「A-“R”ex」-或る“王”の話- その2
2008年1月15日 月組 コメント (2)さて、作品について。公演が終わったので、ネタばれもしてしまいます。
「A-“R”ex」というタイトルは、「或る“王”」という意味なんですよね。見終わった後、改めて、成る程なーと思いました。
アレクサンダーを題材にしているけれども、本当のところ、語られているのは誰でもない。その為に劇中劇という体裁をとって、そこで語られるのはあくまでも「或る“王”」の話。ある、孤独な王の物語。
王である為の孤独。王であるからこその孤独。…孤独の為に王である、男の物語。
幕開きに「みんながいいなら」という台詞の後に登場したアレックスは、最初から孤独な男である事を見せ続ける。
印象的なのは、多くの人が何度も繰り返しアレックスに語りかける「王である事だけが、あなたの存在の意味」という台詞。
多くの人に王である事だけを望まれ、王である彼しか必要とされない、その孤独。
彼を利用しようとする神々も、自分の感情を押し付けるだけの両親も、誰も、彼そのものを見ない。理解しようとも、愛そうともしない。
そんな彼の孤独が淡々と描かれる。
そして王になる事と、戦に行く事は同じ事で。誰一人、彼の身を案ずる事もなく前線に立つ事を望まれ、最高指揮官として兵を率いる責任を押し付けられる。周りの人々の言葉の言いなりになるしかない事への抵抗感は、孤独と絶望と虚無感となって彼を痛めつける。
そしてここで気づくのは、役名に「ヒッピー」と書かれてない父や教師も含めて、彼をとりまく人間のキャラクター達はみんなアンサンブルである事。すべての人間たちは、アレックスの状況を説明する為だけに存在する、実体を持たない幻影。
これは作劇の上の事だけではなく、アレックスにとっては、どの人物も一人の人間としての重みを持たない。彼は誰にも心を開く事がない。
…ただ一人だけ、「母親」オリンピアスだけを除いて。
この作品の中では、オリンピアスだけがドラマを背負った一人の人間として登場し、ただ一人、人間としての“芝居”をする。
そしてアレックスは、彼女にだけは激しい感情をぶつける。彼を傷付けられるのは、この「母親」のみなんですね。
彼の心には、母の他には影響を与えられる人間はいないという、更なる孤独。
そして、その母をも捨て去って、彼は戦いの旅に出る。
ただ一人、彼の心の在り処に興味を示した“影”ディオは、彼に色々と問いかけ、彼の心を観客に語らせる為の存在。
ただ一人、彼に何も求めず、そばにいると語りかける“翼”ニケは、彼の心を安らかにして彼の物語を進める為の存在。
アテナは、まあ、言わずもがな。物語の枠組みを説明する存在。
そんな、この作品の形が見えてきたところで、物語はインドに行き着く。
ペルシアを征服した後に、やっと辿り着いたインド。無理な戦いを重ねて兵は疲れ、これ以上戦う事ができない、となった時。
舞台の大詰め、とうとう、アレックスの本心が明かされる。
アレックスは、誰も見た事のない所に、世界の果てに行きたかった。その為に、神々の思惑を利用した。
驚愕のどんでん返し。
今まで、多くの人々から利用され、嫌々人々の思惑に動かされているように見せかけて…その実。
それはすべて、アレックス自身が望んだ事だった?
でも、それならば。
世界の果てを目指す、という自分の望みをかなえる為には、彼は“王”である必要があった。
そして、戦い、勝ち続け、征服し続けなければならなかった。
本当は、彼は強く強く、王である事、戦い続ける事を望んでいた。その望みを叶える為に、神も人も全てを欺いていたという事?
「みんながいいなら」と、まるで受身の状態のように見せかけて、本当はアレックス自身の強い意志が周りの人々を動かしていた?
彼自身だけでなく、周りの人々が無理なく彼と供に世界の果てまで戦い続けるように。
嫌々周りの思惑に従っているような、芝居をしていたんだ。
物語の主人公が、更に周りに芝居を仕掛けていたというトリック。なーるほど。
普通は主人公が周りの人間達を騙す場合、独白等で観客にそれを告げるもの。そして、その騙していく過程を芝居として見せるものですが、この芝居では観客にも真意を見せていなかっただけの事。簡単なトリックなんですけどね。
と、いうことは。
本当は彼は“王”である必要があった。
世界の果てを見る為に、「王である事だけが、生きる意味」だったのだ。それを望んでいたのは、彼自身。
ややこしい人間達を全て拒否して、誰にも心を開かなかったのも、彼。
周りの人間達に対して、王としてある事だけを望んで、王としてある自分しか必要としなかったのも、本当は彼のほうだったんだ。
それが彼の孤独と虚無感の正体。
登場したどの人物も、一人の人間としての重みを持たない。彼は誰にも心を開く事がない。
それは、彼が、誰の事も見ていないから。理解しようとも、愛そうともしないから。
今まで描かれた彼の孤独は、本当は誰からも愛されない孤独ではなく、誰の事も愛する事ができない、孤独だった。
人間、自分の行いを相手からも返されるもの。
自分が愛さないから、人から愛されなかった、それだけの事。
なんという、空虚な人間、アレックス!
戦い続ける事ができなくなれば、ただの空っぽな人間になってしまったアレックス。
もはや周りの人間にとっては、彼は、空っぽな…誰でもない男。
孤独な、或る“王”、でしかない。
そんな真実を語り終えると、彼は一人、退場する。
残された神々、ディオとアテナが語りだし、一気に物語を収束させる。
結末が神の語りのみである事にも、またびっくり。何処の植田景子作品かと思いました。「結局、人は人でしかない」とか、言い出すのかと思ったけど(^^ゞ
そして、エピローグ。
アレックスのもとに、ロクサーヌとなったニケが現れる。
「これはハッピーエンドなのか?」と、問いかけるアレックスに、思わず先程のディオの台詞を思い出す。
「問いかける、という時点で、すでに答えは出ている。答えは否だ。」
空っぽなアレックスは、人を求めない、愛さない。だから人に、愛に、満たされる事もない。
人間となったロクサーヌの事は、どうだろう?
それは語られず、物語は終わりを告げる。
ただ、もはや、この二人は劇中劇の体裁は取らない。それがどういう意味なのかは…、ちょっと一回の観劇では解らなかったけど。
ともかく、膨大な台詞を聞き逃さないように頑張って、理解できたのはここまで。
何回か見れば、もうちょっと深く理解できたのかなーとも思うのですが。
この先の考察は、またこの次に。
「A-“R”ex」というタイトルは、「或る“王”」という意味なんですよね。見終わった後、改めて、成る程なーと思いました。
アレクサンダーを題材にしているけれども、本当のところ、語られているのは誰でもない。その為に劇中劇という体裁をとって、そこで語られるのはあくまでも「或る“王”」の話。ある、孤独な王の物語。
王である為の孤独。王であるからこその孤独。…孤独の為に王である、男の物語。
幕開きに「みんながいいなら」という台詞の後に登場したアレックスは、最初から孤独な男である事を見せ続ける。
印象的なのは、多くの人が何度も繰り返しアレックスに語りかける「王である事だけが、あなたの存在の意味」という台詞。
多くの人に王である事だけを望まれ、王である彼しか必要とされない、その孤独。
彼を利用しようとする神々も、自分の感情を押し付けるだけの両親も、誰も、彼そのものを見ない。理解しようとも、愛そうともしない。
そんな彼の孤独が淡々と描かれる。
そして王になる事と、戦に行く事は同じ事で。誰一人、彼の身を案ずる事もなく前線に立つ事を望まれ、最高指揮官として兵を率いる責任を押し付けられる。周りの人々の言葉の言いなりになるしかない事への抵抗感は、孤独と絶望と虚無感となって彼を痛めつける。
そしてここで気づくのは、役名に「ヒッピー」と書かれてない父や教師も含めて、彼をとりまく人間のキャラクター達はみんなアンサンブルである事。すべての人間たちは、アレックスの状況を説明する為だけに存在する、実体を持たない幻影。
これは作劇の上の事だけではなく、アレックスにとっては、どの人物も一人の人間としての重みを持たない。彼は誰にも心を開く事がない。
…ただ一人だけ、「母親」オリンピアスだけを除いて。
この作品の中では、オリンピアスだけがドラマを背負った一人の人間として登場し、ただ一人、人間としての“芝居”をする。
そしてアレックスは、彼女にだけは激しい感情をぶつける。彼を傷付けられるのは、この「母親」のみなんですね。
彼の心には、母の他には影響を与えられる人間はいないという、更なる孤独。
そして、その母をも捨て去って、彼は戦いの旅に出る。
ただ一人、彼の心の在り処に興味を示した“影”ディオは、彼に色々と問いかけ、彼の心を観客に語らせる為の存在。
ただ一人、彼に何も求めず、そばにいると語りかける“翼”ニケは、彼の心を安らかにして彼の物語を進める為の存在。
アテナは、まあ、言わずもがな。物語の枠組みを説明する存在。
そんな、この作品の形が見えてきたところで、物語はインドに行き着く。
ペルシアを征服した後に、やっと辿り着いたインド。無理な戦いを重ねて兵は疲れ、これ以上戦う事ができない、となった時。
舞台の大詰め、とうとう、アレックスの本心が明かされる。
アレックスは、誰も見た事のない所に、世界の果てに行きたかった。その為に、神々の思惑を利用した。
驚愕のどんでん返し。
今まで、多くの人々から利用され、嫌々人々の思惑に動かされているように見せかけて…その実。
それはすべて、アレックス自身が望んだ事だった?
でも、それならば。
世界の果てを目指す、という自分の望みをかなえる為には、彼は“王”である必要があった。
そして、戦い、勝ち続け、征服し続けなければならなかった。
本当は、彼は強く強く、王である事、戦い続ける事を望んでいた。その望みを叶える為に、神も人も全てを欺いていたという事?
「みんながいいなら」と、まるで受身の状態のように見せかけて、本当はアレックス自身の強い意志が周りの人々を動かしていた?
彼自身だけでなく、周りの人々が無理なく彼と供に世界の果てまで戦い続けるように。
嫌々周りの思惑に従っているような、芝居をしていたんだ。
物語の主人公が、更に周りに芝居を仕掛けていたというトリック。なーるほど。
普通は主人公が周りの人間達を騙す場合、独白等で観客にそれを告げるもの。そして、その騙していく過程を芝居として見せるものですが、この芝居では観客にも真意を見せていなかっただけの事。簡単なトリックなんですけどね。
と、いうことは。
本当は彼は“王”である必要があった。
世界の果てを見る為に、「王である事だけが、生きる意味」だったのだ。それを望んでいたのは、彼自身。
ややこしい人間達を全て拒否して、誰にも心を開かなかったのも、彼。
周りの人間達に対して、王としてある事だけを望んで、王としてある自分しか必要としなかったのも、本当は彼のほうだったんだ。
それが彼の孤独と虚無感の正体。
登場したどの人物も、一人の人間としての重みを持たない。彼は誰にも心を開く事がない。
それは、彼が、誰の事も見ていないから。理解しようとも、愛そうともしないから。
今まで描かれた彼の孤独は、本当は誰からも愛されない孤独ではなく、誰の事も愛する事ができない、孤独だった。
人間、自分の行いを相手からも返されるもの。
自分が愛さないから、人から愛されなかった、それだけの事。
なんという、空虚な人間、アレックス!
戦い続ける事ができなくなれば、ただの空っぽな人間になってしまったアレックス。
もはや周りの人間にとっては、彼は、空っぽな…誰でもない男。
孤独な、或る“王”、でしかない。
そんな真実を語り終えると、彼は一人、退場する。
残された神々、ディオとアテナが語りだし、一気に物語を収束させる。
結末が神の語りのみである事にも、またびっくり。何処の植田景子作品かと思いました。「結局、人は人でしかない」とか、言い出すのかと思ったけど(^^ゞ
そして、エピローグ。
アレックスのもとに、ロクサーヌとなったニケが現れる。
「これはハッピーエンドなのか?」と、問いかけるアレックスに、思わず先程のディオの台詞を思い出す。
「問いかける、という時点で、すでに答えは出ている。答えは否だ。」
空っぽなアレックスは、人を求めない、愛さない。だから人に、愛に、満たされる事もない。
人間となったロクサーヌの事は、どうだろう?
それは語られず、物語は終わりを告げる。
ただ、もはや、この二人は劇中劇の体裁は取らない。それがどういう意味なのかは…、ちょっと一回の観劇では解らなかったけど。
ともかく、膨大な台詞を聞き逃さないように頑張って、理解できたのはここまで。
何回か見れば、もうちょっと深く理解できたのかなーとも思うのですが。
この先の考察は、またこの次に。
コメント
素晴らしい考察です。なんか、なんか、もう私、考察するのやめようかな、と思うくらい、説得力があります。
それにしても、オギーの作品は悩む価値がありますね♪
コメントありがとうございます。
そんな〜、夜野さまの考察、楽しみにお待ちしています!
本当に、オギーの作品は悩んでしまうので、できるだけ多くの人の感想を読みたいです。よろしくお願いします