければ持ち続ける事はできないものだと。
それでも、彼は立ち上がり、「希望」を歌う。
「希望」を抱いて、未来を信じる。
真っ直ぐに、純粋に。
ジョージがルディとジューンを喪った後に思い出す、回想のルディは、どの時代のルディというものではないんですよね。彼の芯にあった「希望」の結晶のようなもの。たとえ肉体を喪っても、彼の「希望と幸福」のアランチャは、ジューンに手渡される。
…そして、ジョージや、彼らの物語を知る、すべての人にも。
どんな状況でも「希望」はいつでも純粋で、ひとしく美しいもので。「アランチャ」は、この物語のルディだけでなく、もっと普遍的な、すべての人が持つ「希望の光」の象徴でもあると思います。ルディの純粋な「希望」の結晶は、この作品を見た人の心の奥にある「希望」をも、照らす光なのだと思うのです。
人間、誰もがそれぞれの「希望」を抱いて、生きている。具体的な形のある”夢”…という程ではなくても。「きっと物事はうまくいく」とか「どこかに幸せが待っている」というような、漠然とした希望でも、心の糧にして生きているものではないかと思うのです。曖昧な形でも、それは祈りのように純粋なものだと。
今まで「当たり前」の事と信じていた”日常”を失って、多くの人が、不安な日々を送る、今。
失って傷ついても、それでも人は何度でも「希望」を持つ事ができるのだと訴えるこの作品を、この時期にやっていてくれた事は本当に有難い事だったと思います。青年館公演が中止になったのは残念ではありますが、それでも。
オオゾラさんは、温かく、力強く、ルディの心の奥にある「希望」を体現して見せて下さって。まるで祈りを捧げるように、真摯にルディを演じる姿に、胸を打たれました。今回は本当に、言葉も無い程に感動しました。
願わくは、事態が落ち着いたところで、なんとか関東で公演して欲しいものです。この関東でこそ、あの美しい「希望の光」を照らして欲しいなぁ。
震災の影響でお亡くなりになられた方々のご冥福を祈りますとともに、被害を受けた方々、その家族の皆さまに心よりお見舞い申し上げます。
やっと三週間…特に最初の一週間は、今までの人生で一番長く感じた一週間だったような気がします。
都内在住で特に大きな被害も無かったのですが、毎日テレビで流れる被害の大きさには茫然とするばかり。強大な自然の力の前で、為すすべもなく翻弄される人間の無力さを、改めて感じる他はありませんでした。
そして次々と引き起こされる二次災害、原発事故。いつまでも続く余震に怯え、原発の被害に怯え。それでも直接の被害にあわれた方々の事を考えたら、命があるだけでも有難い事で。
翌日12日から「ヴァレンチノ」の為の大阪行きの予定だったのですが、結局その週の大阪行きは”自粛”する事となりました。その後の都内の停電と、それに伴う交通機関の混乱に「こんな中で、青年館での公演は難しいだろうなー」と思っていたら、やはり中止の発表。
かなり迷いましたが、予定を少し早めて、ドラマシティ公演に行ってきました。
…行って、良かった。救われました。
「ヴァレンチノ」は、以前にCSで放送されたものを一度見た事があり、物語は覚えている…という程度。オオゾラさんが演じると決まってからは、あえて、もう一度見たりはしませんでした。
最初の観劇時は、杜けあきさんのお芝居や、ミユさん、高嶺さん、古代さん等のお芝居を少しだけ思い出しながら、とても冷静に見ていたと思います。大阪に到着してそのまま劇場に入り、ちょっと落ち着かない状態で席につきまして、そのまま舞台に入り込めなかったのかも。
ところが、二幕のクライマックス、ボロボロになったルディが歌う姿に、打ちのめされました。
「失くした夢の大きさは、失くした時に気付くもの」
この一言に、本当に色々な思いが重なってしまって…。毎日、テレビのニュースでエンドレスで流れる、地震の被害映像も頭に浮かんで…自分自身の事も、無くなった青年館公演も。
そうしたら、突然、泣けてきました。
そして、朝日の訪れと共に「希望」を取り戻すルディの姿に、更に涙。
たとえ、多くのものを失っても。それでも人は、一筋の希望の光に向かって歩いて行ける。強くて、しなやかで、しぶとい力を持っている…その力強い美しさは、素晴らしい説得力となって。胸をギュッと掴まれるような衝撃でした。
それから後は、只々、涙を流し続けました。
ルディとジューンの心の繋がりも、ルディの最後の「チャオ!」も、幻の四人と共に去っていくジューンの姿も、あまりに美しくて。
みーちゃんのジョージの語りかける言葉は、あまりにも優しくて。
そして再び登場したルディの笑顔、アランチャを歌う希望の光が、ジューンに手渡すオレンジの枝が象徴する「希望と幸福」が、あまりにも、純粋な光に満ちていて…。
フィナーレはカッコよく、タンゴの音楽はクールで情熱的で、見とれている間に涙も止まり、呼吸を整える事ができました。
でも、最後に全員で歌う「アランチャ」に満ち溢れる、望郷や希望や哀惜や幸福や…様々な思いが混然となった皆さんの歌声に、また涙。
更にはカーテンコールでのオオゾラさんの挨拶の、真摯で力強い、思いやりに溢れた言葉にも涙を流して、劇場を出る頃にはぐったりしてしまいました。
震災以後、テレビのニュースを見ているだけで、あまりの事に涙が出る…という事をよく聞きました。まあ、私はそういうキャラではないわ、などと思っていたのですが(^^ゞ
でも、人間にとって「泣く」事って、必要な事なんですね。この最初の観劇でたっぷり泣いた後には、不思議と体が軽くなっていました。余震やその他様々な事への怯えの為、ぐっと縮こまって固まっていた体から、力が抜けたのです。同時に、心もぎゅっと固まっていたのが、ほぐれたようです。
目の前の霧がすーーっと晴れたようで、恐怖で曇っていた視界が明るく開けた気がしました。おかげで気持ちも軽くなって、その夜は地震の日のあと初めて、ぐっすりと眠る事ができました。
すべては、祐飛ルディが見せてくれた「希望の光」のちからによって。
このドラマシティメンバーが作り上げて下さった、美しく生き生きとした、ひとときの夢の舞台によって。私は救われました。
今までも、宝塚の舞台に、オオゾラさんの舞台に、慰められ力をもらった事は何度もあったけれども。今回は本当に祐飛さんと宙組の皆さんに感謝しています。
私一人では、ただ恐怖に固まる事しかできなかったのに。
あの舞台から力強い「希望」をもらって、「大丈夫だ」と励まされて、落ち着きを取り戻しました。色々な事に無駄に怯える事なく、現実に向きあっていこうと、思えるようになった気がします。
「アランチャ」の曲に象徴される、ルディの「希望の光」は、根拠も無く、無茶と言っていいほどの闇雲な希望です。
アメリカに来たばかりの、18歳のルディの若い「希望」。
多くの職を経て辿り着いた「マキシム」のNO.1ダンサーという仕事を失い、ハリウッドに流れて来て、ジューンに語る前向きな「希望」。
ナターシャとの愛を失い、映画スターとしての栄光も地に墜ちて。孤独の中、ボロボロになりながらも、それでもそこから立ち直り、もう一度新たな道を歩こうとする「希望」。
多くのものを失う度に、彼が抱く「希望」は、力強く、重い意味を持っていく。
「希望」は、簡単に持てるものではなくなって。傷つく事を恐れずに、真っ直ぐに見つめる勇気と、強い意志が無ければ持ち続ける事はできないものだと。
それでも、彼は立ち上がり、「希望」を歌う。
「希望」を抱いて、未来を信じる。
真っ直ぐに、純粋に。
ジョージがルディとジューンを喪った後に思い出す、回想のルディは、どの時代のルディというものではないんですよね。彼の芯にあった「希望」の結晶のようなもの。たとえ肉体を喪っても、彼の「希望と幸福」のアランチャは、ジューンに手渡される。
…そして、ジョージや、彼らの物語を知る、すべての人にも。
どんな状況でも「希望」はいつでも純粋で、ひとしく美しいもので。「アランチャ」は、この物語のルディだけでなく、もっと普遍的な、すべての人が持つ「希望の光」の象徴でもあると思います。ルディの純粋な「希望」の結晶は、この作品を見た人の心の奥にある「希望」をも、照らす光なのだと思うのです。
人間、誰もがそれぞれの「希望」を抱いて、生きている。具体的な形のある”夢”…という程ではなくても。「きっと物事はうまくいく」とか「どこかに幸せが待っている」というような、漠然とした希望でも、心の糧にして生きているものではないかと思うのです。曖昧な形でも、それは祈りのように純粋なものだと。
今まで「当たり前」の事と信じていた”日常”を失って、多くの人が、不安な日々を送る、今。
失って傷ついても、それでも人は何度でも「希望」を持つ事ができるのだと訴えるこの作品を、この時期にやっていてくれた事は本当に有難い事だったと思います。青年館公演が中止になったのは残念ではありますが、それでも。
オオゾラさんは、温かく、力強く、ルディの心の奥にある「希望」を体現して見せて下さって。まるで祈りを捧げるように、真摯にルディを演じる姿に、胸を打たれました。今回は本当に、言葉も無い程に感動しました。
願わくは、事態が落ち着いたところで、なんとか関東で公演して欲しいものです。この関東でこそ、あの美しい「希望の光」を照らして欲しいなぁ。
ずいぶん長いこと放置しておりました。
前回書いたのが、初日おめでとうございます、なのに。もう東京公演も終わり、次の公演のお稽古も始まってますね。
その間に様々な発表もあり、退団されて、ひと時の夢の世界を旅立つ方々もあり。宝塚の世界は刻々と変わりゆきます。宝塚の舞台は、時の流れや現実世界からひと時離れた、幽玄の別世界だけれども、中の人達も運営する会社も現実世界を生きている。
その二重構造にドキドキしたり、わくわくしたり、ハラハラしたり、メソメソ…していると、あっという間に時は流れていきますね。ほんと、早いわ。
あんまり引きこもりし生活が染みついてきたので、何か少しでも…と思ってみたのですが、何から書けばいいのか(^^ゞ
ちゃんと宙組公演は通っていましたので、その事を書きたいのですけれども…何から書けばいいのか難しいです。
作品の事、柴田先生の脚本の事、木村演出の事、大空ロバートの造形について、野々マリアのキャラ設定、パブロ、ピラールそして蘭寿さんみっちゃんを初めとする宙組の皆様の事、公演で起こった事、思った事。
たくさんあるんですけどねー。あり過ぎちゃってねー。
それに、宙組公演以外も月組「STUDIO54」も楽しかったし、バウには行けなかったけど、映画版「スカーレット・ピンパーネル」は見に行きまして。
やっぱり月組は良いわー月組の芝居を見ると安心する~と、改めて思い知ってみたり。
っていうか、そもそも昨年は後半にはなーんにも書いてないじゃん、とか(汗)
CSでは昨年の中日公演等、見に行けなかった公演の映像をやっと見れたりした事とか。「歌劇」誌の宙組アンケートを読んで、なんだかすごく楽しそう、とか。
宙組さんに出会えて私も幸せだなー、とか。
えーと、ほかはなんだっけ?
まあ、宝塚はこれからも休み無く回り続け、予定は盛りだくさん。
少しでも、書き残していけるといいのですが…。とにかく、何かアップしてみたら、気分も変わるかも…と、挑戦してみました。
前回書いたのが、初日おめでとうございます、なのに。もう東京公演も終わり、次の公演のお稽古も始まってますね。
その間に様々な発表もあり、退団されて、ひと時の夢の世界を旅立つ方々もあり。宝塚の世界は刻々と変わりゆきます。宝塚の舞台は、時の流れや現実世界からひと時離れた、幽玄の別世界だけれども、中の人達も運営する会社も現実世界を生きている。
その二重構造にドキドキしたり、わくわくしたり、ハラハラしたり、メソメソ…していると、あっという間に時は流れていきますね。ほんと、早いわ。
あんまり引きこもりし生活が染みついてきたので、何か少しでも…と思ってみたのですが、何から書けばいいのか(^^ゞ
ちゃんと宙組公演は通っていましたので、その事を書きたいのですけれども…何から書けばいいのか難しいです。
作品の事、柴田先生の脚本の事、木村演出の事、大空ロバートの造形について、野々マリアのキャラ設定、パブロ、ピラールそして蘭寿さんみっちゃんを初めとする宙組の皆様の事、公演で起こった事、思った事。
たくさんあるんですけどねー。あり過ぎちゃってねー。
それに、宙組公演以外も月組「STUDIO54」も楽しかったし、バウには行けなかったけど、映画版「スカーレット・ピンパーネル」は見に行きまして。
やっぱり月組は良いわー月組の芝居を見ると安心する~と、改めて思い知ってみたり。
っていうか、そもそも昨年は後半にはなーんにも書いてないじゃん、とか(汗)
CSでは昨年の中日公演等、見に行けなかった公演の映像をやっと見れたりした事とか。「歌劇」誌の宙組アンケートを読んで、なんだかすごく楽しそう、とか。
宙組さんに出会えて私も幸せだなー、とか。
えーと、ほかはなんだっけ?
まあ、宝塚はこれからも休み無く回り続け、予定は盛りだくさん。
少しでも、書き残していけるといいのですが…。とにかく、何かアップしてみたら、気分も変わるかも…と、挑戦してみました。
初日、おめでとうございます。
2010年11月12日 宝塚宙組大劇場公演「誰がために鐘は鳴る」初日、おめでとうございます。
32年ぶりの大作の再演。プレッシャーなどもあるかとは思いますが、皆様お元気で一ヶ月の公演を楽しんで過ごされますよう、遠い土地で祈っております。
私が大劇場にいけるのは、まだ少し先ですが。ひとまずは、明日のCSニュースの映像が楽しみです。
前回書いたのが「銀ちゃんの恋」全ツの初日前。結局その感想も書かないまま、次の公演が始まってしまいました。書き残しておきたい事は山ほどあったのですが。
…ま、いいか。気が向いたら、また。
32年ぶりの大作の再演。プレッシャーなどもあるかとは思いますが、皆様お元気で一ヶ月の公演を楽しんで過ごされますよう、遠い土地で祈っております。
私が大劇場にいけるのは、まだ少し先ですが。ひとまずは、明日のCSニュースの映像が楽しみです。
前回書いたのが「銀ちゃんの恋」全ツの初日前。結局その感想も書かないまま、次の公演が始まってしまいました。書き残しておきたい事は山ほどあったのですが。
…ま、いいか。気が向いたら、また。
「銀ちゃんの恋」の稽古場映像を見ました。
やはり花組版とは、かなり雰囲気が違う気がします。
でも、銀ちゃんは銀ちゃん。この世界観が懐かしくて愛しくて、ドキドキしました。
この演目が発表された時には、正直、もっと別な新しい演目が見たかったなーと思ったのですが。
なんだか良さそうですね、宙組版「銀ちゃんの恋」(^^)
この仲間達と作る「銀ちゃん」はどのように変わるのか、変わらない所はどこか。
そして、トップコンビとして演じる銀ちゃんと小夏との関係性は、どのように変化していくのか。
僅かな映像でも、すみ花ちゃんの小夏は前作とは大きく違っている事が見て取れます。ヤスのキャラの違いも大きいでしょうしね。楽しみだなー。
稽古場映像が流れるという事は、初日までもうすぐなんですね。
…前回の更新から二ヶ月を超え、結局一公演、ばっくれてしまいました(^^ゞ
「TRAFALGAR(トラファルガー)」も「ファンキー・サンシャイン」も大好きな公演で、がっつり楽しんで…書いてる余裕が無かったのでした。
色々考える事もあり、書きたい事も多くて追いつかずにフリーズ。「シャングリラ」からそんな状態です。もう、何を書く気だったのか思い出せないけど。
公演サイクルが早くてついていけない…けれども、次の公演は始まるのですね。
月組の大劇場公演の稽古場映像が流れて、もう、次の公演が始まるのだなーと、しみじみ。やっぱり、月組の芝居は好き。僅かの映像でも、久しぶりに月組生のお顔を見て安心しました。東京まで待機だけど、待ち遠しいです。
ともかく、もう始まるんだ。MY初日は、武蔵野公演。体調を万全に整えて、その日を待っています!
やはり花組版とは、かなり雰囲気が違う気がします。
でも、銀ちゃんは銀ちゃん。この世界観が懐かしくて愛しくて、ドキドキしました。
この演目が発表された時には、正直、もっと別な新しい演目が見たかったなーと思ったのですが。
なんだか良さそうですね、宙組版「銀ちゃんの恋」(^^)
この仲間達と作る「銀ちゃん」はどのように変わるのか、変わらない所はどこか。
そして、トップコンビとして演じる銀ちゃんと小夏との関係性は、どのように変化していくのか。
僅かな映像でも、すみ花ちゃんの小夏は前作とは大きく違っている事が見て取れます。ヤスのキャラの違いも大きいでしょうしね。楽しみだなー。
稽古場映像が流れるという事は、初日までもうすぐなんですね。
…前回の更新から二ヶ月を超え、結局一公演、ばっくれてしまいました(^^ゞ
「TRAFALGAR(トラファルガー)」も「ファンキー・サンシャイン」も大好きな公演で、がっつり楽しんで…書いてる余裕が無かったのでした。
色々考える事もあり、書きたい事も多くて追いつかずにフリーズ。「シャングリラ」からそんな状態です。もう、何を書く気だったのか思い出せないけど。
公演サイクルが早くてついていけない…けれども、次の公演は始まるのですね。
月組の大劇場公演の稽古場映像が流れて、もう、次の公演が始まるのだなーと、しみじみ。やっぱり、月組の芝居は好き。僅かの映像でも、久しぶりに月組生のお顔を見て安心しました。東京まで待機だけど、待ち遠しいです。
ともかく、もう始まるんだ。MY初日は、武蔵野公演。体調を万全に整えて、その日を待っています!
おめでとうございます!!
2010年6月22日 宙組もう昨日のことですが、宙組大劇場公演千秋楽おめでとうございます。
私は行けなかったので、昨夜は多くの方が書いて下さる、有難い千秋楽報告を色々読ませていただいてちょっと寝不足です。
そして、今日はCSニュースで抜粋を見て。…やっぱり、アリスちゃん、くらっち、ちさちゃんの退団は間違いの無い事なんだな、と思い知り。遠い土地にいて随分前に私の大劇場観劇が終わっているので、なんだかもう夢の中の事のように思っていたらしいです。
…アリスちゃんの挨拶は本当にかっこいいわ。こんなにもカッコいい女性なのですもの。やはり「可愛い妹ちゃん」ばかりでなく、もっとカッコいい女の子の役にあたる事で、この男前な魅力もいかす事ができただろうに勿体無い…と残念に思います。
東京公演では、思い残す事の無いようにしっかり見させていただきます。
公演の様子を見ても、私が大劇場で見た時よりも格段によくなっている模様。なんか、ものすごく良い公演になっているのではありませんか?
東京公演が益々楽しみになりました。もう少しだ!
そして、もう一つ。日付が変わる前に。
大空祐飛さん、お誕生日おめでとうございます。
のんびりケーキでお祝いしてたら、またギリギリになってしまった(^^ゞ
宙組の皆さんに囲まれて、幸せそうな笑顔の千秋楽映像を見て、私も本当に幸せを噛締めました(ケーキと共に(^^)
いま、充実したこの時間、オオゾラさんはいっぱい幸せを感じておられる事と思います。
毎年のこの日、幸せな充実したこの歳を…と祈ってきましたが。今、間違いなく幸せで充実したこの歳。今までの努力が花開いたこの環境で、ずっとやりたかった事を実現して、更に充実した一年を満喫して下さいね。
どうか、お体だけは大事になさって、豊かな時を過ごされますよう祈っております。
私は行けなかったので、昨夜は多くの方が書いて下さる、有難い千秋楽報告を色々読ませていただいてちょっと寝不足です。
そして、今日はCSニュースで抜粋を見て。…やっぱり、アリスちゃん、くらっち、ちさちゃんの退団は間違いの無い事なんだな、と思い知り。遠い土地にいて随分前に私の大劇場観劇が終わっているので、なんだかもう夢の中の事のように思っていたらしいです。
…アリスちゃんの挨拶は本当にかっこいいわ。こんなにもカッコいい女性なのですもの。やはり「可愛い妹ちゃん」ばかりでなく、もっとカッコいい女の子の役にあたる事で、この男前な魅力もいかす事ができただろうに勿体無い…と残念に思います。
東京公演では、思い残す事の無いようにしっかり見させていただきます。
公演の様子を見ても、私が大劇場で見た時よりも格段によくなっている模様。なんか、ものすごく良い公演になっているのではありませんか?
東京公演が益々楽しみになりました。もう少しだ!
そして、もう一つ。日付が変わる前に。
大空祐飛さん、お誕生日おめでとうございます。
のんびりケーキでお祝いしてたら、またギリギリになってしまった(^^ゞ
宙組の皆さんに囲まれて、幸せそうな笑顔の千秋楽映像を見て、私も本当に幸せを噛締めました(ケーキと共に(^^)
いま、充実したこの時間、オオゾラさんはいっぱい幸せを感じておられる事と思います。
毎年のこの日、幸せな充実したこの歳を…と祈ってきましたが。今、間違いなく幸せで充実したこの歳。今までの努力が花開いたこの環境で、ずっとやりたかった事を実現して、更に充実した一年を満喫して下さいね。
どうか、お体だけは大事になさって、豊かな時を過ごされますよう祈っております。
大空祐飛写真集「I’m here」
2010年6月17日 ファンモード大空祐飛写真集「I’m here」ちゃんと、発売日に買いに行きましたよ。
まずは、我慢できなくて、店頭でパラパラと全部見てからレジに並びまして。
家に帰ってから、ゆっくり眺めてみました。
まず、立ち読みした時には、極彩色の蜷川ワールドが印象的で。
「モノクロページは大空祐飛ターン。カラーページは蜷川実花ターン」だなーと思ったのです。しかし、今、じっくり眺めているうちに印象は違ってきました。
カラーページの、いかにも蜷川さんんらしい極彩色のなか、男役「大空祐飛」はドラマを語っている。具体的に役柄を作り込んでいるワケではなくとも、その存在そのものが「劇的」で。
最後の銀ちゃんのページなんかは、完全に「男性」として芝居をしていますしね。あの歩き方!肩のすぼめ具合や、膝の曲げ方など、本当に生身の男性のリアリティがあります。このままヤクザ映画で男優の方に混じっていても、違和感なさそうです^^;
スーツ姿のターンも、いかにも男役らしい写真かと思いきや、写真によって違う人物を演じているよね?というのも面白かったなー。
どの写真も、蜷川実花ワールドの中にきっちり作りこんだ「大空祐飛」の世界が、息づいている。
そして、モノクロページは。大変におこがましい言い方なんですが。
蜷川実花さんって、本当にすごい写真家さんなんだなーと、改めて思わされました。私は美術とか全然分からない人間ですが、それでも、モノクロ画面の美しさとか、全体のバランスとか、プロのアーティストとしてのクオリティの高さを感じました。背景の無い白い部分がすっと消えていくような感じの広がりとかすごく良いですよね。
そして、被写体を真っ直ぐに捕まえる”目”のチカラのようなもの。
何枚かある、こちらをジッと見つめているような写真。写真家というのは人物の本質を捉えるものなんだなーと。こういう目ヂカラの「大空祐飛」の写真は初めてみました。静かで優しくて、ストレートな力。
私は昔から男役・大空祐飛の事を「限りなく二次元に近い三次元の存在」だと思っていまして。そもそも宝塚の男役というのは、そういうものだと思いますが、中でもこの人はフィクション度の高い、二次元に近い人だと。
その二次元に近い部分を、ナマの舞台では三次元の生身の存在として感じるのが、宝塚の面白いところではあるのですが。
でも、その存在が写真として二次元の世界に落とし込まれると、なんだか安心できる気がします(^^ゞ
だから私はオオゾラさんの写真が好きなんだろうなーと、たまに思います。
そして、まさにこの写真集は二次元ワールド。架空の存在である「男役」のフィクション性を大空祐飛なりに追及したもののような気がして、大変気に入りました。
また更に眺めていると、違った感想が生まれるかも。
そして、最後のページは、笑顔で歩み去っていく写真というのが嬉しかったな。
お約束な構成だけど、「また、舞台で会おうね」と思いました(^^)
まずは、我慢できなくて、店頭でパラパラと全部見てからレジに並びまして。
家に帰ってから、ゆっくり眺めてみました。
まず、立ち読みした時には、極彩色の蜷川ワールドが印象的で。
「モノクロページは大空祐飛ターン。カラーページは蜷川実花ターン」だなーと思ったのです。しかし、今、じっくり眺めているうちに印象は違ってきました。
カラーページの、いかにも蜷川さんんらしい極彩色のなか、男役「大空祐飛」はドラマを語っている。具体的に役柄を作り込んでいるワケではなくとも、その存在そのものが「劇的」で。
最後の銀ちゃんのページなんかは、完全に「男性」として芝居をしていますしね。あの歩き方!肩のすぼめ具合や、膝の曲げ方など、本当に生身の男性のリアリティがあります。このままヤクザ映画で男優の方に混じっていても、違和感なさそうです^^;
スーツ姿のターンも、いかにも男役らしい写真かと思いきや、写真によって違う人物を演じているよね?というのも面白かったなー。
どの写真も、蜷川実花ワールドの中にきっちり作りこんだ「大空祐飛」の世界が、息づいている。
そして、モノクロページは。大変におこがましい言い方なんですが。
蜷川実花さんって、本当にすごい写真家さんなんだなーと、改めて思わされました。私は美術とか全然分からない人間ですが、それでも、モノクロ画面の美しさとか、全体のバランスとか、プロのアーティストとしてのクオリティの高さを感じました。背景の無い白い部分がすっと消えていくような感じの広がりとかすごく良いですよね。
そして、被写体を真っ直ぐに捕まえる”目”のチカラのようなもの。
何枚かある、こちらをジッと見つめているような写真。写真家というのは人物の本質を捉えるものなんだなーと。こういう目ヂカラの「大空祐飛」の写真は初めてみました。静かで優しくて、ストレートな力。
私は昔から男役・大空祐飛の事を「限りなく二次元に近い三次元の存在」だと思っていまして。そもそも宝塚の男役というのは、そういうものだと思いますが、中でもこの人はフィクション度の高い、二次元に近い人だと。
その二次元に近い部分を、ナマの舞台では三次元の生身の存在として感じるのが、宝塚の面白いところではあるのですが。
でも、その存在が写真として二次元の世界に落とし込まれると、なんだか安心できる気がします(^^ゞ
だから私はオオゾラさんの写真が好きなんだろうなーと、たまに思います。
そして、まさにこの写真集は二次元ワールド。架空の存在である「男役」のフィクション性を大空祐飛なりに追及したもののような気がして、大変気に入りました。
また更に眺めていると、違った感想が生まれるかも。
そして、最後のページは、笑顔で歩み去っていく写真というのが嬉しかったな。
お約束な構成だけど、「また、舞台で会おうね」と思いました(^^)
男はロマンを追い、女ロマンティックを求めるーTRAFALGAR(トラファルガー)-
2010年6月15日 宙組一ヶ月、引きこもりしてました。
いや。当ブログの事で、一応最低限の日常生活は送っておりますし、宙組大劇場公演にも行ってきました。
でも、なんか、感想書く気にならなくて(^^ゞ
一度止まってしまうと、なかなか書き出せなくなるんですよねー。こんなネット世界の果ての果てのブログなんて、無くてもいいかなーと。だからといって「もうやめます!」というほどでもないのですが。なんとなーくずるずると書かないで、なんとなーく書き出してみます。
えーと、前回に書いてから色々な事がありましたね。
東宝では、まだ花組公演を一回見て、新公を見た所で止まってるし。結局、その後、花組公演を見る事はできず、感想も書きたいなーと思っているうちに、月組公演が始まり。まさおショーヴランを一回だけ見てきました。新公も無事に見れる予定。
それからラインナップの小出し発表に、キムちゃんの内定発表も。色々、ありましたね。
雪組新公主演&ヒロイン発表の日には、思わず「世界は複雑ね、ロジェ…」とだけ、呟こうかと思いましたが。
懐かしい「螺旋のオルフェ」の、ゆらさんの台詞です。
初めて見た時には「かっこいい台詞だわ~。宝塚でこういう台詞使いができるなんて!」と感動した、荻田浩一氏の台詞。その衝撃は、子供の頃に「認めたくないものだな、若さゆえの過ちというものは。」という台詞を、初めてテレビアニメで見た時と同じくらいのインパクトがありました(^^ゞ
ロジェって、実在のスパイの名前かなんかでしょうかね?
・・・こんな切れ端の文章だけを残して、挫折していました。
そんなヨタ話はともかく。
ちゃんと宙組公演「TRAFALGAR(トラファルガー)-ネルソン、その愛と奇跡-」「ファンキー・サンシャイン」の感想。
二週連続で遠征しまして、「一週間での公演の成長っぷりがすごくて、びっくり!」というのが、まず何よりの感想です。いや、遠征なので土日で連続して4回見て、その一回一回で大きく成長している公演でした。
…というわけで、感想も書きにくい。最初の週に見た公演と翌週に見た公演では、別ものくらいに違うものだったから。
今更、初見の印象との違いを書いても、きっと今、大劇場で公演されている作品は違っていると思うしね。
そして、おそらくは東京に来る頃には、また違うものになっているだろうしなー。
「カサブランカ」も「シャングリラ」でも、毎回すごく成長していましたが、なんか今回はちょっとそれとは違う感じ。お芝居もショーも、まだ固まってないから、かな?東京に来る頃には安定してきているのかもしれない。
とはいえ、もう大劇場には行けないので、私が見てきた時点での感想をひとこと。
まず、お芝居の「TRAFALGAR(トラファルガー)-ネルソン、その愛と奇跡-」。初日を見た友人達みんなから、「サイトー君が大人になった」と言われて臨んだ初観劇。確かに。今まで「オモシロ世界文学」とか、「カッコいいけど、トンデモ作品」などの齋藤先生のイメージを覆す、真面目な宝塚作品。
「清く正しく美しい」宝塚らしく、史実を曲げても英雄の活躍と純愛を描いた、おカタイ歴史もの。むしろ宝塚の古典作品?というか。
初見は、ひたすら真面目に歴史を描いて展開していく物語に驚きつつ「チェーザレ・ボルジア」みたい・・・と、思いました。
演技派久世さんの為に書かれた「チェーザレ」は、禁断の愛と野心に満ちた色濃い作品になるかと思いきや。真面目に理想の為に戦い、ヒロインが実の妹の為、恋愛も無しで、相手役は夏川ゆらさん???二番手のマミさんは、ひたすら歴史を説明するナレーター???という、とっても真面目な歴史作品となった「チェーザレ・ボルジア」。柴田先生の作品としては、ちょっと拍子抜けしてしまった感のあるチェーザレを思い出しながら見ていました。
でも、次の週に見た時はかなり印象が変わっていました。
初見に感じた堅苦しさは無く。最初は詰め込み過ぎに感じたエピソードは、多くの人々の想いを積み重ね、ラストの「トラファルガー海戦」=英雄の最期に向かって、うねるようになだれ込む、勢いのある物語になっている…と、感じました。物語が身体に入ってからのほうが、のめり込める作品、というのもあるでしょうが。
やはり、作品を生かすも殺すも、出演者次第なんだなーと、改めて思ったりして。
もう一つ印象的だったのが、結構ちゃんと恋愛物語が書き込まれている事。
…いやぁ、本当にオトナになったなー、齋藤先生。
まだ、以前からの少年漫画的恋愛を引きずってはいますし、意外に恋愛体質なトップコンビが、勝手にやってる部分もある気がしますが(^^ゞ
ネルソン・エマ・ウィリアム・ファニーの、四人の想いがそれぞれに理解できて、切ない。
今まで齋藤オリジナル作品の恋愛部分は、何が言いたいのか、さっぱり意味が分からなかった事が多いですから。まず「気持ちが分かる」事に吃驚です^^;
物語の始まり。すみ花ちゃんの「イギリス大使夫人になった」というモノローグにあわせて、孤独と諦念の色に、すーっと変化する瞳に心を持っていかれます。この一瞬で、エマの心の全てを語ってしまう、さすがは天才の技!
この若くて可愛いくて才気あふれる妻を、46歳のウィリアム叔父様はどう扱っていいか分からなくて、遠くから眺めるだけだったんだろうなーとか。
女神像として祀られても、生身の人間は普通困るよね、とか。
戦争バカのホレイショ君は、「もう!!」と言いながら、その不器用さに突っ込みをいれてくれる相手のほうが付き合い易かったんだよね、とか。
田舎に引っ込んで義父の面倒をみながら、話し相手も無く孤独な生活を送るファニーは、ただただ、もっとかまって欲しかっただけなんだよね、とか。
どの人物も、分からない事を言わない。本当に吃驚です。
でも、やはり私も女なので、エマとファニーの二人の女性のそれぞれの孤独に、感情移入しちゃうかな。
ともかく、宙組男役の皆さんの軍服姿は完璧にカッコよく、男達の戦いのドラマは熱くて。恋愛部分も史実の不思議な関係を描いて欲しかった気もするけれど、宝塚らしくキレイに纏まっていて。
高校生の頃から考えていた、フィクションの傾向と対策「男はロマンを追い、女ロマンティックを求める」に、見事に一致する作品でした。
英雄と呼ばれる海の男ホレイショ・ネルソンにとって、エマはロマンであり、ファニーは彼にロマンティックを求めたのが間違いだったのかなーと。
ウィリアムはロマンを追い過ぎて、女神像として奉ったりしたから、逃げられちゃったのね^^;
さて、とりあえず忘れないうちに記録のみで時間切れです。ショーのほうは、また今度。
いや。当ブログの事で、一応最低限の日常生活は送っておりますし、宙組大劇場公演にも行ってきました。
でも、なんか、感想書く気にならなくて(^^ゞ
一度止まってしまうと、なかなか書き出せなくなるんですよねー。こんなネット世界の果ての果てのブログなんて、無くてもいいかなーと。だからといって「もうやめます!」というほどでもないのですが。なんとなーくずるずると書かないで、なんとなーく書き出してみます。
えーと、前回に書いてから色々な事がありましたね。
東宝では、まだ花組公演を一回見て、新公を見た所で止まってるし。結局、その後、花組公演を見る事はできず、感想も書きたいなーと思っているうちに、月組公演が始まり。まさおショーヴランを一回だけ見てきました。新公も無事に見れる予定。
それからラインナップの小出し発表に、キムちゃんの内定発表も。色々、ありましたね。
雪組新公主演&ヒロイン発表の日には、思わず「世界は複雑ね、ロジェ…」とだけ、呟こうかと思いましたが。
懐かしい「螺旋のオルフェ」の、ゆらさんの台詞です。
初めて見た時には「かっこいい台詞だわ~。宝塚でこういう台詞使いができるなんて!」と感動した、荻田浩一氏の台詞。その衝撃は、子供の頃に「認めたくないものだな、若さゆえの過ちというものは。」という台詞を、初めてテレビアニメで見た時と同じくらいのインパクトがありました(^^ゞ
ロジェって、実在のスパイの名前かなんかでしょうかね?
・・・こんな切れ端の文章だけを残して、挫折していました。
そんなヨタ話はともかく。
ちゃんと宙組公演「TRAFALGAR(トラファルガー)-ネルソン、その愛と奇跡-」「ファンキー・サンシャイン」の感想。
二週連続で遠征しまして、「一週間での公演の成長っぷりがすごくて、びっくり!」というのが、まず何よりの感想です。いや、遠征なので土日で連続して4回見て、その一回一回で大きく成長している公演でした。
…というわけで、感想も書きにくい。最初の週に見た公演と翌週に見た公演では、別ものくらいに違うものだったから。
今更、初見の印象との違いを書いても、きっと今、大劇場で公演されている作品は違っていると思うしね。
そして、おそらくは東京に来る頃には、また違うものになっているだろうしなー。
「カサブランカ」も「シャングリラ」でも、毎回すごく成長していましたが、なんか今回はちょっとそれとは違う感じ。お芝居もショーも、まだ固まってないから、かな?東京に来る頃には安定してきているのかもしれない。
とはいえ、もう大劇場には行けないので、私が見てきた時点での感想をひとこと。
まず、お芝居の「TRAFALGAR(トラファルガー)-ネルソン、その愛と奇跡-」。初日を見た友人達みんなから、「サイトー君が大人になった」と言われて臨んだ初観劇。確かに。今まで「オモシロ世界文学」とか、「カッコいいけど、トンデモ作品」などの齋藤先生のイメージを覆す、真面目な宝塚作品。
「清く正しく美しい」宝塚らしく、史実を曲げても英雄の活躍と純愛を描いた、おカタイ歴史もの。むしろ宝塚の古典作品?というか。
初見は、ひたすら真面目に歴史を描いて展開していく物語に驚きつつ「チェーザレ・ボルジア」みたい・・・と、思いました。
演技派久世さんの為に書かれた「チェーザレ」は、禁断の愛と野心に満ちた色濃い作品になるかと思いきや。真面目に理想の為に戦い、ヒロインが実の妹の為、恋愛も無しで、相手役は夏川ゆらさん???二番手のマミさんは、ひたすら歴史を説明するナレーター???という、とっても真面目な歴史作品となった「チェーザレ・ボルジア」。柴田先生の作品としては、ちょっと拍子抜けしてしまった感のあるチェーザレを思い出しながら見ていました。
でも、次の週に見た時はかなり印象が変わっていました。
初見に感じた堅苦しさは無く。最初は詰め込み過ぎに感じたエピソードは、多くの人々の想いを積み重ね、ラストの「トラファルガー海戦」=英雄の最期に向かって、うねるようになだれ込む、勢いのある物語になっている…と、感じました。物語が身体に入ってからのほうが、のめり込める作品、というのもあるでしょうが。
やはり、作品を生かすも殺すも、出演者次第なんだなーと、改めて思ったりして。
もう一つ印象的だったのが、結構ちゃんと恋愛物語が書き込まれている事。
…いやぁ、本当にオトナになったなー、齋藤先生。
まだ、以前からの少年漫画的恋愛を引きずってはいますし、意外に恋愛体質なトップコンビが、勝手にやってる部分もある気がしますが(^^ゞ
ネルソン・エマ・ウィリアム・ファニーの、四人の想いがそれぞれに理解できて、切ない。
今まで齋藤オリジナル作品の恋愛部分は、何が言いたいのか、さっぱり意味が分からなかった事が多いですから。まず「気持ちが分かる」事に吃驚です^^;
物語の始まり。すみ花ちゃんの「イギリス大使夫人になった」というモノローグにあわせて、孤独と諦念の色に、すーっと変化する瞳に心を持っていかれます。この一瞬で、エマの心の全てを語ってしまう、さすがは天才の技!
この若くて可愛いくて才気あふれる妻を、46歳のウィリアム叔父様はどう扱っていいか分からなくて、遠くから眺めるだけだったんだろうなーとか。
女神像として祀られても、生身の人間は普通困るよね、とか。
戦争バカのホレイショ君は、「もう!!」と言いながら、その不器用さに突っ込みをいれてくれる相手のほうが付き合い易かったんだよね、とか。
田舎に引っ込んで義父の面倒をみながら、話し相手も無く孤独な生活を送るファニーは、ただただ、もっとかまって欲しかっただけなんだよね、とか。
どの人物も、分からない事を言わない。本当に吃驚です。
でも、やはり私も女なので、エマとファニーの二人の女性のそれぞれの孤独に、感情移入しちゃうかな。
ともかく、宙組男役の皆さんの軍服姿は完璧にカッコよく、男達の戦いのドラマは熱くて。恋愛部分も史実の不思議な関係を描いて欲しかった気もするけれど、宝塚らしくキレイに纏まっていて。
高校生の頃から考えていた、フィクションの傾向と対策「男はロマンを追い、女ロマンティックを求める」に、見事に一致する作品でした。
英雄と呼ばれる海の男ホレイショ・ネルソンにとって、エマはロマンであり、ファニーは彼にロマンティックを求めたのが間違いだったのかなーと。
ウィリアムはロマンを追い過ぎて、女神像として奉ったりしたから、逃げられちゃったのね^^;
さて、とりあえず忘れないうちに記録のみで時間切れです。ショーのほうは、また今度。
気が付けば、月組大劇場公演も明日までなんですね。
という事は、宙組初日も、もうすぐ。早いなーって、この日記の中でこの言葉が使われない記事があるのでしょうか^^;
ゴールデンウィークが終わって、ぼんやりしている間に…。花組本公演も星組全ツも見ましたが、このまま書けないままかもしれない。
ま、宙組公演始まっても、私が見に行けるのはちょっと先なのですが。でも、初日の幕が開く前に、「シャングリラ」の事は終わらせておくべきですよね。
そして、明日からもう「銀ちゃんの恋」の友の会の入力が始まるのですね。本公演以外は入力期間が短いのって、何か意味があるのでしょうか。不便だわ。
そして、他の出演者は?全員の振り分けは無理といわれればともかく。ヤスだけは発表して下さいよ、歌劇団。事実上の主役なんだしね(-_-;)
という事は、宙組初日も、もうすぐ。早いなーって、この日記の中でこの言葉が使われない記事があるのでしょうか^^;
ゴールデンウィークが終わって、ぼんやりしている間に…。花組本公演も星組全ツも見ましたが、このまま書けないままかもしれない。
ま、宙組公演始まっても、私が見に行けるのはちょっと先なのですが。でも、初日の幕が開く前に、「シャングリラ」の事は終わらせておくべきですよね。
そして、明日からもう「銀ちゃんの恋」の友の会の入力が始まるのですね。本公演以外は入力期間が短いのって、何か意味があるのでしょうか。不便だわ。
そして、他の出演者は?全員の振り分けは無理といわれればともかく。ヤスだけは発表して下さいよ、歌劇団。事実上の主役なんだしね(-_-;)
花組公演『虞美人』-新たなる伝説- 新人公演
2010年5月15日 花組花組公演『虞美人』-新たなる伝説-を見てきました。
簡単な感想をメモしておこうと思いつつできなかったのに、新人公演も見てしまいました。今回も、事前情報はあまり調べずに、感想なども読まずに観劇。
新人公演は、それぞれの役がまったく違うアプローチで作られていて、かなり印象の違うお芝居になっていました。
一言で言うなら、壮大な「中国歴史英雄譚」である本公演に対して、激動の時代に生きた人々の「人間ドラマ」だった新人公演、というイメージでした。
「大王四神紀」の新人公演もそういった部分がありましたが、やはり壮大なスケール感というのは、経験値によるものが大きいのでしょうね。
そのぶんキメ細やかな人間ドラマに絞って、”大きさ”よりも”深さ”を追求した今回の新公は、成功だったと思います。
しかし、花組生の充実は本当に素晴らしいですね。本公演は勿論、新人公演もここまでレベルの高い舞台が見られるとは。
かなりの下級生でも、ハジからハジまで何処を見ても、本当に皆さん上手い。そして、美しい!男役はカッコよく娘役は可愛らしく、みんなキラキラしていて、ときめいて見ていられました。
そして本公演を見ている時には、私的にはどうにもノリきれなかったこの公演が、新公の”人間ドラマ”を見て、かなり納得できる部分がありました。
納得したといっても、本公演とはまるでアプローチが違う解釈ですが。
本公演と新公の一番の違いは、主人公・項羽と、タイトルロール「虞美人」のありかただと思います。
新公・項羽の鳳真由ちゃんは、ずっと線が細く幼い、丸顔の男役さんというイメージだったのですが、今回の項羽はそのイメージを覆してくれました。真っ直ぐでおおらかな、力強い芝居。正しく誠実な、真っ直ぐに強い心を舞台にぶつけるような芝居が、項羽の姿に重なって、輝くばかりの英雄ぶりでした。今まで、ちょっと喉に詰まるような喋り方だったのが、声がまっすぐに前に出ていてストレートに台詞が伝わったのも、すごく良かったと思います。
やはり若さは感じるものの、それも理想を追う若き英雄の姿として見せて、好印象。こういう”真ん中の男役”を、次々と輩出できるところが、花組の強みですよね。
本公演の真飛さんの項羽は、英雄の苛烈なまでの正しき生き様を強調しているような印象でしたが、真由ちゃんの項羽はあまり苛烈とも激しいとも思わなかった。技術的な面も勿論あると思いますが、理想を追う姿に”ロマン”のようなものを感じたから。項羽は彼なりの夢を追う為に戦っている、という解釈なのかな~と思ったのですが、どうでしょう?まあ、真ん中の戦いの場面がカットされた事も大きいと思いますが。
そして、私的に大ヒットだったのが、天咲 千華ちゃんの虞美人。すごく印象的だったのが、冒頭、項羽が会いに来たときの場面。
項羽が斬られたと聞いて初めて、この男を愛するという事、武人の妻になるという事が、今後ずっと愛する人の無事を心配しながら待たなければならない事だと、理解していく姿でした。たとえ知人が(どういう関係だったのか謎ですが^^;)殺されたとしても、その死を悼むよりも何よりも、項羽が無事だった深い喜びが勝る事。
新婚初夜を待っていた若い娘には、ちょっと重過ぎる状況です。その心の揺れを本当に魅力的に見せてくれて、もうグッと心を掴まれましたね。
そして彼女は、自分の為に項羽の命を危うくした事の辛さ、自分の心を疑われた怒りと悲しみ…それらを全て受けとめる為に、命を懸ける覚悟を、する。
冒頭のこの場面がラストシーンに繋がるんだーと思った事で、この作品世界が一気に見えた気がしました。こんな話だったんだ、「虞美人」。
この時彼女は決意する。「二度と自分の為に、項羽の身を危うくする事はできない。勿論、他の男に触れられる事も無い」それが、新人公演版「虞美人」なんだと思いました。
あまちゃき虞美人は本当に健気で、まっすぐ。鳳真由ちゃんも、真っ直ぐで誠実で、そして二人とも情があって芝居が優しくて、なかなか良いコンビでしたね。初主演のまゆちゃん、経験豊富なあまちゃきが相手役で本当に幸運だったと思います。力強いサポートで、二人の舞台世界を作れたんじゃないかな。
虞が命を絶った後の項羽の芝居は、本当に良かったです。彼女の想いも分かった上で、彼なりに「強く」戦う姿にじーんときました。最期の場面の、「やっと」というホッとした風情も良かった。ラストのカタルシスをきっちり見せたのは、新公初主演としては「今後に期待させる出来」だったのではないかと思います。
あまちゃき虞美人で忘れてならないのが、もう一つの見せ場。呂夫人との「奥様対決」でした。梅咲 衣舞ちゃんの呂は、劉邦の死の場面から始まる本公演とは違って、怖くはない普通の女性。
強い信念と劉邦への愛を持ってはいるけれど、怖れも弱さも持ち、それを乗り越えて生きている。そんなリアルな血の通った女性像を、抑えた芝居でくっきり見せてくれました。本公演の「魍魎跋扈」という対決より、ちょっとトーンダウンした印象ではありますが^^;
ここでは桃娘も韓信の妻としていますから、立場も考え方も違う、三人の武将の妻を対比させつつ、戦乱の世の中の女性達の悲しみを表現して、新公レベルを超えた素晴らしい場面になったと思います。衣舞ちゃん、上手い事は十分に知っておりましたが、今まであまり活躍の場を与えられなかったので、ここまで上手かったのか…と感心しました。
そして、もう一人のタイトルロール、劉邦は瀬戸 かずや君。こちらも良かったですねー。
やはり、大柄でカッコいいし、線の細い夢見る項羽に対して、骨太でリアル感のあるアキラ劉邦の対比が面白かったです。
わりと本役の壮君と似たイメージの役作りではありましたが、もっと大らかで素朴な印象。壮君の劉邦はあまりにキレイで、畑を耕す姿は想像できないけれど、アキラ君はいつでも畑に戻れそう^^;そんな所が民衆に愛され、そのこだわりの無さが逆に、身一つでいくらでも這い上がれる劉邦の強さに繋がるんだなーと、納得。
「私は誰も愛していない」と嘆いても、本当の心の底には愛情が溢れている印象でした。今まではただ、自分の事を優先しただけ…これからは、もっと周りの皆にも気を使うから、みたいな。その優しさが、本公演に比べるとスケールダウンする所なのかもしれませんが、やはり愛しい劉邦でした。
さて、二組の夫婦について書いたところで、時間切れです。
桃娘の実咲 凜音ちゃんが、上手くて舞台度胸満点でかなり印象に残りました。幕間コントも可愛かったし…他にも、印象に残って書きたい人々はいますが、今日はこのへんで。
簡単な感想をメモしておこうと思いつつできなかったのに、新人公演も見てしまいました。今回も、事前情報はあまり調べずに、感想なども読まずに観劇。
新人公演は、それぞれの役がまったく違うアプローチで作られていて、かなり印象の違うお芝居になっていました。
一言で言うなら、壮大な「中国歴史英雄譚」である本公演に対して、激動の時代に生きた人々の「人間ドラマ」だった新人公演、というイメージでした。
「大王四神紀」の新人公演もそういった部分がありましたが、やはり壮大なスケール感というのは、経験値によるものが大きいのでしょうね。
そのぶんキメ細やかな人間ドラマに絞って、”大きさ”よりも”深さ”を追求した今回の新公は、成功だったと思います。
しかし、花組生の充実は本当に素晴らしいですね。本公演は勿論、新人公演もここまでレベルの高い舞台が見られるとは。
かなりの下級生でも、ハジからハジまで何処を見ても、本当に皆さん上手い。そして、美しい!男役はカッコよく娘役は可愛らしく、みんなキラキラしていて、ときめいて見ていられました。
そして本公演を見ている時には、私的にはどうにもノリきれなかったこの公演が、新公の”人間ドラマ”を見て、かなり納得できる部分がありました。
納得したといっても、本公演とはまるでアプローチが違う解釈ですが。
本公演と新公の一番の違いは、主人公・項羽と、タイトルロール「虞美人」のありかただと思います。
新公・項羽の鳳真由ちゃんは、ずっと線が細く幼い、丸顔の男役さんというイメージだったのですが、今回の項羽はそのイメージを覆してくれました。真っ直ぐでおおらかな、力強い芝居。正しく誠実な、真っ直ぐに強い心を舞台にぶつけるような芝居が、項羽の姿に重なって、輝くばかりの英雄ぶりでした。今まで、ちょっと喉に詰まるような喋り方だったのが、声がまっすぐに前に出ていてストレートに台詞が伝わったのも、すごく良かったと思います。
やはり若さは感じるものの、それも理想を追う若き英雄の姿として見せて、好印象。こういう”真ん中の男役”を、次々と輩出できるところが、花組の強みですよね。
本公演の真飛さんの項羽は、英雄の苛烈なまでの正しき生き様を強調しているような印象でしたが、真由ちゃんの項羽はあまり苛烈とも激しいとも思わなかった。技術的な面も勿論あると思いますが、理想を追う姿に”ロマン”のようなものを感じたから。項羽は彼なりの夢を追う為に戦っている、という解釈なのかな~と思ったのですが、どうでしょう?まあ、真ん中の戦いの場面がカットされた事も大きいと思いますが。
そして、私的に大ヒットだったのが、天咲 千華ちゃんの虞美人。すごく印象的だったのが、冒頭、項羽が会いに来たときの場面。
項羽が斬られたと聞いて初めて、この男を愛するという事、武人の妻になるという事が、今後ずっと愛する人の無事を心配しながら待たなければならない事だと、理解していく姿でした。たとえ知人が(どういう関係だったのか謎ですが^^;)殺されたとしても、その死を悼むよりも何よりも、項羽が無事だった深い喜びが勝る事。
新婚初夜を待っていた若い娘には、ちょっと重過ぎる状況です。その心の揺れを本当に魅力的に見せてくれて、もうグッと心を掴まれましたね。
そして彼女は、自分の為に項羽の命を危うくした事の辛さ、自分の心を疑われた怒りと悲しみ…それらを全て受けとめる為に、命を懸ける覚悟を、する。
冒頭のこの場面がラストシーンに繋がるんだーと思った事で、この作品世界が一気に見えた気がしました。こんな話だったんだ、「虞美人」。
この時彼女は決意する。「二度と自分の為に、項羽の身を危うくする事はできない。勿論、他の男に触れられる事も無い」それが、新人公演版「虞美人」なんだと思いました。
あまちゃき虞美人は本当に健気で、まっすぐ。鳳真由ちゃんも、真っ直ぐで誠実で、そして二人とも情があって芝居が優しくて、なかなか良いコンビでしたね。初主演のまゆちゃん、経験豊富なあまちゃきが相手役で本当に幸運だったと思います。力強いサポートで、二人の舞台世界を作れたんじゃないかな。
虞が命を絶った後の項羽の芝居は、本当に良かったです。彼女の想いも分かった上で、彼なりに「強く」戦う姿にじーんときました。最期の場面の、「やっと」というホッとした風情も良かった。ラストのカタルシスをきっちり見せたのは、新公初主演としては「今後に期待させる出来」だったのではないかと思います。
あまちゃき虞美人で忘れてならないのが、もう一つの見せ場。呂夫人との「奥様対決」でした。梅咲 衣舞ちゃんの呂は、劉邦の死の場面から始まる本公演とは違って、怖くはない普通の女性。
強い信念と劉邦への愛を持ってはいるけれど、怖れも弱さも持ち、それを乗り越えて生きている。そんなリアルな血の通った女性像を、抑えた芝居でくっきり見せてくれました。本公演の「魍魎跋扈」という対決より、ちょっとトーンダウンした印象ではありますが^^;
ここでは桃娘も韓信の妻としていますから、立場も考え方も違う、三人の武将の妻を対比させつつ、戦乱の世の中の女性達の悲しみを表現して、新公レベルを超えた素晴らしい場面になったと思います。衣舞ちゃん、上手い事は十分に知っておりましたが、今まであまり活躍の場を与えられなかったので、ここまで上手かったのか…と感心しました。
そして、もう一人のタイトルロール、劉邦は瀬戸 かずや君。こちらも良かったですねー。
やはり、大柄でカッコいいし、線の細い夢見る項羽に対して、骨太でリアル感のあるアキラ劉邦の対比が面白かったです。
わりと本役の壮君と似たイメージの役作りではありましたが、もっと大らかで素朴な印象。壮君の劉邦はあまりにキレイで、畑を耕す姿は想像できないけれど、アキラ君はいつでも畑に戻れそう^^;そんな所が民衆に愛され、そのこだわりの無さが逆に、身一つでいくらでも這い上がれる劉邦の強さに繋がるんだなーと、納得。
「私は誰も愛していない」と嘆いても、本当の心の底には愛情が溢れている印象でした。今まではただ、自分の事を優先しただけ…これからは、もっと周りの皆にも気を使うから、みたいな。その優しさが、本公演に比べるとスケールダウンする所なのかもしれませんが、やはり愛しい劉邦でした。
さて、二組の夫婦について書いたところで、時間切れです。
桃娘の実咲 凜音ちゃんが、上手くて舞台度胸満点でかなり印象に残りました。幕間コントも可愛かったし…他にも、印象に残って書きたい人々はいますが、今日はこのへんで。
ゴールデンウィークの連休が終わり、土曜日までの狭間の二日間。
ダルかった~。今日は本当に身体はだるく、頭の働きも鈍くて(いつも鈍いけど、更に鈍く^^;)段々と顔つきが荒んでくるのが自分でわかりました。
しかし、5月は連休の為上旬がほとんど無くて、いきなり中旬になってしまうので、お仕事はそれなりに忙しく、ぼんやりしながらも地道に働いておりました。
そして、明日はやっと花組観劇!!楽しみです。
私は基本公演についての情報は、あまり見ずに観劇しているほうです、なので、公演について白紙の状態で、きっちりと見てきたいと思います。
連休中は近場で遊んできました。
印象に残ったのは「野毛山動物園」。小規模の無料の動物園です。
ごろんと転がる虎を見て、「トラファルガー」はどういう作品になるんだろうと、想像してみたり。また、齋藤作品「巌流」のクライマックスの決闘シーンで流れる「おまえは虎だ」とかいう、謎の台詞の応酬をを思い出したり。
戦いながら、心通じるらしき、武蔵と小次郎の心の声による会話。かなり謎~な、テレパシー会話でした。私には、結局どちらの台詞も、何が言いたいのか分からなかったという事しか覚えていませんが…。
今度も、面と向かって戦う事はなかった筈のネルソンとナポレオンが、クライマックス(になるだろうと思われる)の「トラファルガーの海戦」の場面で、二人で心の声による意味の分からない会話を繰り広げるのではないか?というのが心配です。人物相関図によると、ナポレオンの砲兵部隊長時代があるようですね。ネルソンとエマの少年少女時代は、無いって事だよね?^^;
動物園にはお約束の「ふれあいコーナー」があったのですが、男の子が小さなハツカネズミを乱暴に扱う姿を見てしまい、切ない気持ちになりました。可哀想なねずみさんは、もう元気になったでしょうか…。
でも動物達を見ていると、心癒されました。旭山動物園にも行ってみたいなー。
ダルかった~。今日は本当に身体はだるく、頭の働きも鈍くて(いつも鈍いけど、更に鈍く^^;)段々と顔つきが荒んでくるのが自分でわかりました。
しかし、5月は連休の為上旬がほとんど無くて、いきなり中旬になってしまうので、お仕事はそれなりに忙しく、ぼんやりしながらも地道に働いておりました。
そして、明日はやっと花組観劇!!楽しみです。
私は基本公演についての情報は、あまり見ずに観劇しているほうです、なので、公演について白紙の状態で、きっちりと見てきたいと思います。
連休中は近場で遊んできました。
印象に残ったのは「野毛山動物園」。小規模の無料の動物園です。
ごろんと転がる虎を見て、「トラファルガー」はどういう作品になるんだろうと、想像してみたり。また、齋藤作品「巌流」のクライマックスの決闘シーンで流れる「おまえは虎だ」とかいう、謎の台詞の応酬をを思い出したり。
戦いながら、心通じるらしき、武蔵と小次郎の心の声による会話。かなり謎~な、テレパシー会話でした。私には、結局どちらの台詞も、何が言いたいのか分からなかったという事しか覚えていませんが…。
今度も、面と向かって戦う事はなかった筈のネルソンとナポレオンが、クライマックス(になるだろうと思われる)の「トラファルガーの海戦」の場面で、二人で心の声による意味の分からない会話を繰り広げるのではないか?というのが心配です。人物相関図によると、ナポレオンの砲兵部隊長時代があるようですね。ネルソンとエマの少年少女時代は、無いって事だよね?^^;
動物園にはお約束の「ふれあいコーナー」があったのですが、男の子が小さなハツカネズミを乱暴に扱う姿を見てしまい、切ない気持ちになりました。可哀想なねずみさんは、もう元気になったでしょうか…。
でも動物達を見ていると、心癒されました。旭山動物園にも行ってみたいなー。
おやすみ。だらだら、のんびり~
2010年5月4日 宝塚ゴールデンウィーク。
お家でのんびりしています。特に何処にも行かず、観劇の予定も無く。
この機会に家の片付けなどをすればいいようなものの、それもサボって、のんびり。毎日何かしらを飲んで、ほろ酔い、二日酔い(^^ゞ
しばらく書いてなかったらブログの書き方も忘れてしまいました。
何か色々書く気だったような気もするけれど、思い出せません。
きっと、ちゃんとした文章に纏める事は不可能だと思われるので、だらだら箇条書きにでも、遺しておきます。
・CSニュース雪組千秋楽映像。皆さんがあまりに幸せそうで切ない。そして美しい。
・作品について色々感想はあるけれど、ともかく今回のみなこちゃんのアンリエットが好きだった。
・前半のオーストリア兵の治療を拒否する場面、人を傷つける事で自分がより傷付く痛々しさが、みなこちゃんらしいなーと。私がみなこちゃんが好きな理由を理解した。ボニーに通じるところがあるよね。
・オオゾラファン的に、とても親近感がわくキャラだ。でも、みなこちゃんのほうが、自傷的。娘役だからね。浅い傷を沢山という感じ。オオゾラさんのキャラは一息に深くざっくり…いえ、あくまで私の勝手なイメージです。
・水さんのデュナンさんは良い男だけれど、今回の主役は「赤十字思想」。デュナンさんが良い男で、彼に恋したヒロインが行動を共にするのは、イカンのですね。
・じゃ、タカラヅカでやらなくてもよかったんじゃ…。
・星組さんの「ハプスブルク展」タイアップ作品といい、商業的なメリットの為には主人公とヒロインが恋愛しなくても仕方がありません。二番手役が美味しくなるからいいじゃんいいじゃん。あ、星組さんの場合は取ってつけたような二役があったから、ま、いいか。
・みなこちゃんの硬いキャラが、エクトール先生との恋愛に一歩踏み込めない彼女に似合っていて、きゅんとする。この硬い蕾、青い果実のまま、彼女は卒業するのかなー。もったいない。花がほころび、甘く瑞々しく成熟した果実は、いかばかり魅力的な事か…。その時は、あの痛々しさを失うのだろうか?それもまた良いなぁ。見たかったなぁ。最後の作品に期待。
・敵兵の治療を拒否する事をやめた時、それまでの人生への否定であると同時に、苦しみからの解放だった。その開放感の熱にうかされたハイテンションで、命をかけてしまう姿もまた痛々しくて、泣けてしまった。…ほんとに、好きなんだな、私。
・ショーは、イメージはやはりオギー作品を、明るく楽しくした感じ。アンデルセンの「人魚姫」が、ディズニー「リトル・マーメイド」に作り変えられたような。
・つまり、明確な美意識として、ハッピーエンドを求めたわけで。意識的に「世の中のどうにもならない切なさ」を排除した、まるで別の世界。強い主張。
・場面構成としては、稲葉先生の色が出ていたから良いけれど。文句なしに楽しいショーだったし。でも、だからこそ。
荻田氏の名作のイメージを思い出させるような作りにしなければ、もっと普通に高い評価を得られたのに、勿体無いと思うけど。
・まぁ、次回作に期待する出来だった事は確か。借り物の世界感…ではなかった事を祈ります。
・花組さん、東宝初日、おめでとうございます。…って、遅すぎ。蘭ちゃん、花組デビューおめでとう。早く見に行きたいです。
・実は、歌劇表紙、結構好きです。優しい目をしているから。あんまり評判良くないようなので小声。でも、お化粧が普通だったのでびっくり。眉が薄いのが不思議。…というか、見慣れた普段のお顔の一瞬の表情を切り取った感じ。
・中のお写真は、文句なしに素敵ですね。見開きの写真では首筋や腕の内側など、一番皮膚が薄くて、生物的に弱い部分をさらしていることに驚く。猫だったら、よっぽどリラックスして寝ている状態でしか、見れないところ。人は精神的に身構える時は自然と身体も縮こまった姿勢をとるもの。余裕で弱い部分もさらけ出せる人になられたんだなー。
・あやねちゃんのお写真が、どれもお美しい。黒蜥蜴さま、最高。
・「ジュ・シャント」やっぱり見に行きたかったなー。
・シャングリラ…既に、懐かしい。なんて言ってないで感想書かないと、次の公演始まってしまう^^;
・おとめって、読み出すと止まらない。本当に、皆さん可愛くて、面白いわー。面白いネタを拾いあげて書きたいけれど、キリがない。個人的ヒットは天玲さん。コワモテのイメージがあるのでなお更(^^)あとは、天真・煌月・鳳月の手料理合戦かな。
・「好きだった役」「演じてみたい役」「集めている品」「好きな食べ物」…の答えが、それぞれ個性が出ていたり、意外さがあったりして面白いですね。
・うわー、オオゾラさんが1ページの写真だよ。今更だけど、まだまだ驚くネタってあるものだな。
小林公平氏。心よりご冥福をお祈り致します。
お家でのんびりしています。特に何処にも行かず、観劇の予定も無く。
この機会に家の片付けなどをすればいいようなものの、それもサボって、のんびり。毎日何かしらを飲んで、ほろ酔い、二日酔い(^^ゞ
しばらく書いてなかったらブログの書き方も忘れてしまいました。
何か色々書く気だったような気もするけれど、思い出せません。
きっと、ちゃんとした文章に纏める事は不可能だと思われるので、だらだら箇条書きにでも、遺しておきます。
・CSニュース雪組千秋楽映像。皆さんがあまりに幸せそうで切ない。そして美しい。
・作品について色々感想はあるけれど、ともかく今回のみなこちゃんのアンリエットが好きだった。
・前半のオーストリア兵の治療を拒否する場面、人を傷つける事で自分がより傷付く痛々しさが、みなこちゃんらしいなーと。私がみなこちゃんが好きな理由を理解した。ボニーに通じるところがあるよね。
・オオゾラファン的に、とても親近感がわくキャラだ。でも、みなこちゃんのほうが、自傷的。娘役だからね。浅い傷を沢山という感じ。オオゾラさんのキャラは一息に深くざっくり…いえ、あくまで私の勝手なイメージです。
・水さんのデュナンさんは良い男だけれど、今回の主役は「赤十字思想」。デュナンさんが良い男で、彼に恋したヒロインが行動を共にするのは、イカンのですね。
・じゃ、タカラヅカでやらなくてもよかったんじゃ…。
・星組さんの「ハプスブルク展」タイアップ作品といい、商業的なメリットの為には主人公とヒロインが恋愛しなくても仕方がありません。二番手役が美味しくなるからいいじゃんいいじゃん。あ、星組さんの場合は取ってつけたような二役があったから、ま、いいか。
・みなこちゃんの硬いキャラが、エクトール先生との恋愛に一歩踏み込めない彼女に似合っていて、きゅんとする。この硬い蕾、青い果実のまま、彼女は卒業するのかなー。もったいない。花がほころび、甘く瑞々しく成熟した果実は、いかばかり魅力的な事か…。その時は、あの痛々しさを失うのだろうか?それもまた良いなぁ。見たかったなぁ。最後の作品に期待。
・敵兵の治療を拒否する事をやめた時、それまでの人生への否定であると同時に、苦しみからの解放だった。その開放感の熱にうかされたハイテンションで、命をかけてしまう姿もまた痛々しくて、泣けてしまった。…ほんとに、好きなんだな、私。
・ショーは、イメージはやはりオギー作品を、明るく楽しくした感じ。アンデルセンの「人魚姫」が、ディズニー「リトル・マーメイド」に作り変えられたような。
・つまり、明確な美意識として、ハッピーエンドを求めたわけで。意識的に「世の中のどうにもならない切なさ」を排除した、まるで別の世界。強い主張。
・場面構成としては、稲葉先生の色が出ていたから良いけれど。文句なしに楽しいショーだったし。でも、だからこそ。
荻田氏の名作のイメージを思い出させるような作りにしなければ、もっと普通に高い評価を得られたのに、勿体無いと思うけど。
・まぁ、次回作に期待する出来だった事は確か。借り物の世界感…ではなかった事を祈ります。
・花組さん、東宝初日、おめでとうございます。…って、遅すぎ。蘭ちゃん、花組デビューおめでとう。早く見に行きたいです。
・実は、歌劇表紙、結構好きです。優しい目をしているから。あんまり評判良くないようなので小声。でも、お化粧が普通だったのでびっくり。眉が薄いのが不思議。…というか、見慣れた普段のお顔の一瞬の表情を切り取った感じ。
・中のお写真は、文句なしに素敵ですね。見開きの写真では首筋や腕の内側など、一番皮膚が薄くて、生物的に弱い部分をさらしていることに驚く。猫だったら、よっぽどリラックスして寝ている状態でしか、見れないところ。人は精神的に身構える時は自然と身体も縮こまった姿勢をとるもの。余裕で弱い部分もさらけ出せる人になられたんだなー。
・あやねちゃんのお写真が、どれもお美しい。黒蜥蜴さま、最高。
・「ジュ・シャント」やっぱり見に行きたかったなー。
・シャングリラ…既に、懐かしい。なんて言ってないで感想書かないと、次の公演始まってしまう^^;
・おとめって、読み出すと止まらない。本当に、皆さん可愛くて、面白いわー。面白いネタを拾いあげて書きたいけれど、キリがない。個人的ヒットは天玲さん。コワモテのイメージがあるのでなお更(^^)あとは、天真・煌月・鳳月の手料理合戦かな。
・「好きだった役」「演じてみたい役」「集めている品」「好きな食べ物」…の答えが、それぞれ個性が出ていたり、意外さがあったりして面白いですね。
・うわー、オオゾラさんが1ページの写真だよ。今更だけど、まだまだ驚くネタってあるものだな。
小林公平氏。心よりご冥福をお祈り致します。
「ソルフェリーノの夜明け」の思い出
2010年4月28日 宝塚色々と思う事の多かった雪組公演。
とりあえず、作品について一つだけ、忘れないうちに書き記しておきます。
雪組公演「ソルフェリーノの夜明け」で得た、人生の教訓。ものすごく、くだらない教訓なのですが(^^ゞ
「涙はすぐにとまるが、それに伴う鼻水は、止まらない」…すみません、本当にくだらなくて。
でも私には衝撃だったのです。あの作品で泣いてしまった事が。
多くの方が、涙が出て悔しがっている事は知っていました。でも、私に限ってそんな事は無い!!という自信があったのです。
だって、今までそういう評判を聞いていても、ドライアイの私が涙を流す事は、ありませんでした。そして「これは私は泣くだろうな」と予測できるものは、たいていそうなりました。予測外で涙が出てしまった事は、ほとんど無いのです。
ましてや、植田御大の作品など。谷先生と並んで、私の中では「お涙頂戴」場面と認定して、失笑とか苦笑とかしちゃうのが、今までの私だった筈。
それなのに、泣いてしまったのです。皆様と同じく「アヴェ・マリア」で(ーー;)
自分でどうにも納得できなくて「何故??」と、考えずにはいられませんでした。
…でも。考えてみたら私、植田御大作品で泣いた事、何度かありました。谷作品では、今までの十数年間、一度も泣いた事はないけれど。
谷作品は基本的に「芝居仕立のショー」なので、お芝居部分というのは、歌の場面を盛り上げる為の「前振り」に過ぎない事がほとんどです。だから普通の意味での「芝居」とは違うものと思っています。説明と場つなぎ以上の意味は無いものだと。
その谷先生の師匠であり、作品の雰囲気など似たイメージのある植田御大ですが、作品の組み立ては結構違う所もあるのですよね。
そして私は、植田芝居では何度か泣いたり、本気で感動した場面がある。
まず一番最近は「ジャワの踊り子」のオオゾラさんのハジ・タムロンが、命を狙っていたアディナンに助けられて、号泣する場面。
※某方から指摘を頂きました。「ジャワの踊り子」は、菊田一夫作品でした。あの時の全ツは、植田・谷演出でしたが、もとは菊田作品。なるほど、改めて、偉大な方なんだなぁ。謹んで訂正致します。
それからビデオで見ただけですが「風と共に去りぬ」と久世アシュレの嘆きの場面とか、「ベルサイユのばら」の久世アランの嘆きの場面とか。
…全て贔屓の芝居の場面ですが、まあ、これは一般的にも名場面として、多くの人の心に残る場面になっていると思います。
植田御大の作品は、たまーにこういう見せ場を作って、役者に渾身の芝居をさせてくれる機会を与える事も、あるのですよね。
タムロンは、私がオオゾラさんの芝居で初めて涙した芝居でした。あんなに芝居をさせて貰える役は、初めてだったのですよね。…懐かしい。(ダブルとはいえ主演だった「血と砂」ですが、私はサイトー君の芝居では笑顔にしかなりません、色んな意味で^^;)
そして、この「私的、植田芝居の泣きポイント」には、共通するものがあると思うのです。
それは「今までの自分の人生と信念を、自ら否定する瞬間」という場面なのではないかと。
まわりの人から非難されても、どうしても曲げられなかった、信念。そして、その信念の為に苦しい思いをしてきた人生を、自ら否定する、とても痛い瞬間。
見ているほうも、胸をギュッと掴まれるように痛い場面でした。
そして、今回のアヴェ・マリアの場面も、同じ。
私はやはり贔屓である、ひろみちゃんの演じる兵士モラルドと、みなこちゃんのアンリエットを中心に見ていたので、この場面が胸に響いたのだな、と思います。
敵を憎む事で自分を支え、敵兵に情けをかけない事を信念として生きてきた二人が、その今までの頑な信念を捨てる場面。
その心の変容の芝居を、台詞ではなく、皆で歌う場面にのせることで見せた、演出の勝利ではありますね。
アンリエットや兵士達皆に、その心の変化の芝居をさせつつ、いっぺんに見せられたわけですから破壊力が大きかった。
この場合、皆が心を動かされるきっかけの流れが??なのは、まあ、言うのは野暮って事で。それは、どうでもいい事なのです。
大事なのは、あの場面の皆さんが、心を動かす芝居を見せて下さった事。だから、私が泣いたのは正しいのです。
…という結論が出て、やっとすっきりしたのでした。
そして、そんな涙は次からの場面ではまたヘンテコな台詞の応酬が色々あって、すぐに引っ込んでしまったのですが。…止まらないものがありまして、本当に苦労しました。すみ花ちゃんのご苦労が、よーく分か…いやいや^^;
それにしても。このヘンテコな台詞満載のトンデモ作品を、あれだけの感動場面を作り観客を泣かせた、水さんと雪組に皆さんは本当に偉大だったと思います。
さぞや、ご苦労された事でしょう。このメンバーだからこそ、作り上げられたこの作品。見る事ができて、よかったなーと思います。
次の作品は、できるだけそんな変なご苦労が無いものであるよう、祈っております。
そして、今のひろみちゃんが演じる「あかねさす紫の花」の、天比古が見たくなってしまったのでした。
とりあえず、作品について一つだけ、忘れないうちに書き記しておきます。
雪組公演「ソルフェリーノの夜明け」で得た、人生の教訓。ものすごく、くだらない教訓なのですが(^^ゞ
「涙はすぐにとまるが、それに伴う鼻水は、止まらない」…すみません、本当にくだらなくて。
でも私には衝撃だったのです。あの作品で泣いてしまった事が。
多くの方が、涙が出て悔しがっている事は知っていました。でも、私に限ってそんな事は無い!!という自信があったのです。
だって、今までそういう評判を聞いていても、ドライアイの私が涙を流す事は、ありませんでした。そして「これは私は泣くだろうな」と予測できるものは、たいていそうなりました。予測外で涙が出てしまった事は、ほとんど無いのです。
ましてや、植田御大の作品など。谷先生と並んで、私の中では「お涙頂戴」場面と認定して、失笑とか苦笑とかしちゃうのが、今までの私だった筈。
それなのに、泣いてしまったのです。皆様と同じく「アヴェ・マリア」で(ーー;)
自分でどうにも納得できなくて「何故??」と、考えずにはいられませんでした。
…でも。考えてみたら私、植田御大作品で泣いた事、何度かありました。谷作品では、今までの十数年間、一度も泣いた事はないけれど。
谷作品は基本的に「芝居仕立のショー」なので、お芝居部分というのは、歌の場面を盛り上げる為の「前振り」に過ぎない事がほとんどです。だから普通の意味での「芝居」とは違うものと思っています。説明と場つなぎ以上の意味は無いものだと。
その谷先生の師匠であり、作品の雰囲気など似たイメージのある植田御大ですが、作品の組み立ては結構違う所もあるのですよね。
そして私は、植田芝居では何度か泣いたり、本気で感動した場面がある。
まず一番最近は「ジャワの踊り子」のオオゾラさんのハジ・タムロンが、命を狙っていたアディナンに助けられて、号泣する場面。
※某方から指摘を頂きました。「ジャワの踊り子」は、菊田一夫作品でした。あの時の全ツは、植田・谷演出でしたが、もとは菊田作品。なるほど、改めて、偉大な方なんだなぁ。謹んで訂正致します。
それからビデオで見ただけですが「風と共に去りぬ」と久世アシュレの嘆きの場面とか、「ベルサイユのばら」の久世アランの嘆きの場面とか。
…全て贔屓の芝居の場面ですが、まあ、これは一般的にも名場面として、多くの人の心に残る場面になっていると思います。
植田御大の作品は、たまーにこういう見せ場を作って、役者に渾身の芝居をさせてくれる機会を与える事も、あるのですよね。
タムロンは、私がオオゾラさんの芝居で初めて涙した芝居でした。あんなに芝居をさせて貰える役は、初めてだったのですよね。…懐かしい。(ダブルとはいえ主演だった「血と砂」ですが、私はサイトー君の芝居では笑顔にしかなりません、色んな意味で^^;)
そして、この「私的、植田芝居の泣きポイント」には、共通するものがあると思うのです。
それは「今までの自分の人生と信念を、自ら否定する瞬間」という場面なのではないかと。
まわりの人から非難されても、どうしても曲げられなかった、信念。そして、その信念の為に苦しい思いをしてきた人生を、自ら否定する、とても痛い瞬間。
見ているほうも、胸をギュッと掴まれるように痛い場面でした。
そして、今回のアヴェ・マリアの場面も、同じ。
私はやはり贔屓である、ひろみちゃんの演じる兵士モラルドと、みなこちゃんのアンリエットを中心に見ていたので、この場面が胸に響いたのだな、と思います。
敵を憎む事で自分を支え、敵兵に情けをかけない事を信念として生きてきた二人が、その今までの頑な信念を捨てる場面。
その心の変容の芝居を、台詞ではなく、皆で歌う場面にのせることで見せた、演出の勝利ではありますね。
アンリエットや兵士達皆に、その心の変化の芝居をさせつつ、いっぺんに見せられたわけですから破壊力が大きかった。
この場合、皆が心を動かされるきっかけの流れが??なのは、まあ、言うのは野暮って事で。それは、どうでもいい事なのです。
大事なのは、あの場面の皆さんが、心を動かす芝居を見せて下さった事。だから、私が泣いたのは正しいのです。
…という結論が出て、やっとすっきりしたのでした。
そして、そんな涙は次からの場面ではまたヘンテコな台詞の応酬が色々あって、すぐに引っ込んでしまったのですが。…止まらないものがありまして、本当に苦労しました。すみ花ちゃんのご苦労が、よーく分か…いやいや^^;
それにしても。このヘンテコな台詞満載のトンデモ作品を、あれだけの感動場面を作り観客を泣かせた、水さんと雪組に皆さんは本当に偉大だったと思います。
さぞや、ご苦労された事でしょう。このメンバーだからこそ、作り上げられたこの作品。見る事ができて、よかったなーと思います。
次の作品は、できるだけそんな変なご苦労が無いものであるよう、祈っております。
そして、今のひろみちゃんが演じる「あかねさす紫の花」の、天比古が見たくなってしまったのでした。
今日は、雪組東宝千秋楽。
やさしくあたたかい、良い楽だったようですね。勿論当たり前だけど、やはりそういうお話を読めると、嬉しいものです。
退団者の皆さま、そして雪組の皆さまおつかれさまでした。そしてファンの皆さまも、おつかれさまでした。どうか、皆様の今後に、たくさんの幸せがありますように。
淋しいけれど、皆様の門出の日。これからの人生も、よりいっそう輝いたものでありますように。…と、遠くから祈っておりました。
結局、雪組公演を見たのは一回だけ。でも、一度見たら思いが溢れ過ぎて、それから更新ができなくなりました。思う事が色々有りすぎると、機能停止してしまう習性なので(^^ゞ
あれはまだ、桜が残っていた頃だったのに、すっかり花は散り…落ちていた花びらも、いつの間にか姿を消してしまいました。今では花水木が咲き、藤の花も咲き始め、住宅地の庭先には色とりどりの花が咲いて、木々の若葉も出揃って。
…でも、寒い日が多かったわ~(ーー;)
機能停止している間に、大劇場では花組公演が終わり、月組公演が始まり。
霧矢さん、まりもちゃん、おめでとうございます!!…も、書いてませんでした。
愛する月組が、素敵なトップコンビを得て、新しく再生して船出した事、本当に嬉しく思って、CSを見たりネットを見たりしております。
ちらりと見た映像だけで、月組の皆さんが新しい出発の喜びに溢れている事が伝わってきて、こちらまでワクワクしてしまいます。そして、霧矢さんが大きな羽を背負って大劇場の真ん中に立っている姿が、すごく嬉しい。
東京公演が待ち遠しいです。
雪組公演の感想が言葉にならない間に、今日は星組市川公演を見てきました。
今頃、東宝では雪組さんの公演があっているんだなーと思いながら。それでも、宝塚に繋がっているだけでも良かったな…と、複雑な気持ちで。
星組公演は、少ない人数ながら熱気のある舞台で、何もかもを忘れて引き込まれました。
淋しい事も、悲しい事もあるけれど。
宝塚のファンになって、それだけ愛する人達に出会えた事は、やはり大きな喜びだ…と、改めて思いました。
別れは淋しく辛い事だけれど。決して慣れる事は無く、胸の痛みを何度でも味わうけれど、愛する事はやめられない。
新しい出会いの喜びは、美しいものだから。いつか思い出となっても、出会いが無かったほうがよかったとは、決して思わない。
そして、出会いと別れを繰り返し、喜びと悲しみを繰り返しても、それも全て幸せなのだと思う。…今日の佳き日に、一人の宝塚ファンとして。感謝をこめて。
ゆみこさん、はまこさん、神さん、さゆちゃん、ご卒業、おめでとうございます。
やさしくあたたかい、良い楽だったようですね。勿論当たり前だけど、やはりそういうお話を読めると、嬉しいものです。
退団者の皆さま、そして雪組の皆さまおつかれさまでした。そしてファンの皆さまも、おつかれさまでした。どうか、皆様の今後に、たくさんの幸せがありますように。
淋しいけれど、皆様の門出の日。これからの人生も、よりいっそう輝いたものでありますように。…と、遠くから祈っておりました。
結局、雪組公演を見たのは一回だけ。でも、一度見たら思いが溢れ過ぎて、それから更新ができなくなりました。思う事が色々有りすぎると、機能停止してしまう習性なので(^^ゞ
あれはまだ、桜が残っていた頃だったのに、すっかり花は散り…落ちていた花びらも、いつの間にか姿を消してしまいました。今では花水木が咲き、藤の花も咲き始め、住宅地の庭先には色とりどりの花が咲いて、木々の若葉も出揃って。
…でも、寒い日が多かったわ~(ーー;)
機能停止している間に、大劇場では花組公演が終わり、月組公演が始まり。
霧矢さん、まりもちゃん、おめでとうございます!!…も、書いてませんでした。
愛する月組が、素敵なトップコンビを得て、新しく再生して船出した事、本当に嬉しく思って、CSを見たりネットを見たりしております。
ちらりと見た映像だけで、月組の皆さんが新しい出発の喜びに溢れている事が伝わってきて、こちらまでワクワクしてしまいます。そして、霧矢さんが大きな羽を背負って大劇場の真ん中に立っている姿が、すごく嬉しい。
東京公演が待ち遠しいです。
雪組公演の感想が言葉にならない間に、今日は星組市川公演を見てきました。
今頃、東宝では雪組さんの公演があっているんだなーと思いながら。それでも、宝塚に繋がっているだけでも良かったな…と、複雑な気持ちで。
星組公演は、少ない人数ながら熱気のある舞台で、何もかもを忘れて引き込まれました。
淋しい事も、悲しい事もあるけれど。
宝塚のファンになって、それだけ愛する人達に出会えた事は、やはり大きな喜びだ…と、改めて思いました。
別れは淋しく辛い事だけれど。決して慣れる事は無く、胸の痛みを何度でも味わうけれど、愛する事はやめられない。
新しい出会いの喜びは、美しいものだから。いつか思い出となっても、出会いが無かったほうがよかったとは、決して思わない。
そして、出会いと別れを繰り返し、喜びと悲しみを繰り返しても、それも全て幸せなのだと思う。…今日の佳き日に、一人の宝塚ファンとして。感謝をこめて。
ゆみこさん、はまこさん、神さん、さゆちゃん、ご卒業、おめでとうございます。
たまたまテレビをつけたら、CSニュースで花組千秋楽の途中でした。
白華れみちゃんが、組替のご挨拶をしていて…やっぱり、少し胸が痛い。
思わず、彼女が花組に組替になった時の事を思い出して。
あの時、オオゾラさんと二人でご挨拶していたなぁ。
印象に残っているのは東京公演の「愛と死のアラビア/Red Hot Sea」の東京公演千秋楽。
東京の楽にご挨拶に幕前に出てこられたお二人を見て、?と思った私。何故、この二人が出てくるの?と思ったら、東京での本公演で、お客様へのご挨拶との事でした。ディナーショーと本公演をひと公演終わって、?と思った事が、すっかり花組に慣れた気になっていたという事なんだ…と、嬉しく思った事を覚えています。そして、暖かく迎えてくれた、花組の皆さんに本当に感謝したのでした。
しかし、その次の公演である「大王四神紀」の東京千秋楽では、オオゾラさんはまたも、組替のご挨拶に幕前に出てこられたのでした。今度はすみ花ちゃんと二人で。
短かったけれど思い出深い、オオゾラさんの花組時代。
一緒に花組に来た、れみちゃんまでも、花組を去る事になるのはやはり淋しい。
ディナーショウ「SORA」を一緒につくりあげてくれた、大事な仲間。
「大王四神紀」の、ホゲの子供時代は、オオゾラさんの仕草や身のこなしの癖、
喋り方など、本当によく観察して再現してくれたなぁ。公演の後半になるにつれ、どんどん似てきて。オオゾラファンだからこそ、その努力が分かる部分もあったと思いますが、よく頑張ってくれて嬉しかったです。
こういう状況での組替は、本当に胸が痛いです。ご本人にも色々と思い悩む事があったでしょうけれど、それでも、宝塚に残る決心をしてくれた事は、嬉しいなと、思います。その心意気と根性を慮って、星組さんに行っても大事にしてくれよ!歌劇団!!
ファン的には、まさかの「れみねね復活」は、胸がときめきます。
月組自慢のかわいこちゃん達が、またコンビを組んでくれるのよね?頼みますよ、二人でがっつり組んで見せてよ、歌劇団!
「ガイズアンドドールズ」の、サラとアデレイドの二人の場面みたいなのが見たいな♪
そして、花組には蘭乃はなちゃんが、組替で。
せっかくここまで育った、自慢の月娘が。私の可愛い「ヤング・ローズ」が。
もう少し、月組で愛でていたかったなぁ。らんちゃんは、月組トップ娘役が不在だった為、新公などの経験も曖昧だから。一応、芝居でのヒロイン役は経験しているけれども、それは「トップ娘役にくっついて、しっかり指導してもらう」というのとは、ちょっと違った意味合いがありました。
まあ、根性も有り、賢いらんちゃんなら、大丈夫だとは思いますけれど…。月娘は、外の組に出ると苦労する事が多そうなので、ちょっと心配なのです。
それにしても、最近のトップ娘役は組替就任が当たり前になってきて。
月組は、組内から選ばれたのは、檀ちゃんが最後なんて…遠い昔だなぁ。あ、檀ちゃんは当時、雪組に組替されて修行中でしたけれどもね。もはや十年以上ですね。
今の宝塚の時間の流れからすると、ふた昔以上も前、という感じ(ーー;)
月組ファン自慢の月娘は、月組でノビノビと、トップにさせてあげたいけどなぁ。
…そして、その後、テレビは見れなくなってしまったので、花組千秋楽のニュースは、また後日見ることになりました(^^ゞ
白華れみちゃんが、組替のご挨拶をしていて…やっぱり、少し胸が痛い。
思わず、彼女が花組に組替になった時の事を思い出して。
あの時、オオゾラさんと二人でご挨拶していたなぁ。
印象に残っているのは東京公演の「愛と死のアラビア/Red Hot Sea」の東京公演千秋楽。
東京の楽にご挨拶に幕前に出てこられたお二人を見て、?と思った私。何故、この二人が出てくるの?と思ったら、東京での本公演で、お客様へのご挨拶との事でした。ディナーショーと本公演をひと公演終わって、?と思った事が、すっかり花組に慣れた気になっていたという事なんだ…と、嬉しく思った事を覚えています。そして、暖かく迎えてくれた、花組の皆さんに本当に感謝したのでした。
しかし、その次の公演である「大王四神紀」の東京千秋楽では、オオゾラさんはまたも、組替のご挨拶に幕前に出てこられたのでした。今度はすみ花ちゃんと二人で。
短かったけれど思い出深い、オオゾラさんの花組時代。
一緒に花組に来た、れみちゃんまでも、花組を去る事になるのはやはり淋しい。
ディナーショウ「SORA」を一緒につくりあげてくれた、大事な仲間。
「大王四神紀」の、ホゲの子供時代は、オオゾラさんの仕草や身のこなしの癖、
喋り方など、本当によく観察して再現してくれたなぁ。公演の後半になるにつれ、どんどん似てきて。オオゾラファンだからこそ、その努力が分かる部分もあったと思いますが、よく頑張ってくれて嬉しかったです。
こういう状況での組替は、本当に胸が痛いです。ご本人にも色々と思い悩む事があったでしょうけれど、それでも、宝塚に残る決心をしてくれた事は、嬉しいなと、思います。その心意気と根性を慮って、星組さんに行っても大事にしてくれよ!歌劇団!!
ファン的には、まさかの「れみねね復活」は、胸がときめきます。
月組自慢のかわいこちゃん達が、またコンビを組んでくれるのよね?頼みますよ、二人でがっつり組んで見せてよ、歌劇団!
「ガイズアンドドールズ」の、サラとアデレイドの二人の場面みたいなのが見たいな♪
そして、花組には蘭乃はなちゃんが、組替で。
せっかくここまで育った、自慢の月娘が。私の可愛い「ヤング・ローズ」が。
もう少し、月組で愛でていたかったなぁ。らんちゃんは、月組トップ娘役が不在だった為、新公などの経験も曖昧だから。一応、芝居でのヒロイン役は経験しているけれども、それは「トップ娘役にくっついて、しっかり指導してもらう」というのとは、ちょっと違った意味合いがありました。
まあ、根性も有り、賢いらんちゃんなら、大丈夫だとは思いますけれど…。月娘は、外の組に出ると苦労する事が多そうなので、ちょっと心配なのです。
それにしても、最近のトップ娘役は組替就任が当たり前になってきて。
月組は、組内から選ばれたのは、檀ちゃんが最後なんて…遠い昔だなぁ。あ、檀ちゃんは当時、雪組に組替されて修行中でしたけれどもね。もはや十年以上ですね。
今の宝塚の時間の流れからすると、ふた昔以上も前、という感じ(ーー;)
月組ファン自慢の月娘は、月組でノビノビと、トップにさせてあげたいけどなぁ。
…そして、その後、テレビは見れなくなってしまったので、花組千秋楽のニュースは、また後日見ることになりました(^^ゞ
設定の考察-シャングリラ-
2010年4月12日 宙組この作品の「近未来」世界の設定、詳しくはほとんど語られていません。
色々な事の端々から、色々推察するのみ。でも、それが物語を理解するのに必要な事なので、色々考えなくては話がわからない。
そして色々な人と考察を話し合ったり、ブログ等で読むと、皆さん結構違う解釈をしているらしい^^;
という訳で、私も自分なりの物語を考察する為の「シャングリラ世界設定」を書き留めておきます。
核戦争後の日本。
関西の「水源の村」出身の「蛇の目一座」のルイは電気というものを知りません。
でも、東京の九龍客桟のあたりはネオンサインが煌めいていますし、秋葉原にはパソコンも売っている。ペンダントに仕込める程の、小型の発信機も簡単に手に入るらしい。
東京は戦争中、中国に割譲されていた…という事は、中国も敵だったのかな?だから大陸に近い、関西の方が被害が大きかったのでしょうか。もしかすると、核の爆心地は関西方面なのかもしれません。
東京は割りと戦争の傷が浅く、機械類も発電所もかなり無傷で残っているらしい。
この作品中、戦争中の事を語る人物はいませんし、水源の村には水を祀る宗教が発生している所をみると、戦争はいつの事なのか。
残っているパソコンなどの寿命も鑑みると、戦後40年から50年程度、というところでしょうか。発信機等の小さな機械の寿命なんて短そうだけど、あの世界で新たに生産はできないだろうになぁ…。ま、それを言うなら、ペットボトルの製造もできないだろうけど、あんなのせいぜい数年でダメになるよなーとか、見た観客全員がつっこんでますよね^^;
関西のほうが核の被害が大きかったと考えると、人体に対する影響も深刻なのかも。
雨が汚染されているという事は、その雨水に濡れた土は、汚染を蓄積している筈。でも、土埃などに触れない事も、吸い込む事も、防ぐのは難しい事でしょう。
直接雨に濡れなくても、人間は放射線と酸の影響で、とても寿命が短いのでは…と考えられます。
更に治安も悪く、暴力に晒されて、人々にとって「死」はとても近いもののような気がします。子供を生んで次の世代を残したら、簡単に命を落とすような人が多いのでは。だから孤児が溢れ、親を亡くした子供達も、守ってくれる大人がいなければ生きていくことは難しいでしょう。
世代交代も早くなるので、教育も行き届かず、関西では戦前の知識は容易に忘れ去られていった…のかな。
最初に見た時から、私がずっと引っかかりを覚えるのが「村人達って、農民なんだよね?」という事。
見た目はどう見ても農民っぽい感じですが、だったら真っ先に農作物についての心配がある筈、だと思うんですよねー、普通。
雨が降らず旱魃があると、農作物は枯れて、飢饉がおきる。
人が必要とする飲み水の量はたかが知れていますが、田畑の作物はそうはいきません。まともに食べていくだけの量の作物を栽培する為には、飲み水など比べ物にならない程の、大量の水を必要とする筈です。旱魃の時の”水争い”は、田畑に引く水を争う事です。水が不足する時、人は渇きではなく、飢えて滅びるのです。
この作中では、水は不足していても、食べ物に困るという描写は出てこない。脚本のいい加減さを、一番感じるところです。
地表は水も土も汚染された世界。
自然の木は、かなり珍しいものらしい。
それでも、人はやはり農作物を育てて、食べていく事でしょう。汚染されてない土を確保して、汚染された雨に濡れないように、汚染された土と混じらないように。でも、適度に日に当てて…となると、あまり大規模な農業はできない事と思われます。おそらく、牛や豚などの大型の家畜を養う力も乏しい筈。鶏くらいなら大丈夫かな?魚も難しいよね?きっと。
人間が必要とする栄養は、かなりの部分、植物に頼るしかないのでは?動物性たんぱくが摂れない場合、一人の人間が必要とする穀物は結構な量になるものです。
今、核戦争などが起きれば、直接の戦争被害は勿論、食糧生産力の低下によって世界の人口は激減するだろうと考えられています。
地域の人口を決めるのは、その場所の食料生産力。この世界では、更に「きれいな飲み水」の量が、養える人口を決めている模様。
だから、”よそ者”に貴重な水を恵んでいる余裕は、無い。この村の今の人口が、この土地の生産力で生活を賄える、ぴったりの人数なのだろうと思います。
人口が減る…というのは簡単だけど、つまり弱い者から死んでいくという事。
逆に、食料生産能力と水が十分にある土地なら、人口は増やして労働力を確保したいのかも。何しろ簡単に人が死ぬ時代だし、斃れて働けなくなる時もくるかもしれない。互いに助けあう事で、自分達の危機の時に備えるべきでしょう。情けは人の為ならず。健康保険も年金もない世の中ですからね^^;
ソラが最後に辿りついた「シャングリラ」、さっつんの住む村は、そういう場所なのかもしれません。
隣の家や親戚などが、子供を遺して亡くなったら…親を亡くした子供達を、人は無碍にもできない。次の世代の貴重な労働力ですから。
そんな時、捨て子を連れたソラが流れ着いて、誰かがやらなくてはならない「村の子供達」を面倒見てくれるなら、有り難い事だったのでは。
村の廃屋と水と食べ物を提供する事で、元気なソラの労働力も得られて、一石二鳥、ギブアンドテイク。
閉鎖された小さな村なら、新しい遺伝子が混じる事も歓迎されると思う。なにしろイイ男だし、優秀らしいし。村に未婚の娘がいたら、嫁を取らせてしまえば、もう「余所者」ではなくなります。
さっつんの妹の、りりこちゃん(勝手に決定。歌ウマ兄妹)など、「ぜひ!」とオススメされてたりして(^^)
そして、ソラは適当に断っていたので、「あいつぅ!」(彼女がいるなら、そう言えばいいのに)と、なったのかも…なんてね♪
色々な事の端々から、色々推察するのみ。でも、それが物語を理解するのに必要な事なので、色々考えなくては話がわからない。
そして色々な人と考察を話し合ったり、ブログ等で読むと、皆さん結構違う解釈をしているらしい^^;
という訳で、私も自分なりの物語を考察する為の「シャングリラ世界設定」を書き留めておきます。
核戦争後の日本。
関西の「水源の村」出身の「蛇の目一座」のルイは電気というものを知りません。
でも、東京の九龍客桟のあたりはネオンサインが煌めいていますし、秋葉原にはパソコンも売っている。ペンダントに仕込める程の、小型の発信機も簡単に手に入るらしい。
東京は戦争中、中国に割譲されていた…という事は、中国も敵だったのかな?だから大陸に近い、関西の方が被害が大きかったのでしょうか。もしかすると、核の爆心地は関西方面なのかもしれません。
東京は割りと戦争の傷が浅く、機械類も発電所もかなり無傷で残っているらしい。
この作品中、戦争中の事を語る人物はいませんし、水源の村には水を祀る宗教が発生している所をみると、戦争はいつの事なのか。
残っているパソコンなどの寿命も鑑みると、戦後40年から50年程度、というところでしょうか。発信機等の小さな機械の寿命なんて短そうだけど、あの世界で新たに生産はできないだろうになぁ…。ま、それを言うなら、ペットボトルの製造もできないだろうけど、あんなのせいぜい数年でダメになるよなーとか、見た観客全員がつっこんでますよね^^;
関西のほうが核の被害が大きかったと考えると、人体に対する影響も深刻なのかも。
雨が汚染されているという事は、その雨水に濡れた土は、汚染を蓄積している筈。でも、土埃などに触れない事も、吸い込む事も、防ぐのは難しい事でしょう。
直接雨に濡れなくても、人間は放射線と酸の影響で、とても寿命が短いのでは…と考えられます。
更に治安も悪く、暴力に晒されて、人々にとって「死」はとても近いもののような気がします。子供を生んで次の世代を残したら、簡単に命を落とすような人が多いのでは。だから孤児が溢れ、親を亡くした子供達も、守ってくれる大人がいなければ生きていくことは難しいでしょう。
世代交代も早くなるので、教育も行き届かず、関西では戦前の知識は容易に忘れ去られていった…のかな。
最初に見た時から、私がずっと引っかかりを覚えるのが「村人達って、農民なんだよね?」という事。
見た目はどう見ても農民っぽい感じですが、だったら真っ先に農作物についての心配がある筈、だと思うんですよねー、普通。
雨が降らず旱魃があると、農作物は枯れて、飢饉がおきる。
人が必要とする飲み水の量はたかが知れていますが、田畑の作物はそうはいきません。まともに食べていくだけの量の作物を栽培する為には、飲み水など比べ物にならない程の、大量の水を必要とする筈です。旱魃の時の”水争い”は、田畑に引く水を争う事です。水が不足する時、人は渇きではなく、飢えて滅びるのです。
この作中では、水は不足していても、食べ物に困るという描写は出てこない。脚本のいい加減さを、一番感じるところです。
地表は水も土も汚染された世界。
自然の木は、かなり珍しいものらしい。
それでも、人はやはり農作物を育てて、食べていく事でしょう。汚染されてない土を確保して、汚染された雨に濡れないように、汚染された土と混じらないように。でも、適度に日に当てて…となると、あまり大規模な農業はできない事と思われます。おそらく、牛や豚などの大型の家畜を養う力も乏しい筈。鶏くらいなら大丈夫かな?魚も難しいよね?きっと。
人間が必要とする栄養は、かなりの部分、植物に頼るしかないのでは?動物性たんぱくが摂れない場合、一人の人間が必要とする穀物は結構な量になるものです。
今、核戦争などが起きれば、直接の戦争被害は勿論、食糧生産力の低下によって世界の人口は激減するだろうと考えられています。
地域の人口を決めるのは、その場所の食料生産力。この世界では、更に「きれいな飲み水」の量が、養える人口を決めている模様。
だから、”よそ者”に貴重な水を恵んでいる余裕は、無い。この村の今の人口が、この土地の生産力で生活を賄える、ぴったりの人数なのだろうと思います。
人口が減る…というのは簡単だけど、つまり弱い者から死んでいくという事。
逆に、食料生産能力と水が十分にある土地なら、人口は増やして労働力を確保したいのかも。何しろ簡単に人が死ぬ時代だし、斃れて働けなくなる時もくるかもしれない。互いに助けあう事で、自分達の危機の時に備えるべきでしょう。情けは人の為ならず。健康保険も年金もない世の中ですからね^^;
ソラが最後に辿りついた「シャングリラ」、さっつんの住む村は、そういう場所なのかもしれません。
隣の家や親戚などが、子供を遺して亡くなったら…親を亡くした子供達を、人は無碍にもできない。次の世代の貴重な労働力ですから。
そんな時、捨て子を連れたソラが流れ着いて、誰かがやらなくてはならない「村の子供達」を面倒見てくれるなら、有り難い事だったのでは。
村の廃屋と水と食べ物を提供する事で、元気なソラの労働力も得られて、一石二鳥、ギブアンドテイク。
閉鎖された小さな村なら、新しい遺伝子が混じる事も歓迎されると思う。なにしろイイ男だし、優秀らしいし。村に未婚の娘がいたら、嫁を取らせてしまえば、もう「余所者」ではなくなります。
さっつんの妹の、りりこちゃん(勝手に決定。歌ウマ兄妹)など、「ぜひ!」とオススメされてたりして(^^)
そして、ソラは適当に断っていたので、「あいつぅ!」(彼女がいるなら、そう言えばいいのに)と、なったのかも…なんてね♪
なんとなく、「歌劇」と「グラフ」を見ていました。
どちらにも、オオゾラ氏のポートあり。
「歌劇」を入手した時、このポートを見て「良かった、ふつーに可愛い♪」と思いました。
やはり、グラフのあれは刺激が強すぎましたから^^;
見た瞬間に「どう?みんなこういうのが好きなんでしょ?」という声が、聞こえてきましたよね。…もう、何度目だか。
それを思うと、「歌劇」のちんまりと座る姿は、宝塚のトップとは思えない程にお可愛らしいです。
ってか、また若くなってるよ、この人…。
そう思っていると。
「…何か、期待してた?残念でした~」と、ニヤニヤほくそ笑む声が聞こえてきたような気がしました。
違います!これくらいのほうが、平常心で可愛さをゆっくり見る事ができて、楽しいです!
絶対、押したり引いたりのバランス考えてますよね(ーー;)
…やっかいな人のファンになったものだなぁ。最近、留まる事を知らないパワーで、客をいじってくれるものだわ。
しかも「絵と文」の「ゆーひさんが描いたまさこさん」も、可愛いなぁ。すっかりキャラが変わって、いったい何処まで行くんだろう?
どちらにも、オオゾラ氏のポートあり。
「歌劇」を入手した時、このポートを見て「良かった、ふつーに可愛い♪」と思いました。
やはり、グラフのあれは刺激が強すぎましたから^^;
見た瞬間に「どう?みんなこういうのが好きなんでしょ?」という声が、聞こえてきましたよね。…もう、何度目だか。
それを思うと、「歌劇」のちんまりと座る姿は、宝塚のトップとは思えない程にお可愛らしいです。
ってか、また若くなってるよ、この人…。
そう思っていると。
「…何か、期待してた?残念でした~」と、ニヤニヤほくそ笑む声が聞こえてきたような気がしました。
違います!これくらいのほうが、平常心で可愛さをゆっくり見る事ができて、楽しいです!
絶対、押したり引いたりのバランス考えてますよね(ーー;)
…やっかいな人のファンになったものだなぁ。最近、留まる事を知らないパワーで、客をいじってくれるものだわ。
しかも「絵と文」の「ゆーひさんが描いたまさこさん」も、可愛いなぁ。すっかりキャラが変わって、いったい何処まで行くんだろう?