かなり時間がたってしまったのですが、青年館の「赤と黒」について、続きです。
久しぶりに、純粋な宝塚の古典作品を堪能したなーと、思いました。もう、こんなバリバリの古典作品を宝塚で見る事はできないだろう…と。
古典文学としても、宝塚の古典劇としても。
それほどの潔さで、トウコさんが頑張ってくれたように感じました。
最近CS放送で過去の作品の映像を見ていて、初めて気付いたのですが。
80年代くらいまでの宝塚では、洋物の作品でも、ドレスを着るような年代の作品は「時代物」扱いの“大芝居”で演じられていたんですね。
私が宝塚ファンになった頃には既に“大芝居”は、日本物と「ベルサイユのばら」「風と共に去りぬ」のような植田作品にしか残っていないものでした。おそらくは、小池氏・石田氏・正塚氏あたりの世代の演出家陣の先生方が、変革していったのだと思いますが。
ただ、その当時のメインキャストの生徒さん達は、一応“大芝居”の経験はあり、その技術は持っていたのですが。
でも、最近の生徒さん達はもう、あの“大きな台詞”が喋れないんだな、と思う事が最近度々ありまして。
作品の影響もあり、花・月は割りと早くに“大芝居”から脱却したイメージがあります。
そして、なんとなくですが、“大芝居”をできる境目は、花組月組、そして宙組さんは77期くらいなのではないかと思うのです。
月組でいえば、多分本公演では天海さん時代の「風と共に去りぬ」が最後かな?と思いますし。新公含め、あの大きい台詞で、大劇場で会話した経験がある期、という事で。勿論、「なんでもできる霧矢さん」のように、例外の方はいらっしゃいますが。
雪組・星組さんは、日本物や「ベルばら」が何度かあるので、もう少し下の期の生徒さんまで大丈夫そう。それでもある程度以下の学年の生徒さんは、取って付けたような台詞になってしまう気がします。
なんというか、ネイティブな言葉ではないんですね^^;
でも、“大芝居の型”というものは、強調したい部分を極限まで大きく見せる為に、長い時間をかけて作られたもの。
キチンとできれば、効果は大きいものなんだなーと、今回改めて思いました。
あの大きな台詞をキチンとこなして、“大芝居”の中に「真実のハート」を込めて芝居ができる生徒さんは、もう残り少ない。
その残っている生徒さんの中でも、最高クラスの技術とハートを持ったトウコさんの主演で、この作品を見る事ができた本当に良かった。
柴田先生の古典文学作品を、宝塚の舞台でこの水準で見る事は、この先はもう無いかもしれない。
先日の宙組さんの「バレンシアの熱い花」では、基本は現代の台詞回しの中に、部分的な見せ場だけ大芝居を混ぜたようになっていたと思います。
もとは、見得を切るような大芝居として書かれた脚本を、きちんと再構成する訳でもなく、安易に普通の会話のように流しているのがとても居心地が悪かった。そして、主演のタニちゃんを含め、ほとんどの生徒さんは大きな台詞はネイティブではなかった^^;
知らない地方の方言か外国語を無理矢理喋っているように不自然な気がしました。
今後また柴田作品の再演をするならば、あの不自然な形になる可能性が高い気がするので。
とうこさんがキっと見得を切ったのが、ばしっと決まった!うわー、カッコいい!…というようなものは、もう見れないかもなーと思ったのでした。見得じゃなくて、キメ台詞・キメ目線のようになる気がしたんですよね、イマドキの生徒さん達は。
私は演劇の知識などは無いので、あくまでCSで過去作品を見ての感想です。間違いがあっても分からないので、すみませんm(__)m
また、柴田作品を見たな〜という感慨が大きかったのは、この作品がいかにも柴田先生にありがちな要素を全部持っていたから。
まずは、「貴族」と「平民」のお話である事。
私が見たほとんどの柴田作品は、「貴族の虚しさ」を描く為に平民の「いきいきとした生活」を描いていました。その反面、虐げられた平民の苦しさと怒りを描く為に、貴族の傲慢と冷酷さを、常に並べて見せていた。
私は「赤と黒」の原作を読んでいないので、どの程度柴田先生のアレンジが入っているのかわからないのですが。
この作品はまさに、貴族の傲慢の為に消えていく、純粋な平民の青年の悲しさを描いた作品で。「わー、柴田作品だ!」と、思いました。
そして、もう一つ。
柴田先生は、常に「女性」を描く作家なんだなーと。
女性の愚かさや、心の奥にとどめる事の出来ない情欲のようなもの抱いた、清らかなだけでは無い女性達。
対するのは決してヒーローではない、様々な葛藤と弱さを抱えた男達。
華やかな舞台、ドラマチックな物語の中の、生々しい心を抱えた男と女。
女性達をしっかりと魅力的に描く事で、虚構の世界の「宝塚」の舞台で、リアルに「心」を表現する作家なんだ、と。改めて柴田作品の力を思い知ったのでした。
というのも、やはり今回の二人のヒロインがそれぞれに魅力的であったからです。
…という話は、また^^;
久しぶりに、純粋な宝塚の古典作品を堪能したなーと、思いました。もう、こんなバリバリの古典作品を宝塚で見る事はできないだろう…と。
古典文学としても、宝塚の古典劇としても。
それほどの潔さで、トウコさんが頑張ってくれたように感じました。
最近CS放送で過去の作品の映像を見ていて、初めて気付いたのですが。
80年代くらいまでの宝塚では、洋物の作品でも、ドレスを着るような年代の作品は「時代物」扱いの“大芝居”で演じられていたんですね。
私が宝塚ファンになった頃には既に“大芝居”は、日本物と「ベルサイユのばら」「風と共に去りぬ」のような植田作品にしか残っていないものでした。おそらくは、小池氏・石田氏・正塚氏あたりの世代の演出家陣の先生方が、変革していったのだと思いますが。
ただ、その当時のメインキャストの生徒さん達は、一応“大芝居”の経験はあり、その技術は持っていたのですが。
でも、最近の生徒さん達はもう、あの“大きな台詞”が喋れないんだな、と思う事が最近度々ありまして。
作品の影響もあり、花・月は割りと早くに“大芝居”から脱却したイメージがあります。
そして、なんとなくですが、“大芝居”をできる境目は、花組月組、そして宙組さんは77期くらいなのではないかと思うのです。
月組でいえば、多分本公演では天海さん時代の「風と共に去りぬ」が最後かな?と思いますし。新公含め、あの大きい台詞で、大劇場で会話した経験がある期、という事で。勿論、「なんでもできる霧矢さん」のように、例外の方はいらっしゃいますが。
雪組・星組さんは、日本物や「ベルばら」が何度かあるので、もう少し下の期の生徒さんまで大丈夫そう。それでもある程度以下の学年の生徒さんは、取って付けたような台詞になってしまう気がします。
なんというか、ネイティブな言葉ではないんですね^^;
でも、“大芝居の型”というものは、強調したい部分を極限まで大きく見せる為に、長い時間をかけて作られたもの。
キチンとできれば、効果は大きいものなんだなーと、今回改めて思いました。
あの大きな台詞をキチンとこなして、“大芝居”の中に「真実のハート」を込めて芝居ができる生徒さんは、もう残り少ない。
その残っている生徒さんの中でも、最高クラスの技術とハートを持ったトウコさんの主演で、この作品を見る事ができた本当に良かった。
柴田先生の古典文学作品を、宝塚の舞台でこの水準で見る事は、この先はもう無いかもしれない。
先日の宙組さんの「バレンシアの熱い花」では、基本は現代の台詞回しの中に、部分的な見せ場だけ大芝居を混ぜたようになっていたと思います。
もとは、見得を切るような大芝居として書かれた脚本を、きちんと再構成する訳でもなく、安易に普通の会話のように流しているのがとても居心地が悪かった。そして、主演のタニちゃんを含め、ほとんどの生徒さんは大きな台詞はネイティブではなかった^^;
知らない地方の方言か外国語を無理矢理喋っているように不自然な気がしました。
今後また柴田作品の再演をするならば、あの不自然な形になる可能性が高い気がするので。
とうこさんがキっと見得を切ったのが、ばしっと決まった!うわー、カッコいい!…というようなものは、もう見れないかもなーと思ったのでした。見得じゃなくて、キメ台詞・キメ目線のようになる気がしたんですよね、イマドキの生徒さん達は。
私は演劇の知識などは無いので、あくまでCSで過去作品を見ての感想です。間違いがあっても分からないので、すみませんm(__)m
また、柴田作品を見たな〜という感慨が大きかったのは、この作品がいかにも柴田先生にありがちな要素を全部持っていたから。
まずは、「貴族」と「平民」のお話である事。
私が見たほとんどの柴田作品は、「貴族の虚しさ」を描く為に平民の「いきいきとした生活」を描いていました。その反面、虐げられた平民の苦しさと怒りを描く為に、貴族の傲慢と冷酷さを、常に並べて見せていた。
私は「赤と黒」の原作を読んでいないので、どの程度柴田先生のアレンジが入っているのかわからないのですが。
この作品はまさに、貴族の傲慢の為に消えていく、純粋な平民の青年の悲しさを描いた作品で。「わー、柴田作品だ!」と、思いました。
そして、もう一つ。
柴田先生は、常に「女性」を描く作家なんだなーと。
女性の愚かさや、心の奥にとどめる事の出来ない情欲のようなもの抱いた、清らかなだけでは無い女性達。
対するのは決してヒーローではない、様々な葛藤と弱さを抱えた男達。
華やかな舞台、ドラマチックな物語の中の、生々しい心を抱えた男と女。
女性達をしっかりと魅力的に描く事で、虚構の世界の「宝塚」の舞台で、リアルに「心」を表現する作家なんだ、と。改めて柴田作品の力を思い知ったのでした。
というのも、やはり今回の二人のヒロインがそれぞれに魅力的であったからです。
…という話は、また^^;
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