愛する人の幸せが自分の幸せでなかった時−舞姫−その1
2008年4月3日 花組CSで、「舞姫」バウの放送がるんですね♪
バウはどんなふうに違ったのか、見るのが楽しみです。
さて、その前に青年館の感想を書いておくべきではないのか?と思いまして。
また、いつものように、細切れですが。
合言葉は「できる事から少しずつ」で(^^ゞ
「舞姫」を見て最初に思ったのは、森鴎外の「舞姫」が、こんなにも「THE LAST PARTY」と似た関係性の物語とは、思いもよらなかったという事。
本当にびっくりしました。
スコットとゼルダとヘミングウェイ。
豊太郎とエリスと相沢。
それぞれの関係が、そっくりなんですね。違うのは、相沢が直接にエリスに「別れて欲しい」と頼む事ですね。
ラスト、車椅子のエリスを見て「ああ、ゼルダ…」と思いました。
最初は景子先生の引き出しで同じものが出てしまったのかと思ったのですが、色々考えてみると、あれは意図的にゼルダのイメージを引用したのかなーとも思えたり。
エリスの狂気とゼルダの狂気は、同質のものだ…というのが、景子先生の解釈なのかな、と思いまして。
「HOLLYWOOD LOVER」を見た時に思ったのは、植田景子氏は作品を通して同じ問いかけを繰り返しているという事でした。
愛し合っているのに、理解しあえない人々の痛みを
裏切る事、裏切られる事、そして許すことの痛みを
自分より恵まれた才能に憧れ、自分を否定してしまう事の痛みを
ゼルダとスコットも、エリスと豊太郎も、愛し合ってはいるけれど理解しあえない二人。
ゼルダはスコットの小説世界を、エリスは日本人としての豊太郎を、理解するのは不可能な事で。
そして、スコットも豊太郎も、彼女達の孤独と狂気が見えていない。
人を愛するのは孤独な事だな、と彼女達を見て改めて思いました。
エリスが恐れる「時計」の音。
時計というのは、やはり「時間」の象徴だと思うのですが。
豊太郎の「時間」を奪っている事に怯えているのか。
彼と過ごせる時間が限られたものだとわかっていて、終わりの時を怖れているのか。
最終的には「時が、止まった…」に繋がる、時への恐怖。
劇中では、特にその「時」に繋がる複線は無かったように思うのですが…。
二回しか見てないから、見落としてるのかな?どなたかお心あたりがあったらお教えくださいm(__)m
まあ、豊太郎との出会いが懐中時計を質に入れてお金を作ったことというのが、いずれは離れる時を象徴しているのかな?
質屋にお金を返して、時計を取り戻すように。
彼は日本に帰るべき人…どんなに言葉を尽しても、エリスにもそれはよく分かっていた事なのでしょう。というのは、私にも分かるんですけどね。
相手に幸せであって欲しい。相手が望むままに行動して、その望みを叶えて欲しい。
それは、人を愛すれば当然の事。
相手が幸せである事が、自分の幸せ。
誰もが思う事だけれども。
…でも相手は、どんなに愛しても、決して理解できない人。
その幸せがどういう事なのか、わからない場合は?
そして、その望みを叶える為には、自分がそばにいるのが邪魔だったら?
自分自身よりも大切とも思う相手の幸せを、自分が見る事はできないとしたら…それは、とても孤独なこと。
その深い孤独と、強すぎる愛が、彼女達を狂気の淵に誘いこむ。
彼女達のように純粋ではなくても、そんなふうに「愛する人の幸せが自分の幸せではない」という孤独は、誰もが持ちうる普遍的なものだと思います。エリス達のように極端な例じゃなくても、普通は、相手の心がちゃんと理解できるなんて事は、有得ませんし、同じ状態を幸せと思う恋人達はとても少ないでしょう。
違う人間なのだから、当然の事です。
ただ、普通は日常生活の中で折り合いを付けながら紛らわせて、耐えていくしかないのだけれど…。
「HOLLYWOOD LOVER」の8年前のローズも、そんな孤独を持て余してステファーノから逃げ出してしまったのだろうと思っています。
そしてゼルダやエリスは、その孤独を拒否した為に、現実世界を拒絶したのだろうなーと思うのです。
さて、次は「裏切り」について。いつになるのかは、不明ですが^^;
バウはどんなふうに違ったのか、見るのが楽しみです。
さて、その前に青年館の感想を書いておくべきではないのか?と思いまして。
また、いつものように、細切れですが。
合言葉は「できる事から少しずつ」で(^^ゞ
「舞姫」を見て最初に思ったのは、森鴎外の「舞姫」が、こんなにも「THE LAST PARTY」と似た関係性の物語とは、思いもよらなかったという事。
本当にびっくりしました。
スコットとゼルダとヘミングウェイ。
豊太郎とエリスと相沢。
それぞれの関係が、そっくりなんですね。違うのは、相沢が直接にエリスに「別れて欲しい」と頼む事ですね。
ラスト、車椅子のエリスを見て「ああ、ゼルダ…」と思いました。
最初は景子先生の引き出しで同じものが出てしまったのかと思ったのですが、色々考えてみると、あれは意図的にゼルダのイメージを引用したのかなーとも思えたり。
エリスの狂気とゼルダの狂気は、同質のものだ…というのが、景子先生の解釈なのかな、と思いまして。
「HOLLYWOOD LOVER」を見た時に思ったのは、植田景子氏は作品を通して同じ問いかけを繰り返しているという事でした。
愛し合っているのに、理解しあえない人々の痛みを
裏切る事、裏切られる事、そして許すことの痛みを
自分より恵まれた才能に憧れ、自分を否定してしまう事の痛みを
ゼルダとスコットも、エリスと豊太郎も、愛し合ってはいるけれど理解しあえない二人。
ゼルダはスコットの小説世界を、エリスは日本人としての豊太郎を、理解するのは不可能な事で。
そして、スコットも豊太郎も、彼女達の孤独と狂気が見えていない。
人を愛するのは孤独な事だな、と彼女達を見て改めて思いました。
エリスが恐れる「時計」の音。
時計というのは、やはり「時間」の象徴だと思うのですが。
豊太郎の「時間」を奪っている事に怯えているのか。
彼と過ごせる時間が限られたものだとわかっていて、終わりの時を怖れているのか。
最終的には「時が、止まった…」に繋がる、時への恐怖。
劇中では、特にその「時」に繋がる複線は無かったように思うのですが…。
二回しか見てないから、見落としてるのかな?どなたかお心あたりがあったらお教えくださいm(__)m
まあ、豊太郎との出会いが懐中時計を質に入れてお金を作ったことというのが、いずれは離れる時を象徴しているのかな?
質屋にお金を返して、時計を取り戻すように。
彼は日本に帰るべき人…どんなに言葉を尽しても、エリスにもそれはよく分かっていた事なのでしょう。というのは、私にも分かるんですけどね。
相手に幸せであって欲しい。相手が望むままに行動して、その望みを叶えて欲しい。
それは、人を愛すれば当然の事。
相手が幸せである事が、自分の幸せ。
誰もが思う事だけれども。
…でも相手は、どんなに愛しても、決して理解できない人。
その幸せがどういう事なのか、わからない場合は?
そして、その望みを叶える為には、自分がそばにいるのが邪魔だったら?
自分自身よりも大切とも思う相手の幸せを、自分が見る事はできないとしたら…それは、とても孤独なこと。
その深い孤独と、強すぎる愛が、彼女達を狂気の淵に誘いこむ。
彼女達のように純粋ではなくても、そんなふうに「愛する人の幸せが自分の幸せではない」という孤独は、誰もが持ちうる普遍的なものだと思います。エリス達のように極端な例じゃなくても、普通は、相手の心がちゃんと理解できるなんて事は、有得ませんし、同じ状態を幸せと思う恋人達はとても少ないでしょう。
違う人間なのだから、当然の事です。
ただ、普通は日常生活の中で折り合いを付けながら紛らわせて、耐えていくしかないのだけれど…。
「HOLLYWOOD LOVER」の8年前のローズも、そんな孤独を持て余してステファーノから逃げ出してしまったのだろうと思っています。
そしてゼルダやエリスは、その孤独を拒否した為に、現実世界を拒絶したのだろうなーと思うのです。
さて、次は「裏切り」について。いつになるのかは、不明ですが^^;
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