「A-“R”ex」-或る“王”の話- その3
2008年1月16日 月組この作品を見た時、以前に久世星佳さんが出演したので見た、別役実の「マッチ売りの少女」という芝居と、倉橋由美子の小説を思い出しました。
共通点は、登場人物に名前が無い事。
時も場所も明確な設定は観客には明かされず、ただ状況に即した会話だけが繰り広げられるなかで、人間の普遍的なものを問いかけたり、表現したりする…というもの。
いつか、どこかの町で。或る男性と、或る女性が会話を交わす。観客はワケがわからないまま、次第に濃密になっていくドラマに翻弄される。
多分、60年代から70年代くらいに使われた「不条理劇」の手法なのかな?演劇では、今でも普通に使われますよね、多分。
倉橋由美子の60年代から70年代頃の小説では、キャラクターが「A氏」等で表記されるものがあります。
でも、宝塚では“A”といえば、“ヒッピーA”、“王A”というようにショーの役名ですよね。
なるほどなーと、面白くて。
そのズレを、上手く使ったのがこの「A-“R”ex」という作品なんじゃないかなー、と思ったんです。
作品中の人間達のキャラクターは、いつか何処かの芝居に出演している、ある役者“A”。
けれどそれを演じているのは、宝塚の男役「瀬奈じゅん」で、この場面の役名は“王A”(トップさんだから“S”の方がいいんだけど、A-“R”exだから^^;)
他の出演者は、役名“ヒッピーA”の「龍真咲」であり「綾月せり」である。
もともと設定などないのだから、「役」として“芝居”をする事は不可能なんですね。
誰でもない、“或る役者”、“或る王”だから、それを演じるには「瀬奈じゅん」や「龍真咲」が、そのままで舞台に立つしかない。
演劇では「不条理劇」として表現されるものが、宝塚で同じ事をやると、それは限りなくショーに近い芝居になる。
この作品、「宝塚的じゃないから外部でやればよかったのに」というような声もあったようですが、その外部の演劇と宝塚との“ズレ”こそが、オギーの狙った所じゃないかな、と思いまして。
だからこそ、この作品の主役は“ショースター”「瀬奈じゅん」に宛てて書かれたんだと思います。
解りやすいからヒッピーで書いていますが、神々の三人も同じ事です。舞台にいるのは、ディオの台詞を喋る「霧矢大夢」だと思うのですが。
この作品、もともとアイディアがあって「瀬奈じゅん」主演をオギーが担当する事になった時、持っているアイデアストックの中から一番彼女に合うものとして選んだのではないか、と思います。
もともと先にアイディアがあったんじゃないかと思うのは、このアイディアは「霧矢大夢」には合っていなかったから。
キャラクターの方向性として、誘惑者・狂気の神…というのが、まず全く合わないとは誰しも感じる事だと思うのですが^^;
まあ、いつでも「又七っつぁん」ばかりをやるワケにはいかないので、そこまでは仕方のない事として。
「霧矢大夢」のまま、限りなくショーに近い芝居、というのが合わなかったと思うんですよね。
本能的に“情”で芝居をするタイプの役者さんには、やりにくい事だったような気がしました。このメンバーのなかではきりやんと、響れおなちゃんは、どうもあの作品世界と上手く馴染んではいなかったように思えました。
さすがに実力者のきりやんは、なんとか技術でねじ伏せていましたが。
でも、きりやんの持つ芝居の魅力は封印されてしまった気がしました。
歌と台詞の上手さは、もう文句無く圧倒的だったので、これも一つの経験…というしか無いでのしょうけれども。
かなみちゃんのニケは、娘役ならたいていの人は合いそうな存在だったので、良かったと思います。これが、檀ちゃんやみどりちゃんのような情の強い芝居をする娘役さんだったら、やはりちょっと合わなかったと思いますけどね。
そして、ただ一人「人間」としてのドラマを背負っていた「母親」オリンピアスを除き、全員が劇中劇の“或る役者”として、幻影のようなショーのような世界を作るこの舞台。
間違いなく「瀬奈じゅん」の為に宛書きされた作品、なんだと思います。
あ、前回書いたように、物語の中心となる「アレックス」は、一見孤独に傷付いた男にみえて、実は誰も愛さず、故に誰からも愛されず、自分の目的の為に周りの人間を欺き、利用しては捨て去る…という怖い人間だと思うので。
或る役者が演じている「アレックス」の利己的で冷酷な男の部分は、宛て書きでは有り得ないと思うのですが^^;
ショースターの延長として、この二重三重の仕掛けを力づくで押し通す「瀬奈じゅん」のパワーを利用した、オギーの勝利、かな?
共通点は、登場人物に名前が無い事。
時も場所も明確な設定は観客には明かされず、ただ状況に即した会話だけが繰り広げられるなかで、人間の普遍的なものを問いかけたり、表現したりする…というもの。
いつか、どこかの町で。或る男性と、或る女性が会話を交わす。観客はワケがわからないまま、次第に濃密になっていくドラマに翻弄される。
多分、60年代から70年代くらいに使われた「不条理劇」の手法なのかな?演劇では、今でも普通に使われますよね、多分。
倉橋由美子の60年代から70年代頃の小説では、キャラクターが「A氏」等で表記されるものがあります。
でも、宝塚では“A”といえば、“ヒッピーA”、“王A”というようにショーの役名ですよね。
なるほどなーと、面白くて。
そのズレを、上手く使ったのがこの「A-“R”ex」という作品なんじゃないかなー、と思ったんです。
作品中の人間達のキャラクターは、いつか何処かの芝居に出演している、ある役者“A”。
けれどそれを演じているのは、宝塚の男役「瀬奈じゅん」で、この場面の役名は“王A”(トップさんだから“S”の方がいいんだけど、A-“R”exだから^^;)
他の出演者は、役名“ヒッピーA”の「龍真咲」であり「綾月せり」である。
もともと設定などないのだから、「役」として“芝居”をする事は不可能なんですね。
誰でもない、“或る役者”、“或る王”だから、それを演じるには「瀬奈じゅん」や「龍真咲」が、そのままで舞台に立つしかない。
演劇では「不条理劇」として表現されるものが、宝塚で同じ事をやると、それは限りなくショーに近い芝居になる。
この作品、「宝塚的じゃないから外部でやればよかったのに」というような声もあったようですが、その外部の演劇と宝塚との“ズレ”こそが、オギーの狙った所じゃないかな、と思いまして。
だからこそ、この作品の主役は“ショースター”「瀬奈じゅん」に宛てて書かれたんだと思います。
解りやすいからヒッピーで書いていますが、神々の三人も同じ事です。舞台にいるのは、ディオの台詞を喋る「霧矢大夢」だと思うのですが。
この作品、もともとアイディアがあって「瀬奈じゅん」主演をオギーが担当する事になった時、持っているアイデアストックの中から一番彼女に合うものとして選んだのではないか、と思います。
もともと先にアイディアがあったんじゃないかと思うのは、このアイディアは「霧矢大夢」には合っていなかったから。
キャラクターの方向性として、誘惑者・狂気の神…というのが、まず全く合わないとは誰しも感じる事だと思うのですが^^;
まあ、いつでも「又七っつぁん」ばかりをやるワケにはいかないので、そこまでは仕方のない事として。
「霧矢大夢」のまま、限りなくショーに近い芝居、というのが合わなかったと思うんですよね。
本能的に“情”で芝居をするタイプの役者さんには、やりにくい事だったような気がしました。このメンバーのなかではきりやんと、響れおなちゃんは、どうもあの作品世界と上手く馴染んではいなかったように思えました。
さすがに実力者のきりやんは、なんとか技術でねじ伏せていましたが。
でも、きりやんの持つ芝居の魅力は封印されてしまった気がしました。
歌と台詞の上手さは、もう文句無く圧倒的だったので、これも一つの経験…というしか無いでのしょうけれども。
かなみちゃんのニケは、娘役ならたいていの人は合いそうな存在だったので、良かったと思います。これが、檀ちゃんやみどりちゃんのような情の強い芝居をする娘役さんだったら、やはりちょっと合わなかったと思いますけどね。
そして、ただ一人「人間」としてのドラマを背負っていた「母親」オリンピアスを除き、全員が劇中劇の“或る役者”として、幻影のようなショーのような世界を作るこの舞台。
間違いなく「瀬奈じゅん」の為に宛書きされた作品、なんだと思います。
あ、前回書いたように、物語の中心となる「アレックス」は、一見孤独に傷付いた男にみえて、実は誰も愛さず、故に誰からも愛されず、自分の目的の為に周りの人間を欺き、利用しては捨て去る…という怖い人間だと思うので。
或る役者が演じている「アレックス」の利己的で冷酷な男の部分は、宛て書きでは有り得ないと思うのですが^^;
ショースターの延長として、この二重三重の仕掛けを力づくで押し通す「瀬奈じゅん」のパワーを利用した、オギーの勝利、かな?
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